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【現代お笑い論】#002 笑点の新メンバーはどんな人?いま、世界一面白い落語家を見逃すな! 鈴木亘

※こちらのnoteは鈴木亘さんの不定期連載「現代お笑い論」の第二回です。他の記事はこちらから

笑点の新メンバーはどんな人?いま、世界一面白い落語家を見逃すな!

 春風亭一之輔が笑点の新メンバーになった。下馬評通りとはいえ、個人的にはかなり意外だった。きっと多くの落語ファンもそうだったのではないだろうか。しかし改めて考えてみれば、最もあるべき人選だったようにも思う。一之輔は『笑点』を、そして落語界全体の未来を引き受けたのだ。
この記事では、一之輔を入り口として、しばしば作家に対して使われる「本格派」という形容はなにを意味するのか、ひいては落語の芸能としてのあり方についても考えてみたい。

基本情報を確認しておこう。一之輔は2001年に春風亭一朝に入門し、現在45歳、現在の笑点メンバーでは最年少だ。都内の寄席はもちろん全国のホールで精力的に公演を行い、連載やラジオレギュラー、YouTubeなどのメディア露出も多岐にわたる。持ちネタの数も多く、どれも面白いものばかりだ。いわゆる、「人気と実力を兼ね備えた」落語家である。


演芸、芸術における「本格派」とは

一之輔の『笑点』参加に関して、彼を「本格派」と評する記事やコメントが相次いだ。『笑点』に「本格派」が出ることを喜ぶ声、これをきっかけに多くの人が一之輔の「本格」落語に触れることを期待する声、あるいは逆に、『笑点』人気によって彼の「本格」が崩れることを心配する声……。
実際、一之輔自身もまたインタビューで、子どもに「本格派から逃げ出したんだね」と言われそう、などと冗談を語っていた

自らが茶化しているくらいなのだから、一之輔を「本格派」と評するのは常套句である──だがこの地点でやはり、立ち止まりたくなってしまう。ここで「本格」とはどういうことなのだろうか。一之輔がよく「本格派」と言われるのはなぜなのか。そして彼を「本格派」と評することは、どれほど適切なのだろうか。
伝統芸能である落語の演目は、大きく古典落語と新作落語のふたつに分けられる。(この辺は突っ込もうと思えばいくらでもできるのだが、とりあえず単純化して話すと、)おおむね大正ごろまでに成立した演目が古典、それ以降が新作である。古典落語は口伝や速記本などによって伝承されてきたもので、新作は、落語家が自ら創作したものを自ら演じるケースが多い。そのため一回きりのネタや漫談的なもの、マクラと区別しにくいエッセイ的なものもある。

落語に普段から親しんでいるわけではない読者にも想像してみてもらいたいのだが、古典と新作、どちらを演じることが「本格」に近づくだろうか?おそらく他の分野にも通じる話である。

容易に予想できるように、新作よりも古典落語の演じ手のほうが、「本格派」と評されやすいだろう。その上で、単に古典落語をやるだけで「本格」の条件を満たすわけではなさそうだ。「前座噺」と言われるような短く軽いネタだけでなく、複雑で重厚長大な(30分、ときには1時間近くかかるような)、いわゆる大ネタも高いレベルでこなせてこそ、「本格派」の呼称がしっくりきそうである。

同様に、「本格」の否定的規定も可能だろう。つまり、「〜でないもの」という観点から「本格」を規定するのだ。例えば上の基準からすれば、新作、特に漫談的なものを極力演じないことが、「本格」の条件となるだろう。また古典をやるにしても、現代的なギャグの連発で型を崩さないこと、オーバーな仕草を挟まないこと、あざとい改変をしないこと……。「本格派」の落語とはこのような「〜でないもの」によって外側から規定された、伝統に則る端正な落語と言えそうである。

本格?本格じゃない?

では一之輔はどうだろう。彼は言われているように本格なのだろうか。
一之輔は本格である。彼は「らくだ」や「芝浜」、「文七元結」など、数々の大ネタをダイナミックに聴かせる。だいたい気怠げな、やる気の無さを漂わせて高座に上がるのだが、噺に入るとそれは一転、これしかない、と思わせるようなテンポとメリハリで、長尺のネタもダレずに聴かせてしまう。言いよどみやトチリも全然ない(これは実のところかなりすごいことである)。表情も豊かで声もよく、仕草の一つ一つがヴィヴィッドで躊躇がない。
例えば「らくだ」で、最初は弱気だった屑屋が酔っ払うにつれて豹変し、相手の半次を怒鳴りつけるに至るダイナミズムと酔態の演技は見事である。比喩的に言えば、落語のための「体幹」がしっかりしているのだ。
もちろん常に押しの落語であるわけではない。引くべきところは引いていて、その手さばきも鮮やかだ。例えば有名な人情噺「芝浜」は感動的とか文学的とか言われるが、その反面あざとさが過ぎたり、説教臭くなりがちである。人情噺は好きではないと公言し、マクラでも「芝浜」のプロットやオチをしばしば茶化す一之輔は、暑苦しくない笑い多めの、それでもしみじみとした感動を誘う、ほどよいカロリーの「芝浜」を見せてくれる。要するに粋なのだ。
これこそ落語らしさ、「本格」ではないか。

