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2016年熊本地震「奇跡の避難所」①~なぜ僕は熊本へ行ったのか

2016年4月25日夜。僕は、鹿児島県伊佐市内にある行きつけの飲み屋で、常連さんたちと酒を飲んでいた。1人は、建設業の社長。東日本大震災の直後、国交省の要請に基づき、息子2人を被災地に送り出した経験を持つ。そして、今回の熊本地震でも、息子2人は被災地へ向かっていた。これまでも、酒を交わしながら、幾度となく、息子たちから聞いた「被災地のリアルな日常」を、僕に包み隠さず、話してくれた人物だ。

1時間ほど飲んだ頃、伊佐で暮らす仲間から、1通のメールが届く。

「トシとタダアキが明日、熊本へ炊き出し支援に行く」

トシは、伊佐で左官業を営む30代の男。高校卒業後、神戸のタイル屋へ就職した。その年、神戸は阪神大震災に見舞われていた。まだ爪痕が深く刻まれ、復興へ立ち向かう神戸のまちで、トシは修業を積んだ。厳しい親方の元、被災地で起きた様々な出来事を見聞きした。耳を塞ぎたくなるような悲しい現実、決して報道されることのない真実…。だからこそ、熊本地震の直後から、自分ができる支援の在り方をずっと考えていた。

トシは数年前、伊佐へ戻った。今は、父が営む左官業を手伝う。仕事の合間を縫っては、壁や床に土や漆喰を塗る相棒のコテを持ち、全国各地を飛び回る。その中で熊本の左官仲間、フルカワサンと出会った。熊本地震の直後から、フルカワサンは、被災地の避難所でボランティアに汗を流した。トシには、逐一、リアルな被災地のいまが伝わった。

「支援物資は足りてきた。今は伊佐で待機していてほしい。必要な時が来たら必ず連絡させてもらいます」。トシは、その日に向けて、米や水、伊佐農林高校で生徒が作る伝統の黒豚みそ「更生之素」を手元に揃えていた。

4月25日昼。トシの元へ、フルカワサンから連絡が入る。「炊き出しに来てもらえないか」。フルカワサンは、避難所で子どもたちの表情に目を配っていた。連日続くおにぎり、カレーライス、豚汁。固定化されたメニューの繰り返し。愚痴を言うことはできない。1個のおにぎりを家族で分け合った被災直後を思えば、贅沢は言えない心情もある。でも、被災者に寄り添ううちに、「子どもたちが笑顔になれる食事を食べさせてあげたい」と思った。

その気持ちを汲んだトシは、料理人のタダアキを訪ねた。

タダアキは、伊佐で食堂を営む。まもなく40歳を迎える男。日頃から、まちづくりに精を出す。トシとは旧知の仲だ。フルカワサンからの炊き出し要請は2日後の27日だった。が、1日もでも早く行きたいと感じたトシは、翌26日の決行をタダアキに伝えた。そして、希望するメニューもオーダーした。

「更生之素を使った温かいスープはできないだろうか?」

タダアキは、だし汁に、ザルで更生之素を溶かし、残った黒豚のゴロゴロした肉を、そぼろ代わりにトッピングする麺料理を思いつく。麺には、試行錯誤の末、パスタを選択した。茹で上がりの時間を考慮し、細めのカッペリーニを持ち込み、現地で湯がく。翌日の出発に向けて、夜を徹して、段ボールいっぱいの唐揚げを揚げた。とんかつも揚げた。店の外まで、揚げ物のにおいが充満した。

炊き出しのメニューは決まった。「味噌スープパスタ肉そぼろのせ。とんかつか唐揚げを、ご希望でトッピング」。伊佐名物である福島食堂の「とんかつチャンポン」のテイストも加えた。料理人であるタダアキは、彩りも欠かしたくなかった。刻みネギも大量に仕込んだ。1時間以上、ただ、ひたすら刻んだ。

準備は整った。夜が明けた。決行の朝を迎えた。

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