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憲法を民意でどこまでも改正できると考えると、自己矛盾で破綻する件

民意でどこまでも憲法は改正できるの?

 憲法改正の議論にからんで
「国民の多数決であれば、どのようにでも憲法を改正して良いはずだ」
「民意が望むならどんなことでも決められるべきだから、憲法改正に限界はない」
という意見が見られるようになりました。

 そこでこの考え方を今回は検討してみましょう。「民意」であればどのようなことでも決めて良いのでしょうか。多数決で何でも決定して良いのでしょうか。

民意が望めば独裁制にすることもできるの?

 まず、「民意が望むなら何でもそのとおりにして良いはずだ」という原理を徹底して推し進めていけば、すぐ難問にぶちあたります。
  例えば「民意が望むなら、民意を無視する政治体制(独裁制)にすることもできるはずだ。それが民意の尊重だ」ということも言えるのでしょうか?

 良し悪しは別にして、理屈としては普通に筋がとおっているようにも思えます。「望ましくはないが、それが民意ならやむを得ない。例えばヒトラーだって民意が選んだんだから仕方ない」みたいに割り切ったことを言う人もいるかも知れません。果たしてどうでしょうか。

民意が後で独裁制を嫌がったらどうする?

 しかし少し考えてみれば、これは理屈それ自体がすぐ破綻することがわかります。

  民意に基づいて、民意を無視する政治体制が作られて独裁者が支配するようになったとしても、その後で「やっぱりそんなのは嫌だ」というのが民意になったらどうするのでしょうか。

 「民意を尊重すべきだ」「民意が望むなら何でもそのとおりにすべきだ」というのが出発点の原理ですから、その原理に立つ限り、民意が「民意を無視する政治体制が嫌になった」と言い出したら、民意に従って独裁を辞めさせて、元のとおり民意を反映する政治体制に戻さなければならないはずです。

 しかし、民意が望めばいつでも独裁者を辞めさせることが保証された独裁政治体制であれば、結局は独裁体制ではないのと同じことになりますから、民主主義的な政体ということになるでしょう。

民意で全て決められると考えると論理的に破綻する

 つまり「民意は何でも尊重されるべきだから、民意が望むなら、民意を無視する政治体制にもして良い」というのは論理的に破綻していることになります。

 「民意であれば何でも決められる」ではなく、「民意であれば原則として何でも決められるが、民意を無視する政治体制にすることはできない」「常に民意を反映する政治体制でなければならない」というしかないのです。

 「民意」というと少々漠然としていたので、「多数決」という概念を使って同じことを考えてみましょう。「多数決は民意の反映だから、何でも決められる」という考えもありますが、先ほどと同じで「多数決でも、多数決を無視する体制にすることはできない」ということになります。

多数決で差別を決めても良いの?

 次に少し観点を変えて、「多数決(民意)で何でも決めて良いなら、多数決によって一部の人間を差別して良いか?」という問題を考えてみましょう。言い換えれば「民主主義で決定すれば、一部の人間を差別しても良いか?」ということでもあります。

 単純なモデルを想定して思考実験してみましょう。ある小さな国に、A、B、C、D、Eの5人の国民がいて、その多数決で政治や法律を決めていると仮定します。

 ある時、Eだけ差別して投票権を剥奪しようという法案が持ち上がり、A、B、C、Dが賛成し、Eが当然反対して、4対1の多数決でこの法案が可決されて、Eから投票権が失われました。

 つまり投票権を持つのはA、B、C、Dの4人だけになり、Eは何も言えない状態となったわけです。

 次に、Dを差別して投票権を剥奪しようという話が出てきて、前と似たような感じでA、B、Cが賛成、Dが反対で、3対1の多数決で可決され、Dも投票権を失い、投票権を持つのはA、B、Cの3人だけになりました。

 最後にCからも投票権を奪ってしまう案が出て、同様にAとBが賛成、Cが反対で、2対1の多数決で可決され、Cも投票権を失いました。 

 今ではこの国の5人の国民のうち投票権を持つのはAとBの2人だけであり、多数決どころか正反対に、すべてのことが5人のうち2人だけによって決められるようになったのです。

多数決で差別を認めると、多数決自体が崩壊する

 つまりこの例では、多数決で差別を決めることも認めた結果として、多数決によって、多数決でない状態が作り出されてしまったというわけです。多数決が本来あるべき民意の反映だというなら、これは明らかに破綻しています。

 多数決が民意の反映だというなら、その多数決には全員に参加の機会が保証されていなければならないはずです。つまり多数決を適切に行うためには、全員に差別がなく、個々人が平等に尊重されることが前提なのです。

 なぜこんなおかしなことが起こったかというと、「多数決によって少数者の権利を奪い、差別することができる」という発想をしたからです。(「多数決によって少数者に(単発的に)不利な政策を行う」というのとはレベルが違うことに注意してください。)

