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【行政法総論】生き様を 書いてください ありのまま

 元来、コンプライアンスとは、難しい正義を迫られる宿命にある。或る日の朝、いつも通り会社へ行くと、突如として全事業場の全部署の全社員に対し、新しい名刺が配付された。それと同時に、昨日まで普通に取引先と交換していた名刺が、全事業場の全部署の全社員から1枚も残らずに回収された。何が起きたというのか?外資にでも買収されて、○○カンパニーリミテッドとかいう社名に変わったとでもいうのだろうか?新しい名刺の入った小箱を恐る恐る開けるが、社名もロゴも住所も電話番号もメールアドレスも従前と全く変わっていない。むろん私のフルネームも同じだ。
 何となく職場が騒ついている中、チャイムが鳴り、朝礼が始まると、日頃は「おはよう」の一言も発しない根暗な部長が珍しく「ちょっといいかな」と自分の近くに集まるよう命じる。その眼には「重大なことだから部長である私の口から喋らなくては――」といった不必要な焦りと責任感が漂っている。「え~、皆さんが使っていた名刺は、製紙会社の偽装により使用不可となりました。現時点で所持しているものは全て廃棄処分とするので、全員すべからく回収に協力してください。あっ、もう回収してくれてるのね。」珍しい部長の肉声を拝聴したところで、私にはまだ事情が理解できない。唯一理解できた事といえば、ひたすら上から怒られないようにだけ細心の注意を払いながら任務に臨んできたこの部長の曇った表情が今日はますます曇っているという事だけだった。
 腑に落ちない様子の私に、春恵さんが「これのことよ」と回収前のご自身の名刺をそっと見せてくれた。彼女のセクシーな指が示すその先には「この名刺は古紙100%の再生紙を使用しています。」と小さな文字が刻まれていたのだった。こんなメッセージのあったこと自体、新旧を見比べてみて初めて気付いたくらいである。「ええっ?!真実は、古紙何%の再生紙だったんだろうか?」「ええっ?!あなたの疑問ってそこ?」「だって、1%でも古紙を使っていたら、単純に『この名刺は再生紙を使用しています』って書けたかもしれないし、この悲しくなるほど無駄で虚しい回収を避けられたかもしれないじゃないか。」「あなた、コンプライアンスもエコも完全に無視した性格やのに、仕事の進め方だけは合法的で合理的な手段をどうにかして見つけようとするタイプね。」「面倒臭いのが嫌いなだけだよ。」「じゃあ、良いこと教えてあげよっか。本当に悲しくなるほど無駄で虚しい作業はこれからよ。」彼女の謎めいた不気味な笑みの先には、シュレッダーとゴミ袋が置かれている。部長の話よりも数百倍速いスピードで私は事情を理解した。名刺という印刷物は甚だ厄介で、紙が小さすぎて軽すぎるが故に、シュレッダーのセンサーが検知しない。まとまった枚数を束ねても同じことで、A4版のコピー用紙か何かを「歯の自動回転を機能させるための触媒」として名刺と一緒に送り込んでやらないと、機械が紙を食おうとしないのである。部で最も若手だった私が、部で回収した全員分の名刺を廃棄する。シュレッダーと私が悲鳴を上げているすぐ脇で、部長が私の作業をずっとイライラしながら監視している。取締役に処分完了の報告をするためである。一方、私はというと「ところで、名刺を捨てるだけの目的で一緒に捨てているこのコピー用紙のほうは再生紙なのだろうか?実は再生紙を作る工程のほうが、新しくパルプを作る工程よりも二酸化炭素の排出量が多いらしいから、むしろ再生紙って環境に悪いんじゃないの?資源もそうだけど、何よりこの時間と労力が無駄だわ。ああ、エコとか、コンプライアンスとか、そういう難しい正義を偉そうに標榜しない世界で働きたいなあ。」といった退職願望を抱いては、その願望も紙ゴミと一緒に一生懸命シュレッダーにかけていたのだった。もう何年も前になるが、苦く苦しい思い出の一頁である。
 
