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親ガチャと子ガチャ、情熱と冷静

 一応、先生と呼ばれる立場だった。今でも自分が担当していた生徒は全員大切に思っている。勉強を始めとする様々な相談にも乗っていたし、自分が持てる力は全て使って向き合っている自負があった。

 ただ、高校一年生にして既に留年の危機に瀕しているにも関わらず、部活三昧、宿題はやってこないか「やった」と嘘をつく、自習は性格上できないという癖のある生徒を見たとき、どうしても脳みその半分が

「もし自分が子供を産んで、こんな子が出てきたらどうしよう」

という不安でいっぱいになることがあった。脳みそのもう半分では以前と変わらず大切に思っているのに、である。

 私は私だから、自分の人生を、よく知っている。私は私だから、走ろうと思った瞬間に走ることもできる。テストの点が低く、退学の危機に瀕したら、全力で回避しようとする。ただ、子供は私ではない。私なら当然する努力も、感じる恐怖も、避ける危険も、子供がそうするかどうかはわからない。極端な話、私は「私さえしなければ」犯罪をすることは決してないが、子供はそうではない。

 今までは子供が欲しいと思うこともあったけど、今ではどうしようもないボンクラが出てきたら……と不安で、少し怖くなってきた。家庭が必死で授業を追加しているのに本人には全く危機感がないという状況で私が感情移入してしまうのは、どうしても家庭なのだ。私はもう、過去に戻ることはないのだから。家庭の、親の姿は未来の私、子供の姿は未来の我が子である可能性の方が、よっぽど現実味がある。

 だから、心のどこかでは「こんな子供は持ちたくない」と思う一方で、「できることは何でもしてあげたい」と大切に思って指導している自分がいた。ハチワレの言葉を借りると、心が二つある、である。大切な生徒にできることをしてあげたいという情熱的な心と、親に感情移入して注意深く観察している冷静な心。
 
 昔は、親ガチャだと思っていた。ただ、この二つの心を自覚してからは居ても立ってもいられず、両親に「色々ごめんね、いつもありがとう」と伝えた。両親はキョトンとした顔で「どういたしまして?」と不思議そうにしていた。
 私は成人した。もう、子ガチャの方が身近に感じられるんだ。
 子供は可能性の塊というが、その通りだ。どちらに振れるかわからない。

 と、まあ色々書いてきてみて、何だか、私が不安になりすぎているのだろうなという結論に至った。意外と、産まれてしまえば可愛い我が子、どんなことであっても、どうってことなくなるのかもしれない。ただ、先に産まれた人間の定めで、その子がいなかった世界を知っているから、愛情深く思う脳のどこかで「こんなことなら」と思ってしまうときが来るのかもしれないと思うと、やっぱり怖い。

 世界は広くて狭いはず。同じ不安に悩まされている人がまさか私1人ではあるまい。ちょっとシリアスに考えすぎな気もするが、ただ、今まではなんとなくで「子供欲しいな〜」とかぽけ〜んと考えてたことを、真剣に考え始めた証拠なのかもしれない。そうであれば、前向きな悩みだ、と思う。
 
 もうどんな子が産まれても、大丈夫。
 心からそう思えるようになるまで、二つの心を持ちながら悩む日々が続きそう。


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