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「他者ウケ」よりも「自分ウケ」

とは言うけれど、全然人の目は気にしちゃうし、SNS時代を生きる私は簡単に人の近況を知ることができる。十年以上会っていない人にも、簡単に連絡が取れる時代に「自分ウケ」を突き詰めることはできるのでしょうか。

※今回の記事は私の趣味であり生きがいである「文章を書く」と言うことに焦点を当てて書いています。しかし何かの生きがいがある人にはどこかしら当てはまることがあると思います。

そう思ったキッカケ

小説を書いている身でして。
まだまだ箸棒(箸にも棒にも引っかからないの略)なので、「小説家です!」と胸を張って言えないのですが、それでも物語を考える過程は面白いし、文章で組み立てるのも楽しいです。
小説を書き始めたのは中学生くらいから。最初は二次創作やらの趣味の範疇でしたが、年齢を重ねるにつれて、オリジナルの小説を書くようになってきました。
最近ではエッセイも書き始めて、「文章書くの楽しい!」が最高潮まで来ています。

で、ここ数年小説新人賞などに応募を始め、「私の小説を認められたい! あわよくばお金にしたい!」という気持ちがムクムクと湧いてきました。
そこから小説の書き方、文章の書き方とかを勉強したり、物語構造だとかそういう理論もいろんな本を読んで、物語の歴史にも興味を持ち始めた今日この頃。
長編小説を書くことにも慣れ始め、文学フリマで本を手売りしてみたり、投稿サイトで自作を公開してみたりしています。
まだまだ箸棒なんですけど。

そんなことはさておいて、数年前に遡ります。
新人賞に応募し始めた頃、とある文章の先輩に出会いました。その人のプライバシーもあるので、小説家ではありませんとだけ言っておきます。


その人との出会いがきっかけで、物語の構造、いわゆる三幕構造だとか、それよりももっと細かい構造とかを知ることができました。
他には、商業作家、いわゆる小説でお金を稼ぐにはどのような方法があって、どのような人がそれになれるのか、だとか。そういうビジネス的なことも教えて頂きました。
特に長編小説の書き方なるものを教えていただき、一年半ほどお世話になりました。

その人は嬉しいことに、私のことを大変気にかけてくれて小説の作り方や、プロットの書き方などの面倒を見てくれました。
どんな感じで面倒をみてくれたかと言うと、「こんな設定で小説書こうと思うのですがどうですか!」とその人に見せ、「ここはいいね。この場面はもっとこうすれば良くなると思うよ」と、フィードバックをもらっていく感じです。何度も見せ、二人で一つの小説を作っていきました。

その人は私よりも物語を作る経験が長けていたし、知識もありました。
自分のプロットが、自分よりも優れている人に手直しされてより良いものになる感覚が強く、最初は全部丸呑みにして、その人の言う通りに直しました。
まだ素人の私。当然プロットには、良い点もあれば悪い点もあります。
本文を書く前の構成は丹念に組み立てなければならないというのがその人の信条でした。

「これじゃ、何を伝えたいのかわからない」
「こんな暗い話、読者が気を病んだらどうするの?」
「展開が長すぎる。教えた通りに話の筋を書いてる?」

段々とダメ出しが増えていく中で、おかしなことに段々創作欲も枯れてきました。
確実に良くなっているはずなのに、プロットを作ることが嫌になってきたのです。

小説賞を受賞するということは、「自分の作品を認めてもらう」と同時に「誰が読んでも面白いものを作る」であると、その人は言っていました。
誰が読んでも面白いということは、解釈も一つである必要がある。エンタメとはそういうものだと。

確かにそうかもと思う半分、本当かなぁ〜? という疑念が半分沸きました。
けれど、その人は私のプロットを懇切丁寧に見てくれ、本気で良くしようとしてくれている気持ちはめちゃくちゃ伝わって来たので、間違いを言っているはずがないと、従っていました。

