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テロリズムと三島由紀夫       歴史ノンフィクション作家 堀雅昭

「暗殺と民主主義」で考える山上徹也

談社の「現代ビジネス」が2022年7月24日に「【安倍元首相銃撃事件】「山上徹也容疑者に寄せられた〈賛同の声〉と〈模倣犯〉の危険性」と題して、興味深い記事を載せていた。
 
書いたのはフリーライターの奥窪優木氏である。

『現代ビジネス』【安倍元首相銃撃事件】2022年7月24日

奥窪氏は、事件後に山上徹也容疑者に対して、多くの賞賛の声がネット上にあふれているのを目にして躊躇したようだ。むろん私も、その渦中にいたので、それは目にした。
驚いたのは、立命館大学に安倍さんの暗殺を賞賛するビラまで貼られたことであった。

立命館大学に張り出されたビラ.(ネットより)

あるいはまた、山上氏のアカウントが発見されたことで、それまでひとけた台だった山上氏のフォロワー数が、一気に4万人以上に達していたことにも、奥窪氏は驚いていた。
 
そのうえで、「なぜ日本で、容疑者に賛同する声が上がったのだろうか」と問いかけていたのだ。母親が入信した統一教会に人生を破壊された山上氏への同情があったにせよ、「ここまで公然と殺人犯が持ち上げられた例は少ないのではなかろうか」というわけだ。
 
そこで奥窪氏は、犯罪学の専門家・小宮信夫氏(立正大学教授)の「社会への不満から、革命への期待感を抱く人たちは一定数います」という解説を紹介し、「模倣犯」が出現することへの危惧を語るのであった。さらには、この社会現象が、「潜在的模倣犯の背中を押す要因にもなりかねない」と警笛も鳴らしていた。
 
だが、私が感じた山上容疑者への「賛同の声」の位相は、少し別のところにあった気がしていた。私もまた安倍さんの靖国神社参拝など、ほとんど問題にしてなかった一人だが、それとは別に外国人労働を大量に招き入れる改正出入国管理法、すなわち「移民法案」の施行(平成31〔令和元〕年4月)やグローバリズムを是認したことによる共同体の崩壊、さらには国内産業の空洞化と国民国家の消失などには、そうとう問題があると考えていた。市井の民草の私でさえそうなのだから、生粋の右派から見れば、左翼政党そのもののやり方にも見えていたのではあるまいか。
 
実際、右派の支持を集めている「チャンネル桜」なども、平成30(2018)年12月15日には、国会を通過したばかりの移民法案について厳しい抗議番組を作って放映していた。チャンネル桜は、いわば安倍政権の生みの親ともいうべき支持母体であったが、その代表を務める水島総氏が「安倍政権が、今や日本を解体する、多民族国家への道を歩もうとしている」と罵倒し、「絶対に許さない」と怒りを露にするほどであった。

「チャンネル桜」(平成30年12月15日)

この移民法案は、安倍さんの親衛隊だった作家の百田尚樹氏でさえ、令和2(2020)年2月14日のTwitterで、「青山議員は移民法もアイヌ法も、事前は〈反対!〉と勇ましいことを言っていました。移民法に関しては〈これを通せば、私は安倍さんの敵になる!〉と涙ながらに叫んでいましたが、いざ採決となると、しれっと賛成票を投じました。 私は奇麗ごとだけの国会議員は信用しません」と回想するほど、後々まで保守派の反発を招いた政策だったのである。
 
だが、すでに言論は通じなくなっていたのではあるまいか。
それは左派が問題視していた森友や加計問題、さらには伊藤詩織さんの事件もみ消しとは違う部分でも、自浄作用がなくなっていたという意味である。
 
経済評論家の三橋貴明氏なども、平成29(2017)年」10月8日, 9日号の『三橋貴明の「新」経世済民新聞』で、早くもグローバリズムの新自由主義の弊害とアベノミクスの失敗を論じていたが、その声も無視され続けていたからだ。
 
こうして傷口は、どんどん広がっていった気がする。
そんななか、前出の百田さんのツイートから半年余りが過ぎた令和2年9月に、安倍さんは首相を退任して、更に2年を迎えようとした矢先に、今回の暗殺事件が起きたわけである。

安倍元首相の狙撃を伝えた『読売新聞』(令和4年7月8日・夕刊)


以上の一連の流れを見渡したとき、山上容疑者への「賛同の声」が、単に山上氏の私怨である統一教会問題を越えた部分も含まれるとみるべきであろうし、影響としては、実際にそうなった。
 
政治テロではなかったが、実質的には政治テロの輪郭が浮かび上がるのだ。

2022年7月9日『朝日新聞』朝刊(画像加工)

そうなると暴力と言論、そして民主主義のあり方に、再び回帰する。
新聞やテレビ、ラジオのコメンテーターは、こぞって「暴力は民主主義の敵」というステレオタイプで山上容疑者を愚弄し、批判し、糾弾した。安倍さんに近い国際政治学者の三浦瑠璃、精神科医の片田珠美、弁護士でTVコメンテーターの八代英輝など、山上容疑者を執拗に攻撃していた。ところが彼らは、ネット界隈から返り血を浴びる形で、逆に痛烈な批判されたのである。
 