あるいは、一之輔は本格ではない。鈴本演芸場での1月の余一会(寄席で31日に行われる特別興行)として開催された独演会の1席目は「新聞記事」だった。仕入れたばかりの知識を人に披露しようとして、付け焼き刃ゆえに失敗する、という落語の基本型のひとつであるこの噺を、一之輔は『ビルマの竪琴』や沢田研二、スマートフォンなど、何でもありのギャグで埋め尽くす。シンプルな噺にオリジナルな会話や時事ネタ、現代的なギャグをてんこ盛りにして、猛スピードで展開させる。これこそ一之輔落語の最大の特徴である。どれも爆笑で迎えられる上、毎回のように新しい要素が加えられる。他にも「粗忽の釘」や「鈴ヶ森」などがこのパターンで、どれも古典の改変、いやむしろ、枠だけが古典で中身はほとんど新作といっていい。
古典落語を現代的にぶっ壊し、爆笑を巻き起こす──面白くても、「本格」とは言えないのではないか。

いやいや、一之輔は本格である。その独演会の2席目は「うどん屋」だった。冬の夜に商いに出た流しの鍋焼きうどん屋を描いた滑稽噺である。それほど笑いの多い噺ではないが、その分、描写の丁寧さが際立っていた。ひっそりとした夜に響く売り声、酔っぱらいの終わらない会話、凍えながら熱々のうどんをおいしそうにすする客……ひとつひとつが冬夜の寒さとそこで食べるうどんの味わい、そしてうどん売りの悲哀を見事に描き出していた。その意味で、同じ滑稽噺でありながら、1席目の「新聞記事」とは好対照である。
そして3席目は大ネタの「心眼」だった。盲目の按摩・梅喜を主人公にした噺で、上演機会はあまり多くない。願掛けによって目の見えるようになった梅喜の喜び、芸者に言い寄られた後の浮かれぶり、会話のそこここで不意に露出する差別感情など、一言では言い表しがたい複雑な要素を一之輔は繊細に描き分けていた。やはり一之輔は本格なのではないか……。


本格かどうかにこだわると見落とすもの

このように「本格」の内実を問いただしたあとでは、別の水準が見えてくる。つまり、次のように考えるべきなのだ。一之輔は通常の意味での「本格(かどうか)」という基準にとどまる存在ではない、と。
彼にとって「本格」は芸の一部でしかない。彼を「本格」と評することは、ずれているわけではないにせよ、その魅力の全てを捉えられない不十分な形容なのである。この図式は落語にとどまるものではなく、優れた作家の登場に際して頻繁にあらわれる議論ではないだろうか。

では、一之輔についてどのように捉えるのがよいだろう。ここでは、一之輔を「優れた解釈の人」と捉えてみたい。
彼の大ネタの骨太な魅力は先に触れた通りだ。ここに付け加えたいのは、噺の芯を捉える読みと、それを表現へと結実させる演出、つまりは解釈という知的な作業こそ、その面白さと感動の成立条件だということだ。全体を俯瞰して掘り下げるべき心情を掘り下げ、さらっと済ませるべきところは済ませ、聴かせどころを効果的に配置する解釈、それよって、大ネタをダレずに聴かせる説得力が実現されるのだ。
大ネタだけではない。「新聞記者」などの短い噺もそうである。オリジナルなギャグが不自然に聴こえないのは、この登場人物ならこのセリフもおかしくない、という「らしさ」、適合性がしっかり捉えられているからだ。ときに別の新作ができあがってしまうほどに脱線する会話を楽しめるのは、この噺ならここまでは飛躍できる、という、いわばリアリティの枠が確保されているからだ。つまりここでも、古典を的確に読み、その現代的ポテンシャルを限りなく拡大させる解釈が、彼の笑いを支えているのである。


落語の命脈

ところで落語とはそもそも、このように発展してきたのではなかったか?伝えられたものを単になぞるのではなく、演者それぞれがオリジナルな工夫をこらし、中でも優れたヴァージョンが新たなスタンダードとして定着してゆくこと。落語の伝統とはそもそもが、こうした絶えざる解釈と改変だったはずだ(これについては、広瀬和生『噺は生きている──「古典落語」進化論』という好著がある)。
してみればこう言える。落語における「本格」なるものもまた、歴史の進展の中で、時には「本格ならざるもの」をも飲み込みながら、変容し拡張し続けるものなのだと。そして一之輔は、こうした拡張の伝統の、現代における卓越した後継者に他ならない。わたしたちは一之輔とともに、新たな本格、「本格」の再定義に出会っているのである。

既存の〈本格か否か〉の基準では測れない、むしろまだ見ぬ「本格」を創出する者としての一之輔。本稿はそう結論づけてみたが、そのために語り残した点も数多い。小ネタの選び方に見て取れるサブカル的感性、社会に対する筋の通ったリベラル的態度……。

ともあれ、全てを語ろうとするよりも重要なのは、まず一之輔の高座に足を運ぶことである。生で触れることほど多くを得られる落語体験はないのだから。そして同時に、『笑点』の魅力を改めて考えることである。なぜなら大喜利とはまさに、お題をひねって笑いに変えることで、わたしたちに新たな言葉の捉え方とものの見方を示すこと、すなわち言語と世界を解釈することにほかならないからだ。

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鈴木 亘(すずき わたる)

著者プロフィール

1991年生まれ。現在、東京大学大学総合教育研究センター特任助教。専門は美学。主な論文に、「ランシエールの政治的テクスト読解の諸相──フロベール論に基づいて」(『表象』第15号、2021年)、「ランシエール美学におけるマラルメの地位変化──『マラルメ』から『アイステーシス』まで 」(『美学』第256号、2020年)。他に、「おしゃべりな小三治──柳家の美学について 」(『ユリイカ』2022年1月号、特集:柳家小三治)など。訳書に、ジョルジュ・ディディ=ユベルマン『受肉した絵画』(水声社、2021年、共訳)など。
Twitter:@s_waterloo


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