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そろそろ自己肯定感について決着つけようぜ

自己肯定感って、怖い言葉ですね。

言葉を分解すると、自己を肯定する感じということ。
しかもそれを「高い」とか「低い」とか、まるで数値みたいな扱いをうけているという。ここ数年で「自己肯定感」を扱う書籍や論文は増え、「高い」ことで全てがハッピーになる!みたいな売り文句を見る機会が増えました。

いやいや、怖いって。

自分を認めている度合いを曖昧な数値に押し込めて、一本の——理系風に言えば、x軸だけで表現できるかのような振る舞い。まるで「自己」というものがひとつであるという前提が、明文化されずに広まっている。ような気がしている。

そもそも自己ってなんですか??

我思う、故に我あり

デカルトの名言

哲学の世界において、「自己」というものはずっとずっとずーーーっと探求されていた。

自分って何?って問いに対して「考えている自分がいるという事実」はどう頑張っても変わらないぞと言ったのがデカルトで。
いや!自分っていうもの、そもそも存在ってものを考えるのって無理くね?って言っているのがハイデガーなんですけど。
フロイトとかは人間の意識的な部分、無意識的な部分をみつけたりもしていますね。

まぁ、それは置いておいて。

ここからわかることは、自己を一言で説明するためにはすごーーーく難しくて、かなーーーり複雑なものだと言うこと。自分はこう言う人間であるって言い切ることって難しいと、元々思っている。

属性としての自分を書き出していくのは簡単でしょう。

〇〇が出身で、ここに住んでいて。〇〇大学を卒業して、こういう夢があって。
職種は〇〇で、趣味は〇〇で……みたいな。

「自己紹介して!」って言われたら、大体年齢と、職業を言うだろう。

でもさ、それで本当に自分を紹介できたことになるのだろうか。
自分というものを本当に紹介できるのだろうか。

例えば顔が半分に 腕が2、3本に 目が5等分にちぎれちゃって
脳みそが隣人に 声が宇宙人に アレがニンジンに変わっちゃっちゃったとしても 
君は僕だと言えるの? 僕の何が残っていれば僕なのだろう?

RADWIMPS /ソクラティックラブ

紹介できる自己が全てではないし、自己紹介の中身が変わったら自己が変化すると言うわけでもないだろう。
外見が変わったとしても、趣味が変わっても、仕事が変わっても、「私」は「私」だ。その瞬間の「私」と過去の「私」、未来の「私」が一致している方が、おかしはなしに聞こえるんだ。
自己というものがヌルヌルと動いていくのに、その「私」を肯定しないといけない、自己肯定感。怖いじゃん。

これでもちらっと言ったのだけれど、自己紹介が苦手である。

紹介したい自分と、誰かが求めている紹介が必ずしも一致するとも思えないし。私は本当に、自己紹介が苦手なのだ。
もう誰も知らなくていいって思うくらい。ジャハリの窓でもあるように、いろんな自分がいて、いろんな自己というものが私という体の中には渦巻いているのである。
そんな中で自分で自己を紹介することの意味の無さ!!
文章を読んでくれ、そこに全部書いてあるからさぁ! と、全部を丸投げしたくなる。

それくらいに苦手だ。けれど、他の人たちはうまいことやっている。ナンデェ!?

もしかしたら、私だけが自己をわかっていないのかもしれない

というか自己紹介と、自己を深く結びつけすぎているだけなのかもしれない。そこに引っ掛かっているのはかなり屁理屈に近いというか、目ざといのかもしれない。

自己がわからないのに、肯定とかできなくない?って思ってしまうのだ。
でも、そんなことを私が言ったとしても、「自己肯定感を高めよう!」「自己肯定感で毎日ハッピー!」みたいな話は溢れすぎるくらいに溢れている。

自己肯定感、これがあると良いらしいということはわかるけれど、なくても別にいいじゃないかと私は思ってしまう。自分を認める努力よりも、ほかにやることがあるんじゃないのか。

「最近、自己肯定感を高める本を読んで、「あ、私はちゃんとできてるな」って確認するんですよ」
「なるほど、自己肯定感高いんだね」
「あ、いえ。そこに書いてある事例を見て「まだマシ」って思ってるんです。自己肯定感低い人ってこんなことで苦労してるのか〜! みたいな」
「ウォウ」

後輩との会話。最後はamazon audibleのCMみたいな声を出しました

こういう怖いことをしている人もいます。

ネット記事いわく、自己肯定感は「ありのままの自分を肯定する感覚」だったり、「自信を持つために必要な感情!」など書かれているわけ。

え……?

ありのまま……? 自信を持つ……?

