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「ディープな維新史」シリーズⅧ 維新小史❽ 歴史ノンフィクション作家 堀雅昭

「維新ファシスト150年」


長州藩の最高幹部「当職」であった福原越後の自刃から半年後の慶応元(1865)年5月16日に、宇部の琴崎八幡宮に、国賊として死んだ福原越後を神として合祀する事実上の招魂祭が斎行されていた。
 
祭主は嗣子の福原芳山。
 

福原芳山(宗隣寺蔵・画像加工)


招魂祭を行ったのは、後に靖国神社の初代宮司となる青山上総介(青山清)であった。
青山は、萩椿八幡宮第九代宮司であり、このときは山口明倫館の編輯局に勤める国学者であった。
 

青山清(靖国神社蔵・画像加工)


余談ながら、このとき青山と一緒に奉仕した宇部側の御手洗学が、俵田明(福原家臣で後に宇部興産初代社長)の母ハヤの父である。
 

御手洗勉輔〔御手洗等〕(御手洗久蔵)


その延長線上に、琴崎八幡宮から福原越後の神霊が遷座した維新招魂社の初代宮司として、御手洗学の息子・御手洗勉輔(御手洗等)が就任する。
 
青山上総介の招魂祭の流れに沿って、維新招魂社は御手洗一家、すなわち俵田一族を中心にする旧福原家臣団のより護られていったのである。
付言すれば、俵田明の曾孫が、岸田文雄内閣の外務大臣・林芳正さんである。
 
話を戻そう。
維新招魂社(のちの宇部護国神社)の創祀は、社殿建立以前の慶応元年5月16日、すなわち青山上総介が琴崎八幡宮で招魂祭を斎行したときであり、それは下関の桜山招魂社の創祀より3ヶ月も前だったことになる。下関の桜山招魂場の創祀より、宇部の維新招魂社の創祀の方が古いのは、このためである。
 
実際、『靖国神社百年史 資料篇 下』の「宇部護國神社」には、つぎの説明が見える。
「旧名維新招魂社・厚狭中宇部招魂社。慶応元年五月十六日、福原五郎が創立し、禁門の変の殉難者二二名を祀つた」
 
ここにはっきりと、維新招魂社の「創立」(=創祀)が、「慶応元年五月十六日」と明記されているのである。なお、文中に見える「福原五郎」が、前掲の福原芳山のことであった。
 
平成27(2015)年は創祀から150年目で、私は野村好史宮司にお招きを受け、宇部護国神社での創祀150年神事後に「維新招魂社創祀と福原越後公」と題して一時間ばかりのお話をさせていただいた。
 
むろん山口県が秘して公表を控えてきた、維新秘史を生きた青山上総介(青山清)の子孫の一人として、祖先の足跡と宇部護国神社の創建の真実を多くの人に知ってもらう話であった。おかげで大いに盛り上がった。
 

宇部護国神社・創祀150年記念講演「維新招魂社創祀と福原越後公」平成27年9月


ちなみに『宇部村誌』によれば、現在、宇部護国神社が鎮座する中宇部の崩山の地に維新招魂社の社殿が落成したのが慶応2(1866)年11月19日である。つづいて福原越後の神霊を琴崎八幡宮から維新招魂社に遷したのは慶応3(1867)年12月5日。したがって、幕末の維新革命(回天)の2年半もの間は、福原越後は琴崎八幡宮に神として祀られていたことになろう。
 
宇部護国神社が福原越後を主祭神にしているのは、いま述べたとおり、戊辰戦争を前に、琴崎八幡宮から神霊を遷座したからであった。
 
宇部護国神社の古をしのぶものとして、維新招魂社の社殿建立から遷座までの間に奉納された石鳥居が、小串側の入り口に鎮座している。
 
入口に向かって右足に「維慶応三年丁卯」、左足に「春三月良辰建之」と刻まれているので、そうとわかる。むろん福原越後の神霊が琴崎八幡宮から遷される直前に、旧福原家臣によって建立された歴史的に大きな意味のある石鳥居だった。
 

慶応3年3月に奉納された宇部護国神社の小串側入口の石鳥居(平成26年9月)


そして遷座が終わると、越後の誕生日である8月28日(文化12〔1815〕年)が、毎年の祭典日になるのである。
 
祭礼日が一ヶ月後の9月28日に変更されたのは「明治廿一年」のころからだと山田亀之介が『宇部郷土史話』(419頁)で語る。その理由については、『維新招魂社縁起』が、「明治五年壬申十一月九日 太陽暦発布ニ付更ニ翌六年ヨリ以降毎年同暦九月廿八日ヲ以テ祭典例日ト改ム」と記している。
 
公式には太陽暦の採用に併せて、祭礼日も1ヶ月後にズレ込むわけであるが、福原家臣の子孫縁者の多い宇部では新暦に対する抵抗が強かったと考えられる。山田も前出の『宇部郷土史話』(348頁)で「神社の祭礼や年の市なども年久しく旧暦によって行われた」と語り、「明治二十四五年のころであろうか、琴崎八幡宮のお祭りが、新暦と旧暦と二様に行われるというような奇現象を生じたこともあった」と記している。
 
おそらくこうした背景から、宇部維新招魂社の例祭が新暦9月28日に改められたのも、実際は「明治廿一年」ごろからだったと考えられるのである。
 
宇部護国神社は、革新と伝統を保存したタイムカプセルである。
そして山口県が秘してやまない革命家・福原越後と、幕末の維新革命に準じたファシスト兵士たちを祀る麗しきファシスト革命の神社でもあったのだ。
 






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