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「ディープな維新史」シリーズⅣ 討幕の招魂社史❽ 歴史ノンフィクション作家 堀雅昭

反〈徳川〉運動としての国家神道


原田伊織氏が『明治維新という過ち』で明治維新の大罪として挙げていたのが「廃仏希釈」である。奈良興福寺や内山永久寺の仏像が暴徒によって破壊されたり、僧侶が神官になったり還俗したりした元凶が、明治新政府の太政官布告「神仏分離令」(明治元年)と「大教宣布」(明治3年)にあったとする。
 
「〈復古〉〈復古〉と喚いて、激しく〈尊王攘夷〉を口先だけで主張し、幕府にその実行を迫ってテロを繰り広げた長州・薩摩人は、このように古来の仏教文化でさえ〈外来〉であるとして排斥したのだ」(『明治維新という過ち』「第一章 〈明治維新〉というウソ」)
 
こうした神道主義を「イスラム原理主義」と同じであると断罪し、新政府を運営した長州や薩摩を悪魔に仕立てあげている。
 
だが、徳川幕藩体制下の仏教が権力と結びつき、いかに腐敗していたかは、今では多くの研究がある。
 
例えば、辻善之助は徳川時代の仏教が「自ら惰眠を貪り、つひに内部から腐敗した」ことを明かし、そうなった理由を、キリシタン禁制を必要とした幕府が、宗門改と檀家制度という仏教への保護政策を行った「弊」と語る(『日本仏教史 第九巻』)。
 
文化13(1816)年の序のある『世事見聞録』には、仏教界が「金銀の力」に支配され、「今諸宗の本寺触頭(ふれがしら)をはじめ、すべての大寺の住職・高位・高僧は決して大善智識にあらず、強欲非道の張本人なり。国家の大悪人なり」と明記されている。
 
万延元(1860)年に来日したプロシアのオイレンブルク使節団報告書『オイレンブルク日本遠征記 上巻』にも、「教養ある日本人は、本当は仏教とその僧侶とを軽蔑している。それは教義上の理由からばかりでなく、これら諸派の一般の礼拝もいろいろ堕落してしまった…」と記されていた。
 
徳川体制の片棒を担ぎ、退廃してゆく仏教のアンチテーゼとして、神道主義が台頭したのは自然であった。
 
実際、寺請(てらうけ)制度で寺院が特権を握り、僧侶が堕落する状況に手を焼いたのが水戸藩2代主・徳川光圀だった。早くも江戸時代がはじまって間もなく、光圀は庶民生活を悪化させた仏教の悪癖を正すため、寺社改革を行っている。
 
大正14(1925)年刊の『維新前後仏教遭難史論』は、「義公」こと光圀が「寺院を整理し、僧侶を淘汰せるは、寛文五年に始る」と語り、寛文5(1665)年と翌年に2度に渡って法令を出し、多数の寺院を破却し、破戒僧に還俗を命じたとしている。
 
実際は原田氏が言うように、廃仏毀釈は明治新政府が行ったものだけではなかったのである。また、そうなった背景には、すでに見たように徳川幕府と仏教勢力の癒着と退廃があった。
 
徳川体制は将軍家を頂点とする身分制度で固められ、儒教と仏教で強固な秩序が保たれていた。いわばこうした閉塞状態に風穴を開けようとした世直し運動が、国学の振興であったのだ。
 
したがって幕末の長州藩でも、萩椿八幡宮第9代宮司で、のちに招魂祭のリーダーとなる青山上総介(明治になって靖国神社初代宮司になった青山清)が、国学振興の牽引者となるのであった。
 
例えば、文久3(1863)年7月付で国学者仲間と早くも藩政府に提出した「神祇道建白書(しんぎどうけんぱくしょ)」が山口県文書館に残されている。
 

青山上総介(青山清)たちが文久3年7月に長州藩に提出した「神祇道建白書」(山口県文書館蔵)

青山上総介たちが文久3年7月に長州藩に提出した「神祇道建白書」(山口県文書館蔵)
冒頭で青山たちは、「私共(わたくしども)の儀(ぎ)、及(およ)ばず乍(なが)ら古道学(こどうがく)を開拓仕(かいたくつかまつ)り度(た)く…」と述べていた。
そしてつぎの文章がつづくのだ。
 
「神祇官(じんぎかん)、太政官(だじょうかん)の古制(こせい)に御傚(おんなら)ひ、是迄(これまで)の寺社所(じしゃしょ)を廃止(はいし)し、改(あらため)て神祇所(じんぎしょ)を御興立(おんおこしたて)、神佛混淆仕(しんぶつこんこうつかまつ)らざる様願(ようねが)い奉(たてまつ)り候(そうろう)」
 
平安時代の神仏習合以来、仏教の下に神道が置かれてきた情況の転換を求めたのだ。僧侶の下に神官が置かれていた差別的な待遇にも不満が蓄積していた。このため儒仏思想の執行機関たる寺社所を廃止し、古制にならった神祇所(じんぎしょ)を立ち上げるという要求だったのだ。
 
これが長州藩で輪郭を見せた国家神道の直接的なルーツであろう。
 
こうした神道国学を軸とした社会改造運動は、それ自体が当時においては「復古」の形をとりつつも、実態は反体制活動の色彩を帯びていた。
 
そんな反徳川意識を内包した国家神道の意識が、戊辰戦争中の慶応4(明治元〔1868〕)年3月28日に明治新政府が出した神仏判然令(神仏分離令)の源流だったわけである。
 
あるいは明治4(1871)年5月14日の「太政官布告第二百三四」公布で、「神社の世襲神職を廃し」という言葉で表明される祭政一致への足掛かりでもあった。
 
実は、世直し運動としての国家神道を実現するために、青山たちが「神祇道建白書」を提出した文久3年は、後に討幕の拠点となる山口城の造営が始まる年でもあった。

山口県庁の場所に残る山口城跡「藩庁門」(平成26年3月)


萩城とは別の秘密の城としての山口城に、やはり萩とは別の藩校・山口明倫館が文久3年11月にリニューアルオープンする。山口は討幕の震源地となるのである。
 
そのための学問所である山口明倫館の創設に先駆け、前身の山口講習堂に復古局が設けられ、青山をはじめ中村百合蔵、安部卯吉、斉藤弥九郎、佐甲但馬といった長州藩の国学者たちが古の政治や戦略上の研究をはじめていた。
 
実は同年7月に藩政府に提出した前掲の「神祇道建白書」は、この復古局での青山たちが手掛けた最初の仕事でもあった。
 
権力が腐敗するのはいつの時代も同じだが、幕末の長州藩でもそれが表面化していたのだ。
 
山口明倫館の文学寮編輯局での国学興隆の背景には、260年前に徳川家に敗れた毛利家の名誉回復の意識も隠されていた。そのことは、討幕の拠点となる山口城の造営に際して、毛利家の祖先を祀る祖霊社(仰徳神社)や、寺院の御尊霊も山口に遷して神道的な御祭神にするよう「神祇道建白書」は要求していた。
 
徳川幕府と結合した仏教支配の打破という宗教革命のために、青山たち5名のメンバーは京都にのぼり「白川殿、吉田殿、藤波殿」ら著名な神道家をはじめ、水戸や会津の藩士、伊勢神宮にも、神道興隆思想を焚きつけるのだ。
 
このため、100日間の「御暇(おいとま)」を藩政府に求め、京都に向かったのである。
 
山口県立図書館には山口明倫館の造蔵書印のある平田篤胤著『入学問答』が保管されている。

山口明倫館の造蔵書印のある平田篤胤著『入学問答』(山口県立図書館蔵)



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