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【現代文】酒と歌 恋愛弱者の 暇つぶし

 「なあなあ、NHKのアナウンサーって、ずっと正面向いてるやんか。アレ、原稿、全部アタマに入ってはるんやろか。地震とか起きてもいっつも落ち着いてるし、メンタル強いなあ。」――そりゃ、プロンプターもあるのだろうけど、確かに殆ど手元の原稿に視線を落とさない。私も常々感じるが、冷静な試合運びや仕事捌きという評価軸で云えば、NHKと民放の差はメジャーとマイナー、横綱と大関以下の差に匹敵する。
 「そろそろ卒論の準備せなあかんねん。」「テーマは決まってるの?あっ、ド文系にも分かりやすく噛み砕いて説明をお願いしますよ。」――物理工学を専攻する大学生でもあり風俗嬢でもあるサクラと、彼女とホテルで出会ったが今は“ただのお友達”として関係を続けているヘンテコかつ益体も無いサラリーマンの私は、いつもの居酒屋でダラダラとテレビを視ながら酎ハイを飲んでいた。
 「せやなあ、炭素って、加工するとダイヤモンドにもなるやんか。そうやって、炭素の構造をいろいろ工夫することでな、例えば地震に強い建材とか、軽いけど壊れにくい器具とか、そうゆうもんが作れんねん。」「っていう研究?」「せやで。」「なんか、ちょっと聞くだけで、ちゃんと社会の役に立ってるなあ、って感じがするなァ。」「そんな偉いもんとちゃうで。消去法や。政治経済とか日本史とか古文とか、もう無理や、ついていかれへん思うたし、数学と物理と化学なら何とかなるなァて思うたから、何となく選んだ学部が今の学部ゆう感じやな。」――これは驚いた。文理の差も、年齢の差もあれど、大学へ進むにあたっての学部選びって、いつの時代もあまり変わらないのだと知った。私も“消去法”で法学部を選んだ。彼女とは逆に数学とか物理とか化学とか、もう無理だ、ついていけないと思った結果の選択だった。が、実は文系の中にも「論理的思考を志向する文系」と「そうでない文系」が居て、後者が法学部へ行くと、すぐさま法律を学ぶことの退屈さに挫折する運命を辿る。大学4年のうち1年間は就職活動と遊びに費やすとして、人生の中でたった3年くらいは本当に好きな分野を追究したほうがいい。どうしてかって?そりゃ、好きな道に進んだほうが楽しいじゃん。人はオジサンになると皆、そういう非論理的思考になってくる。当時は「少しでも就職に有利なように」という論理的な根拠を以て道を選んでいたくせに。
 
 “普通の子”だったら、自分に大した能力が無い事を100%認めている状態が常態化して育つ。それ故、社会情勢を学び、その社会の中にきちんと自分なる者を置いてみて、論理的に“まじめ”に「進むべき道」を考えていくことが出来る。私とて我が無能ぶりは自覚していたから、そうやって進路を決するつもりだった。ところが、どうやら私という人間は論理的思考を志向できないらしく、社会的適応という観点から云えば“普通の子”よりも無能だったのである。則ち、この時点で根本的にサラリーマンという職業人生には向いていなかったのだ。
 家は貧乏だったし、成績も特別に優れた訳では無かったけれど、いつも学校では奇抜な存在で居られた。テストの点数というよりは、例えば、学芸会やら、絵日記や自由研究といった宿題やら、読書感想文やら、そういった類で目立っていたのである。モノの見方が風変りだったのか、そもそも日常的な社会生活の意識外にある世界、どちらかというと非論理的な“暇つぶし”の部分でしか存在意義を示せない人だったのかもしれない。この生い立ちが却って私を肝心なところで世間に疎い人間にしてしまったようにも感じる。若い頃から薄っすらと予想していた通り、20代、30代を終え、凡人の生活に困らない程度は稼げるようになってくるに連れて、カネを得る手段に過ぎなかったサラリーマンを続ける動機を徐々に失い、精神的に辛くなってきた。“まじめ”一筋だった人生の光に“暇つぶし”の影が差しはじめる――是、如何にも贅沢な悩みではないか。
 
