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岸信介と統一教会〈邪教に毒された偽装保守〉 歴史ノンフィクション作家 堀雅昭

安倍元首相が奈良市の近鉄・大和西大寺駅近くで狙撃され、落命したのが令和4(2022)年7月8日であった。
 
容疑者の山上徹也氏が暗殺に踏み切った理由は、母親の統一教会への傾倒による家族の破綻にあった。自らの人生が崩壊したことで、自死を覚悟して蹶起したように見える。
私怨とはいえ、結果的に「政治テロ」であった。
 
したがってその原因が、問題を抱えていたカルト宗教であったことかた、政治家と統一教会の関係がメディアでも、問題視され始めたのである。
 
こうした延長線上に、事件から2週間余りが過ぎた7月26日に、FLASHが「〝旧統一教会と関わりがあった現職国会議員〝は101人!総力取材で見えた〈9割が自民党〉の密すぎる関係」と題して、統一教会と関係のある国会議員101名のリストを公開した。
 
このリストは「やや日刊カルト新聞」が作成したものである。
そこで本稿でも、そのリストをまずは紹介しておこう。

FLASH「“旧統一教会と関わりがあった現職国会議員”は101人!」統一教会国会議員リスト(2022年7月26日公開)以下同じ

安倍さんの暗殺でクローズアップされた統一教会であるが、なにゆえ101人中91名が自民党議員と多勢なのかについては、やはり日本での創世期に、自民党の岸信介氏が深くかかわっていたからだろう。実際、孫の安倍さんが狙われたのも、その理由でもあった。
 
そこで日本での布教活動のはじまりについて調べると、昭和53(1978)年8月11・18号の『朝日ジャーナル』が「〈反共〉陣営と連動する勝共連合」と題する記事を見つけた。
 

1978年8月11-18日『朝日ジャーナル』「〈反共〉陣営と連動する勝共連合」


昭和48(1973)年4月8日に、東京・渋谷の統一教会本部で岸さんが「アジアの危機と青年の使命」と題して行った講演を活字化したものである。典拠は、統一教会の機関誌『成約の鐘』1973年3~4月合併号だ。
 
このとき岸さんは統一教会での3度目の講演だった。
当時、語った統一教会との出会いは、南平台の自邸の隣に統一教会の若手が集い、日曜礼拝を行っていたことにあったとしていた。私は、旧岸邸の場所を訪ねたことがあるが、そこは現在の秀和第二南平台レジデンスの建っている場所である。

渋谷 秀和第二南平台レジデンス(旧岸信介邸跡)

その地で、岸さんは、最初、統一教会の若者たちが大きな声で賛美歌を歌ったり、熱心に説教を聞く姿に興味を持ったという。
 
時を同じくして、敗戦で戦犯として一緒に巣鴨プリズンに入っていた刑務所仲間の笹川良一氏が、統一教会の方針に「共鳴」したとかで、岸さんに「あれは私が陰ながら発展を期待している純粋な青年の諸君」という紹介をしたらしい。
 
そこで岸さんは、家の隣でもあったことで、「翌日の礼拝の後」に訪れたという。
 
むろん笹川が「期待」していたというのは、勝共連合ゆえの組織の性格にあった。
当時の共産主義勢力に対抗できる政治使命を内包していたからである。
 
戦後間もない時期でもあり、ソビエト共産主義、中国共産主義が力を持っていた時代だった。
 
岸さんが参加した統一教会の席上にも、韓国政府のメンバーや同じく朝鮮の大学教師が出席していたというので、KCIA(大韓民国中央情報部)のテコ入れがすでに進んでいたものと思われる。
ここに平成6(1994)年5月刊の『統一教会四十年史』に掲載された岸さんと文鮮明の写真を掲載しておこう。岸さんは昭和62(1987)年8月7日に91歳で死去しているので、統一教会の記念誌は岸の没後7年目に出されたことになろう。

岸信介と文鮮明(1994年5月刊『統一教会四十年史』)

むろん岸さんにしても、共産主義に対抗できる組織として、統一教会に賛同したわけであったが、そもそも創始者の文鮮明が『平和を愛する世界人として 文鮮明自叙伝』で語るように、朝鮮で三・一独立運動が起きた翌年の大正9(1920)年1月6日に、文はその地で生まれていたのだ。

そして朝鮮耶蘇教長老会神学校を卒業した大叔父の潤國(ユングク)なども、三・一独立運動に身を投じ、逮捕されるなど、反日運動の渦中に身を置いた家系であったことは忘れてはなるまい。
 
すなわち、「反共」ではあるが、統一教会(勝共連合)の根本精神は反日運動にあり、「韓国は夫(アダム)であり、日本は妻(エバ)の立場にある。故に日本は韓国に対してかしずかねばならない」という教えも、日本を朝鮮の続国にする意図が隠されていた。

さらにいえば、統一教会は「天皇を文鮮明の下に位置づけしている」とさえ『続・日本の狂気 ―まぼろしの勝共世界最終戦―』は述べている。
 
最初から邪教であったわけであるが、それでも岸さんが賛同した理由は、繰り返しになるが、共産主義の暴力の防波堤になるからであり、いわば必要悪であったのだ。
 
ところが平成3(1991)年12月にソビエト連邦が消滅し、アメリカ中心のグローバリズムが圧巻すると、「反共」をスローガンにした統一教会も日本保守政治にとっての役目を終えたのであった。
 
にもかかわらず、日本の保守派政治家の中では、岸さんの「反共」以来の関係が受け継がれ、ついには社会問題化したカルト教団の姿が明らかになっても、票目当てや、選挙協力、政治運動資金目当てで、けじめなく関係をつづけ、その末に家族が犠牲になった山上容疑者に、岸さんの孫である安倍さんが暗殺される悲劇が起きたのである。

安倍晋三 狙撃直後(令和4年7月8日インターネットより

岸さんに始まり、岸さんの孫で終わったという意味では因縁めいた事件であり、歴史は皮肉と言わざるを得ない。


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