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小説『松江の小泉八雲』


『小説 松江の小泉八雲』岡戸武平 著
恒文社 1995.12.30.刊

初版は、昭和18年(1943)に㈱大日本雄辯會講談社より刊行されています。

著者は、八雲の愛弟子「小豆沢八三郎」から思い出話しを聞き、自ら松江に赴いて取材しています。

小泉八雲が日本文化をどう理解したかに主眼を置き、八雲を取り巻く人々を淡彩画のようにサラリと描いています。


第1章 松江行き

トンネルに入る予報の汽笛がしきりにして、汽車は度々トンネルをくぐりぬけた。
保津川べりへ来たのだな。

京都を午後9時40分に発った(たった)この汽車は、山また山の「山陰(そとも)の道」を縫いに縫って、出雲の大社まで行くのである。

この列車の中で、白髯(はくぜん)の老人との話が書かれています。
pp.8〜22.
松江駅を降りた印象
この "まち" は、自動車より むしろ 人力車のほうがふさわしい "まち" だと思った。
俥は、大橋を渡って「富田旅館」に着いた。

第2章 お傭教師

なかば夢のうちに、太い鈍い大地を打つ音が、やわらかく枕に響いて来た。・・・
それが米を搗く音がで、耳を枕から離して聞くと、あちらからもこちらからもして、ちょうど松江の朝を迎える心臓の鼓動のように思われる。

しばらくすると、突然ゴーンゴーンと寺の鐘の音が鳴り出し、読経の音が聞こえてきた。
(松江の一日の始まり)
途中略
チェンバレン教授の斡旋で、島根県尋常中学校(,松江中学)のお傭教師の話が出た。

第3章 出雲の神

八雲立つ 出雲八重垣 つま隠みに
八重垣つくる その八重垣を

意味は諸説ありますが「涌き出る雲に縁のある出雲で数多くの雲が立ち上り、雲が幾重にも立つように新居の垣を作っている。
妻を籠らせるために作った宮の周りに、まるで垣を作るように、めぐらした立派な垣よ。」

八雲が歩いた社寺
榎薬師
橋姫さん (売布神社)
龍昌寺 白潟天満宮 嫁ヶ島 
外中原の氏神様
月照寺 城山稲荷神社
この他、小泉八雲は、日曜の来るのを待ちかねて近郊の神社仏閣や伝説口碑の地を訪ねた。
菅田庵 楽山 
八重垣神社 武内神社 神魂神社
一畑薬師 

小泉セツとの出会い
小泉八雲(ヘルン)の部屋の前に来た。
丁寧にお辞儀をして、静かに障子を開け三つ指をついてお辞儀した。
西田千太郎が仲立ち(通訳)をした。
「あなたの決心は、揺らぐようなことはありますまいな」
セツは、ハッキリとうなずいてみせた。
「出来ますかどうか、決心をした以上は、命を差し上げたつもりで尽くすつもりでおります。」
セツ:節:ミサオ

第4章 湖畔抒情

小泉八雲とセツの結婚は、12月初めの吉日と決まった。
紋付きを着て挙式に臨もうと思ったが、納期が間に合わず、正月に間に合わせることにした。
紋付きの家紋を何にしようか?考えた。
図画教師の後藤金彌に相談した。
ヘルンがヘロン(青鷺)に通じていることから思いついた。
鷺は、 祖先のサー・ヒュー・ド・ヘロンの旗の印で「鷺=へロン」 をモチーフにしたものといわれています。

紋付きの注文が済むと、次は住まいの家さがし。
近くに「織原」と、云う老舗の隠居場所があり、そこでヘルン・セツ・女中の三人が住むことになった。
2階屋
結婚式は、ごく内輪だけで「富田屋」で行われた。
月下氷人(仲人)は、西田千太郎が務めた。

第5章 日本の家

5月には、塩見畷(しおみなわて)にある純日本屋敷に引っ越した。

第6章 さらば出雲

小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、一年間教えた学校を離れていった。
小泉八雲は、銀木犀の前に立って、しばし回想にふけって。
明治24年11月15日
その後、日本に正式に帰化する手続きが了(ととのった)のは明治29年1月15日。
「小泉八雲」の名が日本の戸籍に登記された。
こ八雲 明治37年9月26日 狭心症で死去
享年 55歳
小泉セツ夫人は、昭和7年2月18日に亡くなる。
享年65歳

『小説 松江の小泉八雲』岡戸武平 著
恒文社 1995.12.30.刊
 

この『小説 松江の小泉八雲』は、『小泉八雲全集』第一書房 版から収録された。
一部に、原文に倣い著者が創作したものがあります。

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2024.07.18.

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