 「あ~、もう『コンプライアンス』って聞いただけで耳が拒絶反応を起こすよ」と言う彼は、大学の同級生で、農水省に勤めている。「霞が関1丁目の古っる~い建物で、いま免震の生コンを打ってる最中なのよ。8階が水産庁で、7階が林野庁。俺は6階の旧食糧庁だったんだけど、BSEがきっかけで廃止んなって、総合食料局って名前に変わっちゃった。え~と、菓子が19だろ、それと缶詰が16、合わせて35団体の管轄をしてんのが俺の班。こんな感じで7つの班に分かれて、食品法令の徹底遵守って使命を背負ってる。
 けど、お前も食品メーカーだったら解るだろ?今のコンプライアンスって、ちょっとおかしいよな。餅を喉に詰まらせても『不注意』で片付けちゃうくせにさ、蒟蒻ゼリーを喉に詰まらせた途端、メーカーに集中砲火を浴びせて、年寄りと子供への注意表示をさせた挙句、とうとう柔らかいスペックへの品質変更にまで至っちゃった。その間に餅でも結構な死者が出てるんだぜ。餅はOKで、蒟蒻はNG。これが国民生活センターの要請するコンプライアンスってやつなんだ。毎日ホントに色んな案件を扱ってるんだけど、『こんな事まで調べ上げて、いったい誰の役に立つんだろ?』って思いながら仕事してる。官僚は腐敗してるって簡単に評論する奴がいるけど、見たことあんのかって言いたいよ。圧倒的多数の役人は可哀想なくらい生真面目だぜ。政治家みたいに腐敗する暇なんか無いからな。」・・・私は民間企業に勤める人生を選択して、つくづく正解だったと実感した。私には蒟蒻から消費者を救済するほどの正義感といったものが無い。せいぜい「気を付けて食べましょう」と言うまでのことだ。
 
 久々の東京出張から戻ってきたら、郵便受けに国勢調査の調査票が届いていた。この総務省統計局って所で働いている方々も「こんな事まで調べ上げて、いったい誰の役に立つんだろ?」って思いながら仕事をしているのだろうか?確かに「国の最も重要な統計調査です」「統計法という法律に基づいて実施します」「調査票の記入内容は統計法に基づき厳重に保護されます」と説明書の表紙に目立つ赤文字で書かれているものの、その目的については触れていない。そう思ったら、裏表紙に明示されていた。「少子高齢化が進行している我が国の人口構造の分析や将来人口の推計に利用されます」「通勤・通学による人口の動きや、市区町村の昼間人口などを明らかにする統計が作成され、交通網の整備などの交通対策、都市計画などに利用されます」「高齢者のいる世帯、母子世帯、父子世帯などの世帯構成に関する統計が作成され、福祉行政などの施策に利用されます」といったところである。なるほど、誰かの役には立つのだろうが、私の役には立ちそうにない。いくら少子化が推計されたところで、私の配偶者が見つかるわけでも、子沢山の家庭を築けるわけでもない。これから国勢調査が何回実施されようと、私は独身のまま、公共交通機関も道路も一切利用しない徒歩通勤を定年まで続けるし、すでに父も母も高齢者生活を満喫しないまま他界した。とは申せ、雇用、社会教育、就労支援に欠くことのできないデータとして活用されるとのことだし、法律により回答の義務があるというから、1つひとつ「記入のしかた」を読みながら回答することとした。
 回答しているうちに泣けてきた。「世帯員の数」は総数1人、男1人。女の欄にもいちいち「0」を記さなければならない。「世帯主との続き柄」は世帯主本人で、「配偶者の有無」の項目では「未婚(幼児などを含む)」の欄を丁寧に鉛筆で黒塗りする。今後も「国籍」は日本で、「現在の場所に住んでいる期間」も20年以上になり、「同じ区・市町村」の「従業地」へ「徒歩のみ」で通う「正規の職員・従業員」として生きていく。これ程までに安定した幸福は無いけれど、人生において「不満なき状況」がイコール「満足な状況」とは限らないことを痛感する。
 
