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新たな改憲デマ=「私権制限に歯止めをかけるためには、憲法改正が必要」論にご注意!

崩壊してきた「今の憲法では私権制限できない」というデマ

新型コロナ危機が広まる中で、政界や言論界などでは
 「今の憲法では、コロナ対策のために必要な私権制限ができない。だから私権制限をするためには、改憲が必要だ」
「憲法を改正して緊急事態条項を作らないと、必要なコロナ対策ができない」

というたぐいの改憲論の主張が目立つようになったのは、ご存じのとおりです。(ここでの「私権制限」は、一応、憲法で保障された自由・権利の制限一般の意味で使っています。)

 このnoteでは、これまでこの種の主張がデタラメであることを何度も繰り返し説明してきました。

 ところが実際には、自粛への協力要請が行われ、さらに特別措置法が改正されるなどもあって
「憲法が改正されなくても私権制限はできているではないか?」
「"改憲しなければ私権制限できない"という主張は、一体何だったのか?」

などという疑問が当然、起こるようになってきています。

新たなデマ - 「私権制限に歯止めをかけるには、改憲して緊急事態条項を作ることが必要」

すると今度は次のように、違う理屈にもとづいた改憲論が出てくるようになりました。

 「今は、曖昧な形で政府による私権制限が行われており、過剰な規制になる恐れがある。
  私権制限の行き過ぎを防ぐためには、憲法を改正して緊急事態条項を導入し、『いつまで』『どこまで』私権制限をするのか明確にして、私権制限に対する歯止めを作る必要がある」

  つまり、最初のうちは「私権制限をするためには、憲法改正が必要」という話だったのに、いつのまにか「私権制限が行きすぎないように歯止めをかけるには、憲法改正が必要」という話にすり替わってきたのです。

  たとえば下記のAbemaTVの記事でも(様々な論者の発言や論点・切り口が入り混じっているので若干わかりにくいのですが)全体的な論調としては、前述の「ちゃんと改憲して緊急事態条項を導入することこそが、私権制限の行き過ぎに対する歯止めになる」というような流れに向かっているように思われます。

 これは一見もっともらしい主張のように見えるかも知れませんが、とんでもない誤解やデマに基づいている恐れがあり、非常に危険なので、ここで注意をうながしておきたいと思います。

改憲するまでもなく「今の憲法そのもの」が私権制限への歯止めである

 まず「憲法を改正して、私権制限に対する歯止めを作るべき」という発想がおかしいのは

  今の憲法は、改正するまでもなく、もともと私権制限に対する歯止めである。

  という根本的な事実を忘れているという点でしょう。

  大雑把なイメージとして説明すると、次のとおりです。

  まず、政府が国民の自由や権利を制限したり、義務を課したりするには、法律の根拠がなければなりません。(これが「法治主義」と呼ばれるものです。)
  法律を政府(内閣)が勝手に作ることはできませんから、これについては国会の審議が必要です。まずは三権分立(権力分立)が、ここで一応の歯止めになっているわけです。

  但し法律で決めさえすれば、いくらでも自由や権利を制限できるというわけではありません。ここで次に歯止めになるのが憲法の人権保障の規定です。法律を作っても、自由や権利の制限が行き過ぎれば、憲法に違反するということになります。

  例えばコロナ関係でいうと、憲法22条の次の条文が様々な面で関係してきます。この自由も絶対無制限というわけではないので、何らかの規制(私権制限)をするのは不可能ではないのですが、その規制が行きすぎると、憲法22条が保障する権利を侵害し憲法違反と判断されるわけです。

 第22条1項 何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。

私権制限がどこまで行きすぎたら「憲法違反」になるの? 

