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「多様性の尊重」というスローガンは捨てた方が良い件

やたらと使われる「多様性の尊重」

現在、「多様性の尊重」というスローガンは、政府の文書から個人の会話まで、至るところで目につくようになっています。経済、雇用、福祉、教育その他、あらゆる分野で「多様性の尊重」という言葉が使われるようになりました。

これについて今回の記事では、この「多様性の尊重」というスローガン自体に重大な問題があり、むやみに使わない方が良いということを説明します。(念のためいうと、「多様性を尊重すること自体がいけない」という真逆の主張をしたいというわけではありません。)

多様な「状態」を尊重すれば良いのか?

まず言葉そのものを眺めてみましょう。「多様性」を「尊重」するというわけですから、当たり前の話ですがここで尊重すべきとされているのは「多様性」です。「多様性」とは物事の性質とか状態ですから、結局は何らかの性質や状態を尊重しろと言っているわけです。

学校の制服問題で考えてみる

一つわかりやすい例を挙げてみます。ある中学校か高校で、生徒の制服着用が義務づけられていたけれども、その義務を撤廃して私服も可能にするように校則を改正したとしましょう。こういう局面で「多様性を尊重するべきだ、だから制服義務づけを撤廃しよう」という言い方は間違いなく出てくると思われます。(制服を使わせることは貧富の差を目立たせない効果があるとか、そういう別視点の議論はここでは立ち入りません。)

特に問題ないではないかと思うかも知れませんが、ここで立ち止まって考えてみましょう。この事例で尊重されるべきなのは、「多様性」なのでしょうか。確かに制服を撤廃すれば、生徒の服装は「多様」になり、服装の多様性が尊重されて実現するでしょう。

服装の多様性の問題ではなく生徒の自由の問題

しかしこの発想は、どこかおかしくありませんか?大切なのは「服装の多様性」という「性質」「状態」なのでしょうか。そうではないでしょう。

この件で本当に重要なのは、服装そのものの多様性ではなく、生徒が服装を自分で選んで自由に決めることができることなのです。生徒が各自自由に服装を選んだ結果、ひょっとしたら似たような服装が多くなるかも知れません。その場合、あまり「多様」ではないことになりますが、それだったらまずいのでしょうか?もちろんそんなはずはありません。

このように考えると、この事例で制服を撤廃する理由として本当に重要なのは、実は「服装の多様性」などではなく「生徒の自由」だということになります。大切なのは服装ではなく人間なのですから、当たり前の話です。ところが「多様性の尊重」というスローガンばかりで頭がいっぱいになると、こういう当たり前のことを忘れて、「人間」ではなく「状態」を真っ先に大切なものだと思ってしまう危険があるのです。

多様性の問題ではなく教育を受ける権利の問題

もう一つの例を考えてみましょう。現在、外国にルーツを持つ親から生まれた日本国民や、外国籍の日本在住者の人々が増えているのは周知のとおりで、そういう子どもの公教育を充実させることも大きな課題となっています。

これも「多様性の尊重の観点から、教育を充実させねば」という言い方がされることがありますが、果たして適切な言い方といえるでしょうか。

公教育を受けるのは子どもの権利なのですから、このように公教育の対応策が求められるのは、個々の子どもの教育を受ける権利を保障するためであって、別に「多様性」という状態を「尊重」するのが目的ではないでしょう。

多様性の問題ではなく働く権利の問題

似たようなことは、障害者の就労支援などでもいえるでしょう。たとえば企業の事業所の施設をバリアフリーにするのは、「多様性を尊重」するためではなく、障害を持った労働者が安全に働く権利を保障するためなのです。

このように、「多様性の尊重」というスローガンにとらわれすぎると、人間の権利や自由という本質部分をいつの間にか忘れて、単なる「状態」「性質」を尊重すれば良いかのような、本末転倒で人間不在の発想になってしまう危険があるのです。

人間不在のおかしな「多様性の尊重」論

この「多様性の尊重」というスローガンに引っ張られて、人間不在の発想になってしまったグロテスクな例が、ネットでの議論でも見受けられるようになりました。

「犯罪や貧困もあるのが社会の多様性ではないのか」
「男尊女卑の文化や地域もあるのが多様性の尊重だ。すべての地域が男女平等になったら多様性がなくなるじゃないか」
「差別や偏見を全部否定したら多様性がなくなる」

こういう例はいくらでもネット上で見つけることができます。中には本気で言っているわけではなく、何かへの皮肉のつもりでわざと言っている例もあるようですが、いずれにしても「人間」ではなく「状態」を尊重するという逆立ちした発想に陥って、訳がわからなくなっているといえるでしょう。

結局は「個人の尊重」の問題

最後に、憲法にかかわる話をして結びとしましょう。日本国憲法では

第十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

と定めています(大日本帝国憲法には、このような条文はなかったことに注意してください。)
 要するに「多様性の尊重」ではなく「個人の尊重」が重要だったのです。人間は一人一人違う存在なのですから、個人というのは言うまでもなくもともと「多様」です。つまり「個人の尊重」は「多様な個人の尊重」というのとイコールであり、わざわざ「多様性」という言葉を使わなくても、「個人の尊重」と言えば良いだけだということなのです。

人間は一人一人違うものとして尊厳を持ち、尊重されねばならないという理念は、日本国憲法だけでなく、ドイツ基本法の第1条でもうたわれています。





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