多数決の民意でも変えることができない限界のルールが必要になる

 このような矛盾を避けるには
「多数決(民意)によっても、人を差別して権利を奪うことはできない」「多数決の正当性を維持するためには、全員が平等に尊重されなければならず、この原理は多数決によっても奪うことはできない」
等という「限界のルール」を導入する必要があります。

多数決で表現の自由を奪うと多数決の正当性も崩壊する

 さらに(あまり深入りする余裕はありませんが)「多数決で何でも決めて良いのだから、多数決によって、表現の自由(ここでは主に政治に関する表現の自由)を奪っても良い」ということにすると、これまた不当な結果になることがわかるでしょう。

 そもそも多数決が正当化されるのは、誰もが公平に扱われてみんなの意見が適切に反映されることが前提です(この中に、すでに「差別はいけない」ということが含まれていることにも注意してください。)
 多数決にみんなの意見が適切に反映されるようにするには、議論したり批判しあったりする自由が保証されていなければなりません。

 言論が自由に行わなければ、多数決の判断自体が適切に行われなくなります。

憲法の改正についても同じ「改正の限界」の問題がある!

 さて、ここから先が憲法にからむ話です。

 憲法の改正についても同じようなことがいえるのではないでしょうか。「民意・多数決であれば何でも決めて良い」というわけではなく、破綻しないように一定の限界を設定する必要があるように、「民意・多数決であれば憲法をどのようにでも改正できる」というのではなく、改正にも一定の限界が必要だということになるわけです。

国民主権は改憲でも変えてはならない

 まず憲法改正によっても「国民主権」(民主主義)の原理を変えてはならないことは明らかでしょう。
 先ほどの「民意を尊重すべきだから、民意によって、民意を無視する独裁制にしても良い」というのが破綻しているのと同じことです。
 「民意を尊重すべきだから、民意に従って憲法を改正すべき」というのであれば、憲法改正によって民意を無視する政治体制にすることは矛盾であり、破綻です。改正するとしても、民主制により民意が尊重されることが最低限維持されるような、限度内の改正でなければならないはずです。

個人の尊重・平等・表現の自由等も改憲で変えてはならない

 次に、先ほどの5人の国の例でもわかるように、「個々人を等しく尊重し差別しない」という原理も、憲法改正で変えてはならないことがわかるでしょう。この原理を変えれば、いずれは民意とか多数決の原理自体が破綻するからです。

 また憲法改正によって表現の自由を否定することも、政治についての言論が自由に行わなければ民意を適切に作ることができなくなるのですから、やはり認められるべきではないことがわかります。

 以上から、日本国憲法を改正するとしても、国民主権や(個人の尊厳、平等、表現の自由などを含む)基本的人権などの原理的な部分は決して変更してはならないということが直感的に理解できるかと思います。

 憲法の前文で

 これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

 とされているのは、まさに「憲法自身も、国民主権や基本的人権尊重等の原理に反してはならない」という趣旨です。

憲法の96条(改正手続)と97条(「人権の永久不可侵)の関係

さらに具体的な条文の例を挙げてみましょう。

第96条 この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする(以下略)。

第97条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

この第96条は改正の手続を決めたものですが、そのすぐ後の第97条では、基本的人権について「侵すことのできない永久の権利」としています。

つまりこれらを併せて読めば
「憲法は96条の手続に従って改正できるが、ただし97条により、基本的人権を侵害するような改正は、永久にできない」
という趣旨なのです。
例えば96条の手続を使って「男女差別をする憲法」に改正しようとしても、97条でそれを認めていないということになります。

外国の憲法でも、改正そのものについて一定の禁止をもうける例は珍しくありません。
有名な例としては、ドイツ連邦共和国基本法の場合、基本的人権について定めた第1条、国民主権や抵抗権等について定めた第20条、また連邦と州の関係の根幹部分について改正することは、第79条によって禁止されているのです。 

それでも「改正の限界を超えた変更」が起こるかも知れないが・・・

最後に、「でも、いくらそんな憲法改正の禁止条項とか、改正の限界とかの話をしてみても、現実に国民の大多数が賛成して可決されて、そのまま定着してしまったら、それまでではないか?」と言われるかも知れません。

 それはそのとおりで、憲法の改正の限界を超えた変更をしたら神が許さないとか、何の変化も起こらなくなるとか、そんな話をしているわけではなく、現実に社会に定着すれば、それが新しい憲法として受け入れられるでしょう。
 例えば現在の憲法を96条の改正手続によって「人種差別や男女差別を定めた憲法」に改正することなど、先ほどの97条の趣旨から認めていないわけですが、現実問題として国民の大多数が受け入れてしまえば手続的には確かに「成立」するでしょう。

 しかしそれは、「暴動では一番人数の多いグループが勝つ」とか「力の強い野獣の方が弱い野獣を食らう」という話と同じレベルの話でしかなく、単に「勢力の強い方が勝った」というのと同じレベルの現象でしょう。

 

 

 

 

 

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弁護士ほり
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