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「ディープな維新史」シリーズⅡ 靖国神社のルーツ❶ 歴史ノンフィクション作家 堀雅昭

靖国神社(平成30年3月)

「靖国」宮司になった徳川家

「私は賊軍、官軍ではなく、東軍、西軍と言っている。〔略〕向こう(明治政府軍)が錦の御旗を掲げたことで、こちら(幕府軍)が賊軍になった」
 
靖国神社の徳川康久宮司のインタビューが『中国新聞』に載ったのが、平成28(2016)年6月10日だった。

靖国神社宮司時代の徳川康久氏(平成27年1月)

共同通信の配信記事で、3年後(平成31年=令和元年)に創建150年を迎えることに関しての取材を受けての発言だった。
 
この徳川宮司発言を『週刊ポスト』(小学館)7月1日号が「靖国神社徳川宮司〈明治維新という過ち〉発言の波紋」と題して報じたことで騒動が起きるのである。

徳川康久宮司の辞任騒動にまで発展した『週刊ポスト』記事(著作権保護のため画像加工・平成28年7月1日号)

実は事前取材があり、私も以下の感想を述べていた。
「戊辰戦争は官軍VS賊軍の戦いであり、その延長戦上に靖国神社がある。発言は創建の歴史を揺るがしかねず、宮司の立場からは踏み込みすぎでしょう」
 
そのコメントが、そのまま『週刊ポスト』の誌面に掲載されたのだ。
 
東京の週刊誌が、わざわざ山口県の片田舎に住む私にコメントを求めてきたのは、中学生のころまで居能(宇部市藤山の居能)に住んでいた曾祖母の野村ヒサが、靖国神社初代宮司・青山清(藩政期は青山上総介を名乗る)の孫娘であったからだ。萩の椿八幡宮の第9代宮司だったことで、青山清の肖像は萩博物館にもパネル展示されている。

萩博物館に展示されている「青山清(上総介)」の肖像

あるいは、遠縁たちと青山清の評伝『靖国の源流』や『靖国誕生』を書いていたからでもあろう。いずれも福岡の弦書房から発売されて、大きな反響を呼んでいた書籍である。
 
「いやね、徳川康久宮司って徳川慶喜の曾孫なんでしょう。靖国神社は長州藩による討幕運動の末に、明治2年6月に九段に東京招魂社として創祀されたのが最初ですからねえ。徳川宮司ってのが、そもそも違和感がありますよ」
 
私がそう打ち明けた週刊誌記者というは、季刊雑誌『宗教問題』を主宰する小川寛大さんであった。
同誌で「維新の長州精神史」を連載していたので、連載稿を読んでいた小川さんの理解は早かった。これに前後して、小川さんは何度か打ち合わせで宇部に来ている。

宇部駅に着いたばかりの小川寛大さん(2令和元年9月)

「で、堀さんは、それはおかしいと思うわけでしょう」
「だって、そうでしょう。靖国って徳川を滅ぼした長州派のメモリアルの神社でもあるわけですからね」

 私は靖国神社の社頭で銅像となって鎮座している大村益次郎が、現在の山口県庁の前にあった山口明倫館の兵学寮で洋学を教えていたことや、初代宮司になった青山清が同じく山口明倫館で国学を教えていた国学者であったことを解説した。そして、「靖国神社の創建人脈は山口明倫館人脈ですよ」と付け加えた。

 初代宮司の子孫の一人として、長州藩に敗れた徳川家の子孫が靖国神社の宮司になるのは、どう考えても無理があると言いたかったのだ。

しかも創建150年を迎えるタイミングでの宮司就任は違和感がありすぎる。

 顧みれば第11代の靖国神社宮司に徳川康久さんが就任したのは平成25(2013)年1月だった。

当時も不自然だったが、そのことを語るには、長州の青山上総介が靖国神社の初代宮司・青山清となるまでを『靖国の源流』としてまとめ、平成22(2010)年7月に弦書房から出版した経緯から話す必要がある。 

この本は青山大宮司家の萩の椿八幡宮近くを山陰道(萩・三隅間を結ぶ国道191号)が通ることとなり、墓所の移転話が出て、一族で調査をして仕上がった青山一族の記録集である。

 道路建設は、山口国体(平成23年10月開催)に関係して立ち上がった公共工事だった。青山大宮司家の墓所「大夫塚(たゆうつか)」は、椿八幡宮から5~6分歩いたところの竹林とシダの茂る山の入口にあった。 実にその「大夫塚」の真上を道路が通ることになったので、移転話が出たのである。

移転前の「大夫塚」墓地を手分けして調査しているところ

 






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