ここまで読んでわかる通り、私は自己肯定感が低い。かなり。
ネットの診断をやってみたけれど、結構なかった。
でも、だからどうしたと思う。自信がなくても生きていけるし、夢はあるのだ。
凹みやすいけれど、このような凹みがないと私は文学が書けないので。しゃーないと思うのだ。

ありのままって?

ありのままだとか、自信だとかって必要なのでしょうか。いやもちろん「あった方がいい!」とかはあるとは思うんだけれども。けれどもけれども。
ただ、常にありのままの自分を肯定するなんて無理だろう。それに、人によって「どの」状態を「ありのまま」としているのかわからないじゃないか。

めちゃくちゃヒステリックで物を薙ぎ倒すことが「ありのまま」かもしれないし、人をめちゃくちゃ攻撃することが「ありのまま」かもしれない。
これは肯定してもいいものなのだろうか。

良いか悪いかで言ったら、倫理観的には「悪い」だろう。けれど、自己肯定感的には「良い」になるのだ。ありのままの癇癪をぶつけられたら、たまったものではないのだが。それを打ち返す「ありのまま」の自分がいたならいいけれど、そうでもない「ありのまま」もあるので。

「これが私だ!」と誰かにそれをぶつけた瞬間に、自己肯定感は「よくないもの」に変身してしまう気がするのだ。
それって高める必要ある?って思うのですが……。
自己肯定感とワガママはなにか関係があるのかもしれない。まぁ、自己を肯定することと、他者を傷つけることはまた分けて考えられるものなのかもしれませんが。

自信って?

自信を説明するならば、「自分を信じる」ことだと思うのですが。
そもそも信じるって何?
って人なので、信じるという現象がそもそもわからない。何をもって、何をしたら信じている状態になるのか。ずっと信じているなんてことがあり得るのだろうか? 愛も同様
かなり難儀な生き物ですね、私は。わからないことだらけだ。

瞬間瞬間によって変化していく自己、そして変わっていく「信じていること」

そりゃあね、時間は進むし、変わっていくんですから。
自分を取り巻く環境や人を信じていたら、いつの間にか変化し、いつの間にか全然違うものになっているということは、あり得る話だろう。そういうもん。常にそういうもん。
そういう意味では人も、モノも信じられない。裏切られるのも怖いし。気づいたらいなくなってるとか、やだし。
信じられるのは「書いている自分」くらいです。ギリ。これは私が書き続ける限り、裏切らないし。筋肉みたいなもの。

信じるっていうのがこんな感じで不確定なのに、自信って必要なんですかね?
自分を全面的に信じられるだろうか。

無理じゃん? 2秒前に持っていたものを平然と失くすし、嘘つくし、怠惰だし。
クソだと自分では思っていても他の人には立派だとかも思われたいし。常に矛盾を抱えているし。
普段の生活において「自分を信じられない」ことの方が多い。

常にずっと「書く」ことに縋っているわけでもない。「読む」ことだってあるし、「観る」ことだってある。
24時間「書く」ことはそこそこに考えているけれど、と言い訳がましいことを付け足してみるけれど、うまいこと書ける時の方が少ない。

自己肯定感、いる?

自己もわからないし、肯定もわからない。これが世に蔓延っている理由も、「高めねばならない」理由もわからないのである。自信はあった方がいいだろう。ありのままの自分を認めた方がいいだろう。

でも「できればやっておいた方が良い」ものを、全人類が「やった方がいい」にシフトチェンジするのはいかがないものなのかと思うのだ。

しんどい時はしんどいし、無気力な時は無気力だ。
やる気がある時はあるし、頑張れる時は頑張れる。

ここに自己肯定感は関係ないように思うのだ。

ただ、好きだからやっているというだけで。そこに「信じる」も「自己」も「肯定」もクソもない。

自信なくても、いいじゃん。
ネガティブでも、いいじゃん。

自己肯定感という言葉があるから、自分を認められない事実があるからで。
何かを否定するから肯定するという言葉があるわけで。

全部、自分に降りかかるあらゆる感情を「いいじゃん」で完結させることができれば、余計なところで苦しむ必要は無くなるんじゃないかなぁとも思うわけです。
これが自己肯定という意味なんだろうか? うーん、違うと思うけれど。

もっと苦しいことはたくさんあるのだから、自分自身で苦しむことは、なるべくなるべく少ない方が良い。

自己を肯定するなんて恐ろしいことをする前に、自分が何が好きで、何が嫌いで、どうやって生きていきたいかを考えた方がよっぽど有意義です。

自分と向き合わなきゃって思えば思うほど、辛くなるし信じられなくなると思うんですよ。

なんとなくね。違うかもしれないけれど。

いろんな考え方があっていいと思います。私は、「自己肯定感なんてクソ喰らえ!」と思っている人だよということだけ、今回は言えたらいいなぁと思っています。


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