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「ディープな維新史」シリーズⅤ 攘夷と開国❷ 歴史ノンフィクション作家 堀雅昭

幕末グローバリズムと野山獄


吉田松陰が繋がれた萩の野山獄に寄ってみた。
道を挟んだ向かいには道づれにした金子重之助が入られた岩倉獄跡だ。

金子重之助が入られた岩倉獄跡(平成28年12月)

昔はいつ行っても修学旅行客がたむろしていたが、いまは人通りもまばらな路地の一角にすぎない。
 
松陰が「道づれにした」事件とは、嘉永7(安政元〔1854〕)年3月の下田踏海事件のことだ。2度目にペリーが来航したタイミングで、松陰は金子を連れて下田沖のペリーの軍艦に乗り込んで海外密航を企てたのである。
 
2人は米艦ポーハタン号に潜入するところまでは成功した。
 
だが、渡米の申し込みは却下され、あえなく本国送還となる。
その結果、松陰は江戸伝馬町の獄舎経由で萩の野山獄へ、金子は岩倉獄へつながれたのだ。
 
獄の違いは松陰が士族の犯罪者であり、金子が平民の犯罪者であったからだ。
 
それにしても萩を訪ねる度に思うのは、どうして攘夷派の松陰がアメリカへの渡航を志したのかという根本的な疑問である。松陰は野山獄で密航の理由を『幽囚録』に記していた。

野山獄で松陰が密航の理由を記した『幽囚録』(山口県立図書館蔵)

そもそも幕末の尊皇攘夷論の発端は、寛政3(1791)年に藤田幽谷が『正名論(せいめいろん)』で儒教的に天皇を称賛したことにあった。
そして文政8(1825)年2月に幕府が「異国船打払令」を出したタイミングで、幽谷の高弟・会沢正志斎が『新論』を書き、尊皇攘夷論は盛り上がる。 

会沢正志斎の『新論』(桜圃寺内文庫蔵)

西欧資本主義をひっさげてアジアの植民地競争に明け暮れる列強が、日本近海にも出没をはじめたことでファナティックな水戸学が民衆に受け入れられたのだ。 

幕末に押し寄せた西欧由来のグローバリズムを、経済学者の杉山伸也はイギリスの産業革命とナポレオン戦争の終結で構築された「パクス・ブリタニカ」にあったと『グローバル経済史入門』で看破している。

 実際に『新論』の刊行から30年を経た嘉永6(1853)年6月にペリーが4隻の軍艦を率いて浦賀に現われ、翌7月にはロシア使節プチャーチンが長崎に来たのである。

ペリー(1855-56頃 ウイキペディア)

水戸藩では老公・徳川斉昭(とくがわなりあき)が『海防愚存』を幕府に提出して鎖国をつづける理由(十条五事)を示したが、斉昭も本気で攘夷を貫く気はなく、「偽りの攘夷」だったと小野寺龍太は『幕末の魁(さきがけ)、維新の殿(しんがり)―徳川斉昭の攘夷』で読みといている。

 結局、水戸学は吉田松陰などに伝播し、長州藩が明治維新の主導権を握ることになる。むろん松陰は徳川体制では攘夷は不可能と考えていたのである。

 松陰は安政5(1858)年9月24日に、身分を越えた西洋式軍隊の必要性を「西洋歩兵論」で訴えた。これが門下の高杉晋作が下関で奇兵隊を立ち上げる伏線となったと考えられる。

吉田松陰の『西洋歩兵論』(山口県文書館蔵)

攘夷を掲げた奇兵隊の実態は、討幕ゲリラ部隊でもあった。

松陰は「西洋歩兵論」から2か月余り後に家族に宛てて、幕府老中の間部詮勝(まなべあきかつ)の暗殺をほのめかす手紙を書き、そのことで萩の野山獄に再入獄した。

今でいえば政府の閣僚クラスの要人の暗殺を口にしたのだから、当然であった。

なるほど原田伊織氏が松陰を「テロリスト」と呼ぶ理由のひとつであろう。 

だが、松陰は、それでもナポレオンが「フレヘード(自由)」を唱えたように行動しないと気分はいやせない(『吉田松陰全集 第八巻』〔大和書房〕)と、70年前(1789年7月)のフランス革命を彷彿させる過激な発言をつづけたのだ。

 松陰の中では水戸学的攘夷はこの時期、すでに破たんしていたのではあるまいか。

むしろ毛利家の臣として、260年近く前の徳川家に敗れた毛利家の名誉回復に向けて、命を捧げる覚悟を決めていたようにも見える。



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