そんなこんなで完成した長編小説は一年間で四本ほど。
ま、全部落選しましたけどね。
「言う通りにしたのになんで落ちるの!?」と、なんとも自分勝手な思いと、「この書き方でやっていてもいつまで経ってもこのままでは……?」と、今までになかった疑念が湧き上がりました。

まぁ、今となっちまえば解釈が一つしかない小説が面白いはずなんてないんですけどね。王道ストーリーや金字塔がワンパターンかと言われればそうでもないし、私が「面白いなぁ」と思う作品は何度も読み返したいものです。
解釈が一つだけだったら読み返したいと思うでしょうか?「こういう話だったのね〜」でおしまい、な気がしてなりません。あくまで私の感覚ですが。

私は大体一対一の関係で失敗することが多いのですが、今回も相手の意見を鵜呑みにして自分の意見が言えず、最後の最後で爆発してしまいました。

小説賞を落ち続けた私は、「まずは基礎のプロットをしっかり書くことから専念してみよう」と提案され、1ヶ月くらいみっっちりとプロットを書いていました。
で、フィードバックの嵐。
書き直して、提出しての繰り返し。当然本文は書いていない。

小説の書けない鬱憤と、日に日に増えていくダメ出しの数に、そろそろ私の心が限界に近づいていました。

「このプロットじゃストーリーが機能していない。全面的に変更して」
その一言で私の中でプチッと何かが切れてしまいました。
「本文も読んでないのにプロットだけで面白さがわかるんですか!!!」
と、ブチ切れて、もうプロットなんて書いてやるかと、半ば無理やりその人と距離を置くことにしたのでした。
私も子供でした。
その人には2.3ヶ月くらい経ってから自分の出来の悪さを謝って、和解は出来ました。もう仲良く連絡を取る関係ではなくなってしまったけれど。

なんだかんだで、再び一人で小説を書く環境に戻ってきたのです。
プロットに対して苦手意識こそ持っていたものの、今度はダメ出しする人はいません。自由に書ける環境になったわけです。

その人が教えてくれた沢山の小説の知識、もっと言えばビジネス的な小説の知識は染みついて、私の考え方の一要素となっていきました。
ビジネス的っていうと、どうしても功利主義的な匂いがしますが、

・有名小説の王道パターンは何か
・ストーリーの展開は何が良いのか
・誰もが面白いと思うエンタメとは
・物語展開にある決まった道筋に如何に沿うか

みたいな、いわゆる“成功パターン”、“テンプレート”みたいなものです。
他作品を研究することも、話の展開を分解することも、もちろん大切です。
好き勝手書き散らした作品よりも、筋の通った作品の方が、評価が高いのは当然のことです。
私はいわゆる「誰もが面白いと思う小説を書かなくてはいけない」と思っていたのです。1番流行しているジャンルで、理想とされているキャラクター構成で、王道とされているストーリー展開で書かなくてはと。

でも、ちょっと待ってください。
誰もが面白いと思うものなんて作れるんでしょうか。
全員が全員「面白い!」と思う作品なんてこの世に存在するのでしょうか。
というか、「正しい」小説の書き方なんてものはないし、「正しい」創作論なんてものも無いんですが。
「ある程度は大事」、なものが「絶対的に大事」だと勘違いしていたんです、私は。

私が悩んでいた「他者ウケ」というヤツ

他者ウケ。他者が面白いと思うもの。

他の人が「面白いね!」って言ってくれれば、自然と嬉しくなるものです。
これは自分が第三者の視点で「面白い」という評価をもらうことによって、自分が認められたと思えるから、嬉しくなるのだと解釈しています。
この文章から見てわかるように、私は人から「面白いね!」と言われると嬉しくなります。
「優しい」とか、「頭良い」とか、「かっこいい」「可愛い」でも同じことが言えるのではないのでしょうか。
言われて嬉しい言葉を思い浮かべてください。言われて嬉しい言葉を言われたら、嬉しいですよね。嬉しいですよね?

