万引き

まなざしの行方~万引き家族感想

「盗んだのは、絆でした」というキャッチコピーのとおり、単に物を盗むだけではなく、人のつながりを盗みながら作り上げた家族の姿は、いびつで儚く、でもどこの家族よりも温かさに溢れている瞬間が切り取られていたと思います。

誰もが目を見張るであろう子役の二人、祥太とゆりの存在は、親の存在、子供が成長するということ、そして“生きていくうえで必要な存在“を静かに目で語っていた。

ちなみに、鑑賞後の息子の最初の感想は、「ゆりちゃんの本当の親、サイテー、ムカつく!」でした。

暴力やネグレクトといった虐待は、目に見えやすく「親が悪い!」ということがわかりやすい。この作品の家族は、子どもの存在を大切にしていて愛情深かったけれど、祥太は成長と共に“人のものを盗むこと”に対して疑問を感じ始める。

物心がつく前は何の疑問も持たずにやっていたかもしれない万引き。でも、やりたくてやっていたわけではない。あれは、あの家族の中で暮らしていくための半強制的な行為であり、“万引きをさせる”という行為は明らかに虐待なのだ。

だからこそ、祥太がとった行動は見事だったとしか言いようがない。自分の中に芽生えた疑問に終止符を打つためと、負の連鎖を断ち切るための行動。祥太は思春期に差し掛かり、身体の変化と同じように、心もしっかり成長していったのです。

その成長を支えていたのは誰なのか?“子供に万引きさせる”という虐待をしていた、治や信代たち家族に他なりません。

この複雑に入り乱れる感情と行動が、“家族って何?”という答えのない疑問を、観ているこちらに突き付けてきます。

子供の成長は、いつか親を追い越します。河川敷で「ワークを、シェアするんだよ」という会話をしながら、治、ゆり、祥太が歩いているシーンは、治が親として教えられることが限界に達しつつあり、近い未来に祥太が治を追い越していく予感をヒリヒリと感じる場面でした。

でも、愛情を持って接してきたからこそ、追い越すだけの力を持った子供に成長した、とも言えます。祥太と治の関係は、ある意味、理想の親子の形なのかもしれません。

最後のシーンの登場人物のまなざしの行き場が、世界の残酷さを表しているようで忘れられません。あの“まなざし”が、世界中に存在していて、見えないけど、確実に身近にもあると思うと、自分が出来ることを探さずにはいられない。

見終えて何週間も経つのに、劇中の台詞がふっとよみがえり、“あの人は、あの言葉を、どんなつもりで口にしたのだろう?”と自問自答する日々です。

鑑賞後に、こんなにも内容を反芻して考え続けてしまうということは、監督から大きな課題を受け取る映画ということなのでしょう。さあ、自分に出来ることをどうやってやっていく?

#万引き家族 #映画 #映画感想


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