見出し画像

もやウィンの説明は、どこがおかしかったの?

自民党の憲法改正に関するキャラ「もやウィン」

 既に知っている人も多いと思いますが、最近、自民党の広報が「もやウィン」というキャラを作り、憲法改正についての党の考え方を広報するためのマンガ『教えて!もやウィン』で使い始めました。

 「もやウィン」というのは、憲法の問題が難しくて一般の人にとっては"もやもや"する…ということと、生物学者"ダーウィン"の名前にちなんだようです。

ダーウィンの考え方を勝手に騙ったことへの批判

 なぜダーウィンの名前を持ちだしたのかといえば、ダーウィンが「最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き延びるのでもない。唯一生き残ることができるのは、変化できる者だけである」と述べたからだというのですが、この記述は実際のダーウィンの進化論についての考え方とは違っているという批判の声明が日本人間行動進化学会から出されました。

 もやウィンと「基本的人権の尊重」

 さて、このマンガの第3話で、もやウィンは日本国憲法の基本原理について触れているのですが、そのうち「基本的人権の尊重」について説明する中で、まず「人間が生まれながらにして持っている、人間らしく生きる権利を永久に保障する」と述べています。


ここまでは特におかしくないのですが、その次に具体例として、もやウィンは

「例えば、言論の自由だったり、職業選択の自由だったり、つまり法律に触れたり、人に迷惑をかけない限り自由ってことで…」

と語っています。

 この部分の前半は良いとして、後半の「つまり法律に触れたり、人に迷惑をかけない限り自由」という部分は、一見もっともらしく見えますが、非常に問題がある記述ですので、以下、簡単に説明しておきましょう。

「法律に触れない限り自由」とは?

 まず「法律に触れない限り自由」という部分を考えてみましょう。「触れない」というのはやや曖昧な表現ですが、「法律で禁止されない限り自由」と言い換えれば良いでしょう。

「ある行為が法律で禁止されない限り、その行為は自由である」というと、さらにわかりやすくなります。

これは何も間違っていないように思えます。どこかおかしいのでしょうか。

「法律に触れない限り自由」とは、当たり前すぎて無内容ではないか?

 まず「法律で禁止されていない行為は自由である」というのは、当たり前のことを言っているどころか、「法律で禁止されていない」と「自由である」というのは、ほとんどイコールではないのでしょうか。

「法律で禁止されていない行為は、自由である」というのは、同じことを言い換えて繰り返しているだけであって(「法律で禁止されていない」=「自由」)、ほとんどトートロジー(同義反復)に近く、何も説明したことになっていないように思えます。

「法律の留保」の原則

 正確にいうと、「法律で禁止されていない行為であっても、自由でない」という状況を想定することは、不可能ではありません。
 例えば法律の定めとはまったく関係なく、権力者や役人が、思いつきで好き勝手に民衆の自由を奪い、法的根拠もないのに、力づくでほしいままに捕まえたり処罰したりするような社会であれば(近代より前の時代ではよくあったことでしょう)、「法律で禁止されていない限り、自由である」という命題には、一応の意味があるでしょう。「法律で禁止されていないのだから、勝手に自由を奪うな」ということになるからです。

 このように、「法律で禁止されていない限り、勝手に自由を奪うことはできない」とか「法律の根拠がない限り、規制はできない」という考え方は、法律の留保の原則などと呼ばれています。 

 では、日本国憲法の基本的人権の尊重は、この原則をうたったものなのでしょうか。

「法律の留保」の考え方は、昔からあった

 そういうことではありません。「法律で禁止されていない限り、規制できない」という原則はもちろん重要ですが、これは日本国憲法に限ったことではなく、19世紀頃から多くの国で導入された考え方であり、大日本帝国憲法でもこの考え方はありました。

 例えば大日本帝国憲法の第29条では「日本臣民は法律の範囲内において言論、著作、印行、集会および結社の自由を有す」とされており、法律で禁止されていない限り、言論、著作、集会などの自由(つまり表現の自由)が認められていたのでした。

法律そのものが不当なものだった場合、もやウィンの説では解決できない

 ところがこの「法律で禁止されない限り、自由である」という考え方には、一つ重大な問題があります。それは、法律がなければ確かに国民の自由を制限できないものの、いったん法律さえ作れば、その法律の決め方次第で、いくらでも自由を制限・侵害することができてしまうということです。

 例えば非常にわかりやすい極端な例として、「政府を批判する言論は禁止する」という法律が制定されたら、もやウィンの考え方では、どうなるのでしょうか。
 政府に対する批判だけが法律で禁止されたということであれば、企業や野党に対する批判の言論は法律で禁止されていないので、当然、自由だということになります。もやウィンの「法律で禁止されない限り、自由だ」という説明のとおりですが、それで良いのでしょうか。そういう問題ではないことは明らかでしょう。

不当な法律による侵害からも、自由・権利を守らねばならない

 つまり重要なことは、「法律で禁止されない限り、自由である」ということにとどまらず、「不当な法律による侵害からさえも、自由・権利をどのように保障するか」ということなのです。

 日本国憲法では、基本的人権を不可侵のものとして定めて、表現の自由などをはじめとして様々な自由や権利を保障しています。
 そしてこの自由や権利を不当に侵害する法律が制定された場合は、その法律が憲法違反として無効とされることもあるのです。

 (ただし自由や権利は絶対無制限というわけではありません。他の人間の自由や権利との調整、生命・健康・財産の保護などの目的のため、必要最小限の規制を行うことは、憲法も想定しています。)

 もやウィンが説明しなければならなかったのは、「法律に触れない限り自由だ」ということではなく、「憲法が保障した自由を不当に侵害する法律は、憲法違反として無効とされる」ということだったのです。

「迷惑をかけない限り自由」ではなく「迷惑をかけても自由」の場合もある

 あまり詳しく触れる余裕がありませんが、もやウィンの主張のもう一つの部分、「迷惑をかけない限り自由」という点についても簡単に触れておきましょう。

 この主張も一見、ごく常識的で別におかしくないように思えます。しかし「迷惑」という概念が非常に曖昧であることに加えて、一定程度の迷惑を他人に与えても保障されるべき自由というものがあることを、ここで再確認しておきます。

 わかりやすい例として、公共の広場や公園や道路で行うデモや集会や演説などは、人にとっては「迷惑」と感じられるでしょうが、憲法上保障される重要な表現の自由であり、危険防止などのやむを得ない理由がない限り、当然に「迷惑だから規制すべき」ということにはならないのです。



よろしければお買い上げいただければ幸いです。面白く参考になる作品をこれからも発表していきたいと思います。