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GHQが新憲法を「押しつけ」してくれなかったら、日本政府は酷い憲法を作っていた件

日本国憲法の「押しつけ」の性格は否定できないが…

 日本国憲法は、敗戦後の占領された日本で、GHQの作成した案をもとに帝国議会が審議したうえで制定されました。このことからすれば当然ながら、多かれ少なかれGHQによって「押しつけ」られた要素があること自体は否定できないでしょう。

 ただ実際の展開としては、GHQが作成して日本政府に与えた条文をそのまま翻訳して日本国憲法にしたというわけではなく、まず1946年4月の日本初の男女平等選挙で選ばれた衆議院議員と、(選挙の対象でない)貴族院議員が審議して、(GHQの意向に反しない限りにおいて、ですが)様々な修正を加えたうえで、現在の日本国憲法が完成したのです。

戦争放棄だけの問題だったのか?

 そこで次の問題は、なぜ「押しつけられた」かということです。

 この点、日本国憲法に批判的な論者から「憲法9条の戦争放棄で日本を非武装にするために、押しつけたのだ」という主張が時々出てきますが、戦争放棄だけが問題だったのでしょうか。
 そうだとすると、戦争放棄の部分だけ「押しつけ」して、それ以外の部分はすべて日本政府に任せる形で憲法案を作らせてチェックするという方法でも良かったはずですが、どうしてそうならなかったのでしょうか。

 逆にいうと、仮にGHQが日本国憲法(の草案)を「押しつけ」することなく、当時の日本政府に新憲法を作るのを完全に任せていたら、どのようになっていたのでしょうか?(当時の日本政府というのは、戦前・戦中から政界や官界にいた人々によって構成されていたことに注意してください。)

 そこで、まず日本政府がどのように憲法を作る(改正する)つもりだったのかを確認していましょう。

日本政府は松本委員会で憲法案を検討作成した

 細かい経緯は省略しますが、敗戦後に日本政府は、GHQの指示により帝国憲法の改正を検討することになって、1945年10月、松本烝治国務大臣を委員長とする憲法問題調査委員会(いわゆる松本委員会)を発足させました。

 この委員会の中で様々な案が検討されたのですが、その一方で、政界・民間を問わずいろいろな立場の人々が、それぞれの観点で新憲法案を作成していきました。(この中でも重要なのが、民間の研究者たちによる「憲法研究会」というグループの案でした。これは後で説明します。)

松本委員会が提出した憲法案ってどんなものだったの?

 1946年2月、松本委員長はGHQの反応を打診するために、「松本甲案」と呼ばれる案を提出しました。

 これは大日本帝国憲法をそのままベースとしたうえで、部分的にだけ改正して対応するというもので、その全貌をここで紹介することはできませんが、例えば次のようになっていました。

第1条   大日本帝国憲法は万世一系の天皇之を統治す(★変更なし)
第3条   天皇は至尊にして侵すへからす(★「神聖にして」を「至尊にして」に変更)
第4条   天皇は国の元首にして統治権を総攬し此の憲法の条規に依り之を 行ふ(★変更なし)
第5条   天皇は帝国議会の協賛を以て立法権を行ふ(★変更なし)
第6条   天皇は法律を裁可し其の公布及執行を命す(★変更なし)
第11条   天皇は軍を統帥す(★「陸海軍」を「軍」に変更)

天皇主権の発想から脱却できなかった日本政府

 その他、議会の権限を強化すること、軍に対する政府の統制を強化することなどの改正箇所もありましたが、主権者は天皇のままであって国民ではなく、相変わらず「臣民」という時代錯誤な用語が用いられ、さらに現在は当然のこととされている「個人の尊厳」や「平等」や「基本的人権の不可侵」という発想もありませんでした。自由や権利が基本的には「法律の範囲」でしか保障されないという点も従来通りでした。

 この政府案がそのまま受け入れられていたとしたら、議会の権限がより強くなり(つまり、より「民主的」になり)、さらに軍に対するシビリアンコントロールが強化されていたなどの点では確かに従来よりはマシだったでしょうが、相変わらず国民は天皇の臣下であり、天皇が主権者のままで、権利の保障も不十分という酷い状態だったことでしょう。

 なお、これ以外にも松本委員会の中では様々な案が発案されており、より改正の度合いが高い案もあるにはあったのですが(「臣民」という言葉を「国民」にしたり、平等原則を導入するなど)、いずれも「天皇が統治権を持つ」という発想から抜け出せていませんでした。