奥窪氏が、「ここまで公然と殺人犯が持ち上げられた例は少ないのではなかろうか」と疑問を呈したのは、こうした現象を示しているのだろう。
 
このとき、三島由紀夫が語った必要悪としての「暗殺」や「テロ」の意味や効用を思い出したのだ。
 
三島は「学生とのティーチ・イン」(『文化防衛論』所収)で名言を口にしていた。これを紹介すれば、山上容疑者の中にあった「民主主義と暗殺」の関係性が、明確にあぶりだされる。すなわち、以下の文人・三島の卓越した暗殺観である。

三島由紀夫と刀(ネットより)

●「結論を先に言ってしまうと、私は民主主義と暗殺はつきもので、共産主義と粛清はつきものだと思っております」
 
●「どうして暗殺だけがこんなにいじめられるのか。私は、暗殺の中にも悪い暗殺といい暗殺があるし、それについての有用性というものもないではないという考え方をする」
 
●「たとえば暗殺が全然なかったら、政治家はどんな不真面目になるか、殺される心配がなかったら、いくらでも嘘がつける。やはり身辺が危険だと思うと、人間というものは多少は緊張して、日ごろは嘘つきでも――まあ、こういうところで私が嘘をついていられるのも、皆さんの中にまさか私を殺す人がいないからであります」
 
●「民主主義の中には偽善というものがいつもひたひたと地下水のように身をひそめている。その偽善のいちばん甚だしいのは日本であります」
 
●「政治の本質は殺すことだ。シーザーの昔からそうじゃないか。民主主義というものは最終的にはああいう形になってしまうのが正直な形で、それがいけないとか、いいという問題じゃないじゃないか」
 
●「大体政治の本当の顔というのは、人間が全身的にぶつかり合い、相手の立場、相手の思想、相手のあらゆるものを抹殺するか、あるいは自身が抹殺されるか、人間の決闘の場であります。それが言論を通じて徐々に徐々に高められてきたのが政治の姿であります。しかしこの言論の底には血がにじんでいる。そして、それを忘れた言論はすぐ偽善と嘘に堕することは、日本の立派な国会を御覧になれば、よくわかる」

居合の鍛錬に励む三島由紀夫。1970年7月3日撮影(時事通信)

●「何か身を賭けた言論、身体を賭けた言論というものが少ない。自分一人で、一千万人を相手にしても退かないという言論の力が感じられない。何でも自分一人じゃ弱いと思うから、何万人でデモをやらなければならない」
 
●「私は言論と日本刀というものは同じもので、何千万人相手にしても、俺一人だというのが言論だと思うのです。一人の人間を多勢で寄ってたかってぶち壊すのは、言論ではなくて、そういうものを暴力という」
 
●「日本刀というと、うちは刃物を置くのはいやだというような人もいるけれども、そんな考えでは、言論さえ通せない。そして日本で言論と称されているものは、あれは暴力。そして、日本で日本刀が暴力だと思わされている時には、たった一人の言論の決意というものを信じられなくなった時代の現われだと、私はそんなふうに考えております」

三島由紀夫(ネットより・画像加工)

●「皆さん暗殺できますか。これは大変な勇気がいると思うのです。あれは警備の大勢いるところで、死刑を覚悟でやるというのは大変だと思う。私は人間の行動というのは、行動のボルテージの高さで評価するから、それが気違いなら別として、一人の個人である場合は、その個人の中のドラマが、どれほどのボルテージ、人間性の強いものに達したか。ロバート・ケネディーを殺すということはロバート・ケネディーとその男とが一対一になることであります。あの大勢の支持者に囲まれた。ロバート・ケネディーと自分とが一対一になるまでボルテージを高めないと殺せない」
 
●「私は、暗殺者が必ずあとで自殺するという日本の伝統はやはり武士の道だと思っているので、本当はこれをやらなきゃいけない」
 
●「私は人間というものは全部平等だと思う。ロバート・ケネディーが特に偉くない。暗殺者が特に馬鹿じゃない。人間が一対一で顔を突き合わす。その時、その一人の小さな小さな社会の人間の政治的意見とロバート・ケネディーの政治的意見が真正面で衝突する。一対一の力で……。そうするとその結果がどうであろうと、つまりそこで一つの政治的意見が一つの政治的意見を殺すのです。私は暗殺をそういうふうに考えるが、あの暗殺者があと黙秘権を行使するばかりで、自殺しないのは気に入らない。やはりそれは男らしくないと思います」

 ●「人間が全身的行為、全身的思想で、人と人とぶつかり合うという決闘の思想というものが私は好きなんです。しかし権力をもって何万人の人間をガス室いに入れるなんて思想は好きじゃない。〔略〕そういう非人間性というものは私は好かない。ただ人間が一対一で決闘する場合には、えらい人も、一市民もない。そこに民主主義の原理があるのだと私は考える」
 
山上容疑者への多くの「賛同の声」の裏側から、「暗殺と民主主義」の関係を看破していた三島精神への憧憬と再評価が透けてみえてきた。
 
このできごとは、日本国民にとって「令和維新」に向かうスイッチなのかもしれない。
 


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