 「ありのままを記入してください」と言われるまま、死ぬまで変化のない私の人生が推計されてしまうであろう調査票を記入し終える。翌日これを新大阪郵便局の私書箱へ届く提出用の封筒に収め、近所のポストへ投函する。ついでにコンビニで焼酎を割るためのウーロン茶を2Lペットで4本購い、重たい袋をぶら下げて戻ってきたら、郵便受けに女の筆跡の手紙が届いていた。それは紛れも無く、秋恵の字だった。ちょっと生意気な高校時代の後輩で、10年ぶりの再会が引き金となって、東京出張の度に必ず会うようになり、友情が恋心へと移りそうになった矢先、彼女のほうから口火を切り、「観光するには最高の街だけど、京都には絶対に住みたくないから、あなたとは結婚できない」と、まだ私が何も彼女への気持ちを伝えてはいないというのに、一方的にフラれる結末となった、あの秋恵である。
 秋恵はその後、地元の人と一緒になった。結婚が決まった時には、わざわざその男を京都まで連れてきた。自分で言うのも気恥ずかしいが、可哀想なくらい抜群の社交性を持つ私は、その男とも昵懇となってしまった。物足りないほど寡黙な男だったが、言動に遠慮のない秋恵にはお似合いだった。
 「こんにちは。お元気ですか?すっかりご無沙汰してしまっていますね。突然、手紙なんて、驚いたかもしれませんね。たまには手紙を書いてみたいと思って書くことにしました。少し話は変わりますが、私の実家、いろいろありまして、売ることになったの。それで、私も結婚してからずっと戻ってなかったから、自分の荷物など整理や処分をしに、最近実家のほうに行っています。片付けをしていたら、ずっと昔の手紙がたくさん出て来て、その中にあなたからもらったお手紙もあったよ。ちょうど私が大学に入学する頃にもらった手紙で、学生生活のアドバイスとか、いろんなことが書いてあったよ。なんだか懐かしい気持ちになってしまって、こうして手紙を書いている次第です。その他にも卒業アルバムやら何やらで、一向に整理がはかどらず…最近は郷愁?にかられながら、私も歳をとったなぁ、と思う今日この頃です。
 さて、そちらの生活はいかがですか?相変わらず忙しい毎日なのでしょうか。私はというと、今、転職活動をしています。実は突然の手紙よりもっと驚くかもしれないのですが、昨年、彼と離婚しました。毎年年賀状をもらっているのに、今年の返事が出せなかったのもこのためです。その後、なかなか言い出すきっかけがなく、こんなに報告が遅くなってしまいました。現在は引越しもして、一人頑張っています。前から実家の自営業の事務を手伝っているんだけど、この不況で、2年前から週3日の勤務になってしまったんだ…。お給料も当然少なくなってしまって、この先、将来のこと、そして私自身の年齢のことを考えると、ここらあたりで真剣に転職するべきなのかなって思いました。といっても、大学在学中、ろくに就職活動もしなかった私なので、正直何をどうしたらよいのか。今さらながら過去の自分を叱りたいです…。とりあえずネットで情報を集め、めぼしい企業が2社あったので、エントリーしました。今週はハローワークに行ってみるつもり。
 なんか、生まれて初めて真面目に仕事しようとしているよ。そこで、あなたに聞きたいのだけど、何を決め手に入社する会社を決めたのかな?ずいぶん昔のことだから、聞くのもアレかなとも思ったんだけど、なかなか周りに話を聞ける人がいなくて。その他、何かアドバイスなどいただけたら嬉しいです!
 私のことばかり、ズラズラと書いてしまったけど、あなたの近況も教えてくれるとうれしいです。そして、東京に帰ってくることがあったら是非連絡してね。会いましょう。離婚はしたけれど、彼も会いたがっています。
 今年も寒い冬になりそうですが、体に気をつけて、お過ごし下さいね。メールでも、連絡もらえたらうれしいです。ではまたね。」・・・国勢調査が始まったばかりの秋に、寒い冬になりそうだとは、気の早い話だ。その気の早さがあれば、就職、否、転職先が決まるのも早いだろう。しかも、秋恵の手紙に「ずっと昔」と綴られた彼女の大学入学は11年前、「ずいぶん昔」と綴られた私の就職はたかだか8年前のこと――どちらもさほど大昔の話ではない。これぞ二人が過ごしてきた時間の違いだろう。私と違って変化に富んだ彼女の人生――きっと気の早すぎる性格が彼女の人生をそうさせたのであろう。
 