この承認欲求というものは、切っても切り離せない欲求です。大SNS時代を生きる私たちは何とかして自分の存在をネット上で表現することで、その欲求を満たそうとしています。
誰かの投稿で誰かの魅力が発信され、それに「いいね!」を押す。
すると、それは本人に届いて「いいね!」の数で承認欲求が満たされていく。そんな仕組み。

自分を認めている人の数が「いいね!」の数によって可視化された現代、「私の存在を知って!」という主張だけでは承認欲求は満たされなくなってきました。
誰かの「いいね!」をもらうべく、誰かがウケそうな、つまりは「他者ウケ」を狙った投稿が増える。
誰かが見たら、誰かが「いいね!」してくれそうな話題、写真、イラスト、動画、小説……。

と、これは別に悪いことではありません。
ここで危険なのは「他者ウケ」を気にするばかりに「自分ウケ」を忘れてしまうことについて

小説家に限らず、クリエイティブな職業は「面白いもの」を誰かにお届けするのが仕事だったりする。
誰かにウケる作品は必ずしも自分がウケる作品ではないのだ。

生き残っていくためには自分を殺すことも必要だ。とも某先輩に言われ、ビジネス的にクリエイターをしていくって、そういうことなの……? と少なからずショックを受けた。
それと同時に納得した。お仕事ってそういうモンだよなぁ。

私にもできるかなぁ。

待って! 私がなりたいのってなんだっけ?

例の先輩と縁を切ってから、再び小説を書くようになったのですが、イマイチ筆が乗らない。
なーーーーんにも書けなくなってしまっていた。
プロットを書いても「これ面白いのかなぁ」「これ王道なのかなぁ」とウダウダ考えて、長編なんて書けなかった。短編ならかろうじて書けるくらい。
「物語は王道で、誰が読んでも面白いものでなければならない」の呪縛に掛かってしまっていた私は小説を書くモチベーションが無くなっていた。

メンタルが不安定なこともあって、半年くらい創作活動には消極的でした。
長編を書いてバシバシ公募に応募するぞ!なんて気持ちも蝋燭の火が消されるみたいにフッとなくなっていました。

そこで時間をかけて、ようやく書き始めたのがエッセイである。そう、これ
ここから私のnote生活が始まるわけですがそれはまた置いておいて。

そんな時に転機が。
これまでどんな風に書いていたかとか、自身の創作論とかを話す機会がありました。自分の夢の話になって、そっちの話に広がっていったんだと思います。
そこで私は言いました。
「誰が読んでも面白いと思う小説が書きたい」と。

そこで言われたのが、
「誰が読んでも、とは具体的に何を指しているんですか?」
と言う言葉だった。
言葉が返せなかった。

その人は、文章を書くとき、手紙を書くようにしていると言っていました。
つまりはこの文章を具体的に誰に届けたいか、ということを想像しながら書く、と。
その人からしたら、顔の見えない「誰か」に届ける文章の何が面白いのか、が疑問になったのでしょう。

答えられませんでした。私は一体誰のために小説を書きたいのか?
誰に面白いと思われたかったのか? そういうことを考えていなかったように思えます。
具体的な誰かも思い浮かべず、闇雲に書く小説は、そもそも面白いのでしょうか。

ターゲットの設定は、自分でもしているつもりでした。10代とか、20代とか。
それでも不十分です。10代だから全員青春が好きなわけではないし、20代だから純文学が好きなわけでもないのです。ただ、そういう傾向が強いと言うだけで、そこに具体的な顔は思い浮かびません。

私って、誰のために書いていたんだっけ?
純粋な欲望の、もっと底にあるものをずっと無視してきたように思えました。
色々考えた結果、ハッとしました。

私、私のために小説書いてるんだ!

