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「ディープな維新史」シリーズⅣ 討幕の招魂社史《徳川幕府という「過ち」》 歴史ノンフィクション作家 堀雅昭

《徳川幕府という「過ち」》


原田伊織氏は『三流の維新 一流の江戸』の「あとがきにかえて」で、「江戸の〈徳川近代〉があと十年続いていれば、我が国に国粋軍国主義国家は生まれなかった」と断言している。もはや悪い冗談としか見えないのは、そもそも徳川幕府の成り立ちから考えて、300年近くも独裁体制が維持できただけでも、奇跡的であったからだ。
 
何を隠そう、徳川幕府を築いた徳川家のルーツは、南朝側の流れ者のである徳阿弥である。
徳阿弥の素性は不明だ。
これが家康の8代前で、それがたった一回の関ケ原の戦いで勝利したことで、幸運にも徳川一強体制を作れたのだ。
 
徳川将軍家を頂点に据えた自前の階級社会を強制し、刀狩を強要して有無を言わせぬ絶対的な主従関係を強いたのである。それでも江戸時代も半ばを過ぎると、民衆は繰り返し一揆で反抗の態度を示すようになる。
 
徳川幕府は儒教を利用し、君主に逆らえば即打ち首というサダム・フセインさながらの暴力的封建制を築いた。この閉鎖的な社会から排斥された女性たちは遊郭に売られ、一種の奴隷制というべく仕組みが整えられていく。
 
はた目からは、かなり無理をしながら、徳川幕府は運営されたことがわかる。
 
一方で、関ヶ原の敗戦こそが、毛利家にとっては「徳川幕府という〈過ち〉」の元凶だった。
 
桓武天皇の血を引く毛利家にとって、流浪者・徳阿弥の後裔である徳川家に支配されたことは屈辱以外の何ものでもない。明治維新は270年にわたる「徳川幕府という〈過ち〉」から脱却する行動であったのだ。
 
こうした社会改革を進めるため、天皇を軸とした近代を用意した幕末の指導者こそが、代々毛利家に兵学者(山鹿流兵学)として仕えていた吉田家の寅次郎、すなわち吉田松陰であったのである。
 
「ディープな維新史」シリーズⅣでは、吉田松陰の討幕思想の浮上により、徳川体制崩壊の中ではじまった長州藩の招魂祭にスポットをあて、靖国神社の源流としてのそれが、実は幕末長州に芽生えた近代主義の一端であった史実を追ってみたい。


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