 私はキンキンに冷やしたウーロンハイを飲みつつ、早速そのグラスの結露に指先を濡らしたままボールペンを握り、秋恵への返事をしたためることとした。どんなに親しい人への手紙にも必ず原稿を下書きしてから清書に入る私だったが、当時はその時間すら許されない程の多忙ぶりだったのである。なんせ大量の名刺をシュレッダーにかけるのも若手の私一人という環境だったのだ。それに加えて、あれから何年経っても、不況でますます新入社員の採用人数は絞られ、職場に後輩が入るなんていうこと自体、まるで夢物語だった。
 「前略 お手紙拝読しました。急なお手紙に驚きました。取り急ぎお返事せねばと思い、筆をとりました故、多少の書き間違いはお許し下さい。まず、これから書くことは就職活動のアドバイスというよりは、率直な私見に過ぎませんので、その点はご勘弁を。
 様々な背景があるかと存じますが、もし時間や期間を限定して働くつもりであれば、収入を得るためと割り切って、すぐにでも勤めてみるべきだと思います。仕事をしているうちに勉強になったり楽しくなったりすることもあろうと思いますし、まあ言葉を選ばずに云ってしまえば、そんなに仕事を選べるような時代でもなかろうと思いますし。
 しかし、ある程度、腰を据えて働こうという会社を選ぶのであれば、話は少々変わってくると私は考えています。これが、私自身が『何を決め手に入社する会社を決めたのか?』という質問への答えにも近づくのですが、多少なりとも興味の続く業界にしたほうが無難ですよ。何だ、当たり前じゃないかって反応を承知の上で、蛇足を申し上げます。生活に困窮していれば、それを克服するのが最優先。でも、そうでなければ、人はそうそうお金だけのために働き続けられるものではありませんし、かといって『ダメなら別の会社に転職すればいいや』と言うほど、社会は広い間口を用意しているわけではありません。興味の続かない業界だと、同じように通勤し、同じような仕事をし、同じように生活するという毎日にやがて退屈します。学校は学年が必ず上がりますし、たとえ退屈しても何年か経てば卒業です。ところが会社は定年まで働くとなると40年近くにもなるので、退屈しないことが大切。
 で、私の場合ですが、もともと文明発展とか経済成長とかいう右肩上がりの世界観に対して、ちょっとした懐疑心を抱いているばかりか、世の中に便利な商品を生み出そうとする行動自体にあまり深い関心がありません。そんなわけで、ほぼ人類の歴史と同じくらい永きにわたって変化のない食品の業界を選びました。食品も毎年のように様々な新商品が発売されますけど、人間が口に入れるモノなんて、小学校の家庭科で習った通り、たんぱく質・脂質・炭水化物・ビタミン・無機質の五大栄養素に決まりきっているのですから、携帯電話のように革命的な変化が起こるようなことはありません。変化が無いと私は安心するのです。変化の無い所に私の興味は続くのです。
 でも、それ以前に生活が第一。お金に困っていれば、仕事も興味どころではない。そういう順序ですね。長々と書き連ねましたが、私の育った家庭は決して裕福とは言えない事情もありましたから、結局これが今も辞めずに勤続していられる前提であり、大きな理由です。まず、収入を得よう!次に、退屈せずに収入を得よう!――真に陳腐極まりない結論ですね。
 食品業界の給料は製造業の中でも低位置ですが、これからも地道にコツコツ働いて、少しでも将来を明るくしたいと考えています。そして、説明がややこしいのですが、『変化が無い業界』に居ることによって、『同じように通勤し、同じような仕事をし、同じように生活するという毎日』にも何とか退屈せずに済んでいます。これが私の近況です。
 ようやく秋の気配を感じ始めたばかりというのに、今年も寒い冬になりそうだなんて私には想像もつきませんが、どんな季節を迎えようと切にご自愛下さい。お元気で。草々」・・・書き終えてから気付いた。偉そうにも私は、過去に一度は恋心まで抱いた女性への手紙に「変化がないと私は安心するのです」と堂々宣言している。そう、数時間前にポストへ投函した国勢調査の調査票――あの「死ぬまで変化のない私の人生が推計されてしまうであろう調査票」――に記入した内容とは、私が積極的に選択した人生、私の好んだ人生そのものなのだ。ブツブツ文句を垂らしながら、十分過ぎるほど勝手で自由じゃないか、お前の人生っていうやつは――。折角の便箋をウーロンハイで汚してしまわぬよう、私は適当に多めの金額の切手を貼り付け、千鳥足で再び自宅とポストを往復し、もう1杯だけ煽ってから眠りについた。
 
 今の秋恵は、国勢調査に「世帯員の数」は総数1人、男0人、女1人と記し、「配偶者の有無」の項目では「離別」の欄を丁寧に鉛筆で黒塗りするのだろう。総務省統計局から「ありのままを記入してください」と言われるままに――。しかし、相変わらず彼女は変化に富んだ人生を楽しんでいるようだった。蓋し、男性は名刺が変わっただけで狼狽するような、酷く情けなく、ひ弱な生き物だが、それに比べて女性というのは実に強く逞しい・・・つづく

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