  それでは、どの程度まで私権制限をしたら「行きすぎ」として憲法違反になるのでしょうか。その基準や目安は、具体的に憲法に書かれているわけではありません。

 そうなると「違憲になるかどうかの基準や目安を、具体的に憲法に書きこんでおいた方が良い」と思うかも知れませんが、実際にはそんなことは不可能です。

 考えてみてください。交通事故防止、公害防止、建築安全、消防、災害対策、そしてコロナ対策など、私権制限をせざるを得ない事情は無限に存在するし、社会情勢や科学技術の変化に応じて、これからもどんどん変化していくのですから、そんなことをいちいち憲法に書きこめるわけがありません。

 例えば「交通安全のために必要な範囲で、道路交通についての移動の自由を制限できる」「名誉を守るために、表現の自由について最低限の規制ができる」などと一つ一つ憲法に書いていられるはずがないでしょう。

私権制限の目的と手段を見て「合憲か違憲か」を検討していく

 それではどうやって「私権制限が憲法に違反しないかどうか」を判断するのかといえば、かなり単純化していうと、おおむね次のようなステップで考えることとされます。

 ①まず、私権制限をする目的は何かを検討する。当然、正当で重要な目的でなければなりません(例えば「国民の生命健康の保護」などがあるでしょう。もちろん不当な目的なら、論外として排除するべきです)。

 ②次に、手段としての規制が有効かどうかを検討する。目的は正当だとして、その目的にとって手段としての規制が有効かどうか(目的達成にとって有効でない私権制限なら、国民を苦しめて損害を与えるだけですから、しない方がマシということになります。)

 ③また、その目的達成のためにその規制手段がどうしても必要かを検討する。(わかりやすくいえば、同じ程度の効果が得られる複数の手段があるなら、その中から、最も規制が小さくて済む手段を選ぶべきということになります。やらなくて済む規制はやらないに越したことがないからです。)

 ④さらに、目的の重要性と規制による弊害とのバランスが取れているかを検討する。(単純化すると、10の目的を達成するために50の損害が社会に生じるような規制をするのではまずいということになります。もちろん実際には単純に数値化や比較ができるわけではないので、難しい議論になることが多いでしょう)

 極めて大雑把な説明ではありますが、ある私権制限が憲法に違反しているかどうかは、判例や学説の蓄積で、このように考えられるようになっています。

 このような審査基準を手掛かりに、法律による私権制限が行きすぎだと考えられれば、「違憲ではないのか?」「自由や権利を過剰に制限しすぎでは?」などという議論が可能になり、歯止めとして働くというわけです。

 まさしく憲法は、今のままで、私権制限に対する「歯止め」なのです。

緊急事態条項は、私権制限に対する「歯止め」ではなく「歯止めの撤廃」に過ぎない

 さて、先ほど述べたように、最近よく見られるのは「憲法に緊急事態条項を作ることで、私権制限に歯止めをかけよう」という意見ですが、これは根本的にどうしようもない勘違いというほかありません。

  憲法上の緊急事態条項とは、一般的にいえば、非常時に、例外的に政府に(通常は認められていない)強大な権限を与えて行動させるというものです。つまり「普段より強力に私権制限ができるようにさせる仕組み」というのが緊急事態条項です。

  言い換えれば、普段は憲法の中に存在している私権制限への歯止めを、非常時(と判断された時)に撤廃してしまうのが、緊急事態条項なのです。つまり緊急事態条項は、私権制限を普段よりも「拡大」する働きがあるのです。私権制限を「抑制」するわけではありません。

  例えば自民党の改憲案でいえば、非常時には国会審議抜きで、法律の代わりになる政令を内閣が作り、法律と同じことができるようにされています。
  つまり先ほど述べた三権分立の歯止めを非常時には撤廃して、国会審議によるブレーキがきかないようにさせ、いわばスピード優先で、内閣が普段よりも私権制限をやりやすくなるわけです。このように緊急事態条項を作れば、私権制限(の行き過ぎ)への歯止めは、当然のことながら、普段よりも弱くなるだけであり、強くなることなどありません。

  それにもかかわらず「緊急事態条項を作って私権制限の行き過ぎに歯止めをかけよう」と言っている人は、あべこべであって、自分でも自分の言っていることをよくわかっていないというほかありません。

私権制限を「どこまで」「いつまで」やるかを決めるのは法律の役目

 さらに「緊急事態条項を作って、私権制限を『どこまで』『いつまで』やるのか、明確にするべきだ」という主張もありますが、これも以上述べてきたところから見れば、単なる勘違いであることは明らかでしょう。

