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戦後のドイツの憲法も「押しつけ」だったの?


(写真は戦後のドイツ連邦共和国初代首相で、基本法制定時に制定審議会議長も務めたアデナウアー)
(By Bundesarchiv, B 145 Bild-107546 / CC BY-SA 3.0 DE, CC BY-SA 3.0 de, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=5448118)

「押しつけ憲法論」と日本とドイツ

 太平洋戦争に敗戦した後に連合国に占領された下で制定された日本国憲法について「押しつけ憲法」論があることはご存知のとおりです。この問題については以前、下記の記事でも触れました。

日本国憲法の中の「押しつけ」でない部分とは?

 そこで気になるのは、日本と同様に連合国に負けた側のドイツの場合はどうだったのかということです。ドイツも日本と同じような感じで、新たな憲法を「押しつけ」られたのでしょうか?

ドイツはどうだったの?

 ドイツの場合は、ヒトラーが自殺して、その後継者のデーニッツも政権それ自体を連合国に否認され、国家の中央政府そのものがいったん完全に消滅してしまったので、天皇や政府機構が存続した日本とはだいぶ事情が違います。そうなるとドイツは日本以上にきびしく一方的に新憲法を「押しつけ」られそうにも思えてきますが、果たしてどうだったでしょうか。

 結論としては、ドイツの場合はかなり日本とは違う経路をたどって新憲法を制定するに至っており、基本的にドイツ側が憲法案をゼロから作成しています。以下、流れを見て見ましょう。

中央政府が完全消滅したドイツ

 さきほど触れたように、戦後のドイツは中央政府が完全消滅し、占領軍の直接統治の状態になりました。とはいってもすべての統治を占領軍ができるわけがありませんから、現実には、各州レベルで統治機構を再建し、ドイツ人の人材を登用して、連合軍の指導のもとで運営させる形になりました。

(イメージとしては、日本でいえば、米軍占領下の沖縄で、住民が「琉球政府」の組織を作り、米軍の監督の下で一定の自治体の業務を開始したような状態が各地域で進行したような感じでしょうか。)

4ヶ国による占領と東西分裂

 このような動きがドイツの各地で行われ、まずは中央政府ではなく各州の自治組織が立ち上がって動き始めたわけです。そして中央政府のかわりにアメリカ、イギリス、フランス、ソ連の4ヶ国からなる管理委員会が設置されて全体の統治方針を決める立場となりました。

 ところが東西陣営の対立が進み、1948年にソ連が管理委員会から離脱すると、米英仏3ヶ国の占領地域だけで国家を再建させることになり、ドイツの東西分裂が避けられなくなったのです。

憲法制定作業の開始

 1948年7月に米英仏の占領軍司令官は、管轄下にあるドイツの11の州に対して新憲法の制定を求める文書(「フランクフルト文書」と呼ばれています)を交付し、憲法制定作業が始められることになりました。

 なお実質的には憲法とはいっても、西側地域だけで作った国家について「憲法」(ドイツ語ではVerfassung)と称するのには抵抗があり、将来、ドイツが再び東西統一するまでの暫定的な法ということで、「基本法」(ドイツ語ではGrundgesetz)と呼ぶこととされました。(「ボン基本法」と呼ばれることもありますが、ドイツが再統一された現時点では、まだ改めて「憲法」を作り直すことはしておらず、「基本法」が続いています。)

ドイツ側による自主的な草案策定と審議・成立

 各州から集まった専門家の委員会が基本法の草案を策定すると、1948年9月にボンで基本法制定審議会が招集され(議長は後に戦後のドイツ連邦共和国初代首相となるアデナウアーでした)、審議が開始されました。

 その過程で、占領軍当局との調整も行いつつ修正を経たうえで、1949年5月8日、最終的に基本法が採択され、さらにすべての州議会の2/3の承認が必要とされたので各州にも諮ることとなり、バイエルン州を除くすべての州議会で承認をうけて、5月24日に正式に発効したのです。

日本とドイツはどこが違っていた?

 このように、戦後のドイツの憲法制定の過程は、日本と同様に連合国の占領下で行われ、連合国の意思に反しないような範囲で行われたとはいえ、日本とは相当違う形になりました。

 単純化していえば、日本の場合は、占領軍からまず新憲法案を与えられて、それを政府が修正し、さらに帝国議会が審議・修正して決議する形をとったのに対して、ドイツの場合は、自国でまず新憲法案を作成したうえで、占領軍との調整も行いつつ、自ら審議して、必要な修正も加えて採択したということになります。

 このように考えると、占領軍の意思に反しない範囲で憲法を制定したという点では日本もドイツももちろん同じですが、案そのものは自分で作って占領軍と必要な調整だけ行ったドイツの方が、より自主的な憲法だったということはできるでしょう。

日本も最初は自主的に憲法案を作るはずだったが…

 日本とドイツでこのような差が生まれた理由は、様々な要因が影響しており一概に言い切ることはできず、ここでも深く立ち入ることはできません。

 ただ、日本の場合も最初は、マッカーサーが早くも1945年10月に幣原首相に帝国憲法の改正を行うよう指示したことからもわかるように、自主的に日本側が新憲法案を策定することが期待されていました。

 これを受けて幣原内閣は、松本烝治国務大臣を長とする憲法問題調査委員会を設置し、1946年1月に「憲法改正要綱」(松本甲案)を完成させて2月8日にGHQに提出しています。

 しかしながらこの松本甲案は、天皇が統治権を総攬するという帝国憲法の基本的な部分は変えず、「天皇は神聖にして侵すべからず」を「天皇は至尊にして侵すべからず」に変更し、議会の権限を従来より拡大し、国務大臣が議会に責任を負うようにして、国民の権利・自由の保護を広げる、という程度のもので、帝国憲法の部分的な修正にとどまっていました。

 何よりも、万世一系の天皇が大日本帝国を統治するという帝国憲法の第1条はまったく手つかずになっており、いまだに国民主権は認めていない案だったのです。

 これではあまりにも不十分なものであると判断され、また日本(と天皇制)に対して厳しい連合諸国の目も意識したことから、マッカーサーは、GHQ側で自ら草案を作成して日本に検討させるという(結果的にはドイツとは逆の)手順を採ることになったとされています。

ドイツは戦前に既に民主的な憲法を経験していた

 ドイツの場合にそうならなかったのは、ドイツ人の専門家たちが自ら作成した基本法草案が、根本的な理念としては連合国としても受け入れられるものだったからです。これは、ドイツの場合、戦前のナチスの台頭前のワイマール共和国時代に、既に民主的な憲法を制定した経験を持っていたという点も関係があるのでしょう。

ドイツの基本法の第1条が示すもの

 ちなみにドイツの基本法について、委員会が決定して基本法制定審議会に提出した草案の第1条第1項は、ナチス時代の反省を踏まえ
「国家は人間のためにあるのであって、人間が国家のためにあるのではない。」
という内容でした。

 但し審議の過程でこの項は最終的に削除され、それに続く第2項が、若干の修正を受けて現在の第1項に繰り上がりました。
 それが
「人間の尊厳は不可侵である。これを尊重し、かつ保護することは、すべての国家権力の義務である。」
 という条文です。

参考文献:
塩津 徹『現代ドイツ憲法史』(成文堂)2003年
名雪健二『ドイツ憲法入門』(八千代出版)2008年
   


 

 


 

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