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「自由」が不自由な抑圧や偏見を逆に生き残らせてしまうことがある件

公権力からの自由

 今回は、かなり抽象的なレベルの話です。「自由」とか「自由主義」という概念は幅広く使われていますが、ここでは主に「公権力からの自由」「公から干渉されない自由」という意味で使います。

 これは一般に「消極的自由」という言い方もされるところで、大雑把にいえば「自分のやりたいことを邪魔されない自由」ということでもあります。

 これは近代の国家で非常に重視され、「自由権」として憲法でも保障されていることは言うまでもありません。

自由主義と保守主義は相性が良い?

 このような「自由」を重んじる考え方を、ここで一応「自由主義」と呼んでおきます。
 このような意味での「自由主義」は、いわゆる「保守主義」と相性が悪いように思われるかも知れませんが、実は必ずしもそうではありません。

 ここでいう「保守主義」は、「古くから続いてきた慣習などは、特に大きな問題がない限りはむやみに改変すべきではない」とする考え方、くらいの意味で使っています。

 そもそも公権力が介入しない「自由」な状況では、すべての人間が等しい状態、いわばまっさらで均等な状態の中で自由に行動できるのでしょうか。もちろん現実にはそういうわけではありません。人間は様々な社会的関係の中で生きており、家族、地域共同体、企業などの中にその居場所を持って、ある意味、私人同士の関係の中で様々な束縛、しがらみを受けています。

古くからの慣習やしがらみを是正しない「自由」

 公権力が介入しない「自由」があるということは、現に社会にある古くからの慣習や共同体の人間関係のあり方などもそのまま干渉を受けずに存続し続けるということにもつながります。
 古くから続いてきた慣行や文化は、どうしてもまずい理由がない限り残すべきだという前述の「保守主義」が、公権力不介入という意味での「自由」の考え方と相性が良いというのは、こういう趣旨です。
 古くからの慣行を公的な介入によって無理矢理に是正させることなく、当事者たちの「自由」に任せ、現状をそのまま残させるということになるからです。

 このような状況が望ましいことなのかどうかはケースバイケースでしょう。古くからの良き慣習が残されるといえる場合もあるでしょうし、また場合によっては、社会の中の偏見や差別のようなものも「自由」な状態のまま温存されていくことになります。

不合理な抑圧と「公権力からの自由」

 さて、社会の一定の領域の中で不合理な因習、偏見や差別が支配し、それに束縛されて苦しむ人がいる場合、これは単なる「自由」の考えで解決できるのでしょうか。
 公権力が何もすることなく社会で生きる人々への不干渉を貫くなら、それは権力の介入がないという意味では確かに「自由」が保障されているとは言えるでしょう。
 しかし同時に、それは社会関係の中で慣習や圧力などで抑圧されている人間が放置されるということも意味します。そういう人にとっては、むしろ公権力が介入することによって、抑圧や束縛や偏見を打破し、社会的関係の中での「自由」を回復することが求められているということができるでしょう。(後者の「自由」は、「公権力から介入されない自由」という意味とは違っていることに注意してください。)

考えるべき様々な問題

 この種の問題は、国家と市民の関係の中で、まずは「自由」に最も力点を置くか、それとも、(「自由」とは別次元の)人間の尊厳とか個人の尊重のような価値のために国家が積極的に動くべきという点を強調して考えるかという点にもかかわってきます。
  最後に付け加えると、原則として自由であるべき領域に公権力がむやみに介入すれば良いというわけではないのは言うまでもありません。さらに公権力の担い手自身が偏見や差別の意識に支配されていたらどうするのか、という別な問題もあります。掘り下げれば様々な問題が出てきます。とりあえず今回は抽象的な一つの切り口で問題提起をするにとどめておきましょう。

 


 

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