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「ディープな維新史」シリーズⅣ 討幕の招魂社史❸ 歴史ノンフィクション作家 堀雅昭

萩城の仰徳神社(霊社)


人を神として祀る祭事を招魂祭という。
長州・須佐の益田親施を神として祀る招魂祭につづいて、萩城内の仰徳神社でも臨時大祭が斎行された。これもまた招魂祭の一種だろう。
 
このとき藩主・毛利敬親が神前で誓った「御告文」が『山口県史 史料編 幕末維新6』に所収されている。
 
「元治二年乙丑二月某日、裔孫(えいそん)敬親恭(うやうや)しく霊社四公の霊に告く」として、「維新の政を敷き、重て上下一和を謀り永く社稷の全を求め」るため、「神助を仰く」とある。
 
『復刻 忠正公勤王事績』には、仰徳神社の臨時大祭を「二月二十二日から三日間」行ったとしている。元治2年2月22日から24日まで斎行されたのだ。毛利家に関する百科事典『もりのしげり』にも同様の記録が確認できる)。

元治2年2月22日「臨時祭」(『もりのしげり』)7

この臨時大祭で、仰徳神社に祀られた「霊社四公」とは毛利元就、またその子である毛利隆元、さらにそのまた子の毛利輝元、さらにそのまた子で初代の長州藩主となった毛利秀就の「四公」だった。

 萩城に毛利元就と、続く3代を神として祀ったのだ。

なかでも中心の神は毛利元就の神霊であった。 私は広島県の毛利家の居城・郡山城内にある洞春寺跡の毛利元就墓所(もうりもとなりぼしょ)を参ったことがある。

郡山城洞春寺跡の毛利元就墓所毛利元就墓所入口

まさにその神霊を萩城内に祀ったわけである。

 もっとも毛利元就の神霊も、もとは芸州高田郡麻原(おはら)庄内の山中に鎮座する大宮八幡宮に祀られていた。

それが関ケ原の敗戦後に毛利輝元が長州入りするに際して、宮司だった小南宮内に命じて、最初は萩の春日神社に祀らせていたのである。 

この事実は『八江萩名所図画(やえはぎめいしょずえ) 一』の春日社の祭神の箇所に「大宮八幡宮」とあり、「此大宮社ハ洞春公御軍神にて安芸国中麻原にありしを慶長年間当所へ遷し奉まつり」と記されていることでわかる。 

いうまでもなく「洞春公」は毛利元就のことで、安芸国の大宮八幡宮に祀られていた軍神の毛利元就の神霊を、慶長年間に萩の春日神社に遷していたのである。

そんな毛利元就の神霊を春日神社から、改めて萩城内に遷したのが7代藩主の毛利重就であったわけである。萩城内への遷座の理由は、藩政改革の柱となる撫育を成功させるためであった。 

すなわち宝暦12(1762)年9月に毛利元就の神霊を萩城内に遷し、毛利隆元、毛利輝元、毛利秀就を合祀して仰徳大明神(こうとくだいみょうじん)と改めたのである。

 長州藩で、「霊社」とか「祖霊社」と呼ばれるのは、この仰徳神社に他ならない。

それが幕末に至り、内乱勃発などが起こったことで、再び長州藩士の結束力を高めて、社会の立て直しが必要になったのだ。

 このときの毛利家一門の心情については、それ以上のことを公文書で知ることはできない。

 しかし『世外井上公傳 第一巻』は、「士民は敬親父子の誠意に感激し、武備恭順の藩論を確守し、若し幕府再征の挙あるに際しては一致団結 死を以て之に当り、勤王の大義を天下に伸張しようとの志を決した」と記している。

 すでに討幕も視野に入れた毛利家の団結が底流に流れていたとみるべきなのか。

 確かに直後の3月14日には「禁門の変」で罪を負って国賊として自刃した益田、福原、国司の家格を元に戻す行動に出ていた(『もりのしげり』)。 

むろん藩内だけの秘め事で、徳川幕府から許しを得たわけではなかった。また、許されるはずもなかった。 

このため徳川幕府を欺く必要があり、益田は御神本、福原は鈴尾、国司を高田と名を改めて家を再興させたのである。仰徳神社の臨時大祭は、謎めいていた。 

《コラム》 「祖霊社の移動」と萩市の誤り

討幕意識を内包した仰徳神社の臨時大祭が元治2年2月に斎行された場所は『防長回天史 七』(79頁、マツノ書店版)が「二十二日以降三日間 東南の城門を開き祭祀終わる」と記している。

すなわち萩場内の仰徳神社であったのだろう。

 一方で、これに前後して毛利家の祖霊社が、あちこち場所を移していた事実があった。 

例えば山口県文書館に所蔵される『御霊社山口に御遷宮並に椿社内に仮御遷座一件』(毛利家文庫)や『忠正公伝』「第一五編 第四章 第七節 山口遷移 第二項 霊社の遷座」(『両公伝史料』)には、文久3年6月6日に、祖霊社が萩の椿八幡宮に仮遷座したとある。

 『忠正公伝』「第一五編 第四章 第七節 山口遷移 第二項 霊社の遷座」(『両公伝史料』)には霊社を「椿八幡宮」に仮遷座すると明記されている

 この日は寺社奉行役やお目付け役などが任務に当たり、椿八幡宮まで神輿を担いで、さながら大名行列の光景であったようだ。 

この仮遷座には、萩の祖霊社の神主であった城村五百樹や津村多中たちが奉仕した。しかし受け入れ側の椿八幡宮の青山上総介の名が見えないのは山口にいたからだろうか。

青山は、明治維新後に上京して東京招魂社の祭事係(事実上の宮司)になった後、靖国神社初代宮司になった青山清である。

 それはともかく、文久3年8月には、霊社は椿八幡宮から改めて山口の多賀神社に遷されている。 多賀神社は現在の山口県庁の東、水の上町で国道九号を隔てた武徳殿の向かい側にあった(現在は山口大神宮境内に移転)。そして維新後は豊栄神社が造営され、そこに毛利元就の神霊が遷される。

 こうして霊社が移動する中、元治2年2月に萩場内の仰徳神社で臨時大祭が行われていたことを考えると、藩をあげての事業ゆえに、このときだけ椿八幡宮に仮遷座していた祖霊神が仰徳神社に戻されたのであろうか。

なお、現在、萩城内の仰徳神社跡地に「仰徳神社跡」と題する説明板が設置されている。そこに観光客向けに萩市が「1863(文久3)年、宮崎八幡宮に合祀された後…」と記している。

萩城内の「仰徳神社跡」の誤った説明板。文久3年に宮崎八幡宮に合祀されたという記載は「文久3年に椿八幡宮に仮遷座した」が正しい。

しかし前掲のとおり、これは萩の椿八幡宮への合祀(仮遷座)の誤りであろう。




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