「私が何を面白いと思うのか」それはいわゆる「自分ウケ」

得体の知れない「誰か」の好きなものを探るよりも、実体のある、そして私が何よりも知ってる「私」が何が好きで、何を面白いと思うのかを掘り下げる方が、難しいようで楽しい。

自分の性格、自分の好み、何が好きで、何になりたいのか。全部知っているようで、実は全部曖昧。
自分にしっかり向き合って、自分のしたいことを思いっきりして、自分という人間のことがだんだんうっすらと見えてくる。そんなものだと思います。

人の目とかを気にしていたら、全然気付けなくなるものなんです。
特に、私の場合は。

良くも悪くも共感しまくり意見鵜呑みにしまくりの私は、物心ついてから人に振り回されていました。自分の中の意見が固まっていないがゆえ、だとは思うんだけれど。
人と接すると、自分にはない意見をもらえることはありますが、自分に意見がない場合次々に人の意見に自分が塗り替えられてしまう。
自分が面白いって思ったものを、まずは突き詰めて、消化させる。それが大事なんです。
小説を書く前、小説にもならないキャラクターの設定を作って、頭の中で遊んでいた幼少期まで遡る。
私がなんで小説書くのが好きなのか。小説を書き始めた時、何をするのが好きだったのか。

私って、文章を書くのが好きなんでした。
小説とか、物語とか、そういうもの以前に、文字を書いて文章にするのが好きなんでした。
私の考えが文字になって、文章になって、もっともっと掘り下げるともっと別の言葉が浮き上がってきて……。
こんなふうに自分の話が文字になっていくのが好きなんだ。

その延長線で小説を書くのも好きになった。
私の考えた話が、物語になっていくのが好きだ。

そこに、「王道」とか、「定石」というものはない。

つまり、そういうこと。
私の作りたい話に、「他者ウケ」はそもそも入っていないのです。

私の出発点が「自分ウケ」であることがわかったら、やるべきことはただ一つ。
「自分が何を面白いかをつき詰めて考える」ことなんですね。

「自分ウケ」からの「他者ウケ」

この順番を大体私は見落としがちである。
大SNS世代の私たちは、と主語を広げてもいいのかもしれないです。
というか、この時代は、ともっと大きく括ってもいいかもしれないです。

誰もがなんでも好きなように発信できるような時代になったからこそ、「誰かにウケなくては」という気持ちは誰にだってあるもの。ではないでしょうか。
その気持ちが膨らめば膨らむほど、「自分がウケていたもの」がなんだったのかを忘れてしまうような気がします。匿名の、顔の見えない誰かが好みそうなものばかりを投稿していたら、自分が何が好きで、何を生きがいにしていたのかも忘れてしまう。

自分が面白いと思っていたものを忘れてしまったら、その趣味すらも楽しくなくなってしまう。かつての私みたいに。

誰かにウケなきゃ! っていう気持ちをなくすことは難しいでしょう。今の私にもその気持ちはあります。
誰かにウケる前に、自分のウケるものを追求して、磨き上げて、そこからようやく「他者ウケ」を考える。
「自分ウケ」と「他者ウケ」の両立は、可能です。

作品は一度完成させて終わりじゃないです。
動画だったら編集、文章だったらリライトどんな媒体でも「見直し」作業はあるでしょう。そこで、客観的な目線があれば、「自分ウケ」から「他者ウケ」に昇華させることができるのではないでしょうか!

どこかに投稿したり、公開したり、応募したりするには自分だけの面白さを、誰かが見た面白さにする必要があります。もしも評価が得たいのならば。
承認欲求とは切っても切り離せない私は、他者の目を気にする気持ちとも切っては切り離せない。その感情を見ないふりすることはできるけれど、完全になくすことはできないでしょう。
なので、その欲求とちゃんと向き合うことにしました。

その欲求に向き合う、すなわち「自分ウケ」も「他者ウケ」も大事にする。
それを、ようやく私は理解できました。し、それを体現できるような気持ちになれました。

頭で理解できていても、なかなか実行できないことなんて、しょっちゅうですよね。
じっくりと時間をかけて、「自分ウケ」と「他者ウケ」について考える時間があっても、いいかもしれないです。

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