   私権制限を「どこまで」「いつまで」やるか決めるのは、本来は法律の役割です。無限の私権制限などありえないのですから、規制される対象範囲は明確でなければなりません。

   例えば大気汚染防止法などの公害規制であれば、排出が許されない汚染物質の量の基準を法律(や政令)できめるわけですから、「どこまで」についての規制が、法律によって明確にされることになります。憲法で規制を決めるわけではありません。公害規制といえども営業の自由への規制なのですから、いわゆる「私権の制限」の一種には違いはありません。

   また労働基準法や労働安全衛生法も、使用者側にとってみれば「私権の制限」の一種ですが、労働者を働かせて良い時間とか、事業場の施設の安全基準などが決められるのですから、やはり「どこまで」「いつまで」制限するのかが法律で決められているわけです。憲法で決めるわけではありません。

  このように、私権制限を「どこまで」「いつまで」やるかを決めるのは、まずは法律の役割なのです。憲法そのものに公害規制や事業所の安全基準などを書き込むわけではありません。

  コロナ対策も同じです。「店舗の営業や酒の提供を『どこまで』『いつまで』規制するのか」なんて、憲法に書けるわけがありません。それはまさに法律の仕事です。

  もう少し正確にいうと、(憲法ではなく)法律こそが、まさに「いつまで」「どこまで」自由や権利を規制するのか、明確にしていなければならないのです。何をどう規制するのか法律が曖昧で不明瞭になっていると、市民の側としてはどこまでが違反でないのか、どこからが違反なのか、さっぱりわからなくなって行動できなくなったり、運用する行政当局の裁量(胸先三寸)の範囲が広くなって、権力や影響力が強くなりすぎる危険もあるからです。

 以上のとおり、「憲法を改正して、緊急事態条項を作って『どこまで』『いつまで』私権制限をするか、歯止めを設けるべきだ」という主張がいかに見当違いであるか、わかると思います。

緊急事態宣言そのものを「どこまで」「いつまで」やるかというのとは別問題

 一方、これに似ていますがまったく別な次元の問題として

 良し悪しは別として、『仮に』憲法に緊急事態条項を設けるとしたら、その緊急事態は「どこまで」「いつまで」にするか

 という議論はありえます。

 これは、これまで検討してきた「私権制限を『どこまで』『いつまで』にするか」の議論ではなく、「通常よりも強い私権制限が可能になる緊急事態条項の適用を、『どこまで』『いつまで』にするか」という議論であり、絶対に混同しないように注意してください。

 筆者としては現時点において緊急事態条項を設けるべきとは考えていませんが、『仮に』何らかの理由で緊急事態条項を設けるとしたら、「どこまで」「いつまで」緊急事態条項を適用するか、反対にいつ緊急事態条項を終了させるのか、明確に決めておかなければいけません。

 「いつまでも」「無限に」巨大な権力を政府に与えっぱなしにするわけにはいかないのですから、その範囲と終了の時期などを明確に決めておく必要があることは、当たり前の話です。

 ただしこれは、あくまでも「"仮に"改憲して緊急事態条項を設けるなら、その弊害を少しでも抑えるために、『どこまで』『いつまで』を明確にする必要がある」という後ろ向きの話でしかありません。

 繰り返しになりますが、これは
「改憲して緊急事態宣言を設ければ、私権制限を『どこまで』『いつまで』やるか明確になって、望ましい」
ということではなく
「『仮に』改憲して緊急事態条項を設けるのであれば、その緊急事態条項が適用されるのが『どこまで』『いつまで』か、明確に限定しておかないと非常に危険」
という意味です。

 (先ほども説明したように、「私権制限をどこまで・いつまでやるか」は、まさに法律で決めなければならないことです。憲法改正の問題ではないのです。) 

最後になりましたが、以下の書籍『檻を壊すライオン』(楾大樹弁護士著、かもがわ出版)がこの議論についての参考になるので、機会があればご一読ください。




  





よろしければお買い上げいただければ幸いです。面白く参考になる作品をこれからも発表していきたいと思います。