GHQは見切りをつけて自分で急ぎ憲法案を作成した

 1946年2月にこの松本甲案の提出を受けたGHQは、これでは到底他の連合国を納得させることはできないと考えて、急いで自ら草案を作成するに至ったのです。(この松本甲案を提出する前に、より改革の度合いが大きな別な案が毎日新聞にスクープされていますが、これもGHQから見れば不十分な部分修正でしかありませんでした。)

 オーストラリアなどは昭和天皇を戦犯として訴追することを主張していましたが、アメリカ(とその傘下のGHQ)は、日本の統治と再建のためには昭和天皇を温存することが必要だと考えていたこともあり、GHQとしては一刻も早く、民主主義や人権尊重などの観点で国際的にも通用するような新憲法を作成して、各国を納得させなければならない立場になっていたのでした。

 日本国憲法の草案が非常に短期間で作成された背景には、このような事情があったのです。

日本の民間の憲法案もGHQに影響を与えていた!

 GHQが草案を作成するにあたっては、諸外国の憲法だけでなく、日本の民間の憲法案も参考にされました。

 この時に大きな影響を与えたとされるのは、高野岩三郎、森戸辰男、鈴木安蔵などの学者グループ「憲法研究会」が作成した案で、天皇主権(統治権)を完全に否定し、国民主権を明確に打ち出していたのでした。

一、日本国の統治権は日本国民より発す
一、天皇は国政をみずからせず国政の一切の最高責任者は内閣とす

さらにこの「憲法研究会」案では、松本甲案には存在しなかった、国民の平等、法律でも制限できない自由の保障、拷問の禁止なども明記されていました。

一、国民は法律の前に平等にして出生又は身分に基く一切の差別は之を廃止す
一、国民の言論学術芸術宗教の自由に妨げる如何なる法令をも発布するを得ず
一、国民は拷問を加へらるることなし

今の憲法25条(生存権)の原型も日本の民間の憲法案にあった

 付け加えると、この「憲法研究会」案では、現在の日本国憲法の25条(生存権)の原型となる次のような条項もあったのです。これはGHQ案には反映されなかったものの、後に帝国議会での審議の際に議員たち(前述の憲法研究会のメンバーだった森戸辰男自身も議員となっていました)によって最終的に付け加えられて、憲法25条になりました(後述)。

一、国民は健康にして文化的水準の生活を営む権利を有す 

この点については、次の過去記事もご参照ください。

戦争放棄以外の点でも日本政府の憲法案の発想はダメだった

 以上のとおりで、「日本国憲法はGHQによって押しつけられた」という議論以前に、「当時の日本政府は、大日本帝国憲法を微修正した程度の、ひどい憲法案しか考えていなかった」ということこそが問題なのです。

 「9条で戦争放棄をさせるためにGHQは自分の新憲法案を押しつけたのだ」などという意見が世間にあるので、まるで戦争放棄の論点以外では当時の日本政府の憲法案の考え方に問題がなかったかのように思えそうですが、決してそういうことではありません。 

日本初の男女平等選挙を経た議会が審議し修正して憲法が完成

 このような経過で、1946年2月に約1週間でGHQは、諸外国の憲法や日本の民間案などを参考にしたうえで、自ら日本国憲法の草案を作成して日本政府に交付し、日本政府もこれに多少手を加えて帝国議会に提出し、約4ヶ月審議してさらに様々な修正が行われ、日本国憲法が完成するに至ったのでした。

   この憲法案を審議した帝国議会は、以前の記事でも説明したとおり、1946年4月に日本初めての男女平等選挙で選ばれた衆議院議員によるものでした。この選挙のときに国民は憲法案の発表を知ったうえで投票し、そうして選ばれた議員たちが検討しいろいろ修正も加えたうえで、最終的に現在の日本国憲法が作られたわけです。
 (憲法17条(国家賠償請求権)や25条(生存権)は、もともとのGHQ草案には存在せず、帝国議会の審議の中で提案されて追加されたものであることも、以前の記事で説明したところです。)

ドイツと日本の違いはどうして?

 これに対して戦後のドイツは、これまた占領下とはいえ、ドイツ国民から選ばれたグループが自発的に憲法案をゼロから作成して、占領軍当局と協議しながら「ドイツ連邦共和国基本法」を作成しています。

 これは、終戦前に存在した政府が完全消滅した後でゼロから新体制を発足させて憲法案を作ったドイツと、終戦前から政府・政界に残った人々が古い発想のまま憲法案を作ろうとした日本との違いとも言えるでしょう。

(関連過去記事)

まとめ

 「敗戦後、日本はGHQから新憲法を押しつけられた。悲惨だ」という意見もありますが、むしろ「敗戦後の日本政府は、ひどい憲法案しか作れなかったので、GHQが新憲法を押しつけざるを得なくなった。悲惨だ」という方が正しいでしょう。

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