 「去年、私は十七世紀フランスの思想家・ブレーズ=パスカルについて勉強した。彼は人生において物事を<まじめ>と<暇つぶし>とに二分する考えを示しており、<まじめ>を奨励し、<暇つぶし>を糾弾している。
 これは一見うなずける思想である。確かに我々の日常生活で、たいがいのことはどちらかに大別できる。そして、なるべくなら<まじめ>に生きることを我々は理想としている。だが、この理想は正しいだろうか。もちろん快楽を追求することで人間が本当に幸福になれるかというと、必ずしもそうとは言えない。だからといって、意識的に『コレは<まじめ>、アレは<暇つぶし>』というようにはっきりと分別をつけ、<まじめ>な部分だけを選んで生きることが、果たして本当に意味のあることだろうか。私は自分の生活、もっといえば人生設計というものは、ある程度無意識的であってはじめて価値があり、感動があるものだと思っている。」
 ――現代文の鬼教師による読書感想文の宿題。高校2年生の3作目は、パスカルの『パンセ』だったのだろうか。否、「人生は死ぬまでの暇つぶし」という名言こそ印象に深いものの、彼の遺著が課題図書のリストに名を連ねていた覚えが無い。無論、表紙のタイトル「『○○○○』の感想文」の二重鉤括弧内を見れば作品の答えは判明するが、それではつまらぬ。という訳で、表紙を確かめずにこのまま先のページを捲ろうではないか。
 
 「恋愛をパスカル流に分けるとすれば、<暇つぶし>の方のイメージが強い。だが、恋愛は人生におけるのんきな瞬間であると同時に、真剣なものではないだろうか。恋愛が<暇つぶし>なら、それはそれでかまわないのだが、恋愛によって得られるものは<まじめ>であってほしいという願望を、私は捨て去ることができない。
 本当は、楽しみや気晴らしといった要素の濃い恋愛を<まじめ>の領域に引き込もうとすることが危険な考えなのかもしれない。しかし、真っ昼間から電車の車中などで、こちらが赤面してしまうほどいちゃつき合っている男女を目にすると、我々はどんな気持ちになるだろう。いくら愛の表現は自由だといっても、およその人はやり過ぎではないかと思い、一種の怒りすら覚えるのではないだろうか。我々の目にする大胆な行為が、なぜ我々を不愉快にさせるのかといえば、それは明らかに嫉妬を感じているからであろう。自分を恋愛とは無関係の人間だと決めつけ、彼らに対して劣等感を抱いているのである。特に恋愛に対して敏感に反応する若い世代なら、その劣等感も強いはずである。私も例外ではない。
 とかく人間は、カネや恋人など容易に求められないものに対しては執着心が強い。
 
  青春時代、彼女は世界の中心であり、彼女こそ青春そのものだった。つ
  まり彼女にとって青春は、華麗な舞台の主役であり、中年はその引き立
  て役に過ぎなかったのである。だから中年になった自分を認めること
  は、陽子にとって、自我を捨てることでもあったのだ。
  (筒井康隆『家族八景』青春讃歌)
 
 彼女、河原陽子の青春に対する讃美は、そのまま大学生・修クンとの恋愛につながる。夫がいながら彼女をこうさせたのは、やはり青春そして恋愛に対する執着心だと私は思う。人間の執着心には歯止めが利かないのである。しかも自分と同じような人間が自分にできないことをしているときたら、なおさら不満を持つのが人情である。車内でいちゃつき合っている男女がもし私と同じ高校生だとしたら、私の嫉妬はピークに達しているだろう。貧民に富豪を妬むなといっても難しいように、他人の恋愛を喜ぶことができないのも仕方がない。むろん全てがそうとは限らないが、例えば友人の結婚式に出た時などの感情は、うらやむ気持ちと祝う気持ちとの葛藤ではないだろうか。それでいて、もし自分に相思相愛の異性がいるのなら、こういった嫉妬心も全く湧くことがないのだから、まったく人間というのは勝手である。」
 ――いや~、的を射ている。人間の弱い部分、欲深い部分の核心に触れている。とは申せ、こういう救われないところ、些か根性のねじ曲がっているところは、すでに高校生の時には確立された私の人格だったのか。30年以上も過去の自分自身の物事の捉え方に光りと翳りの両方を読み取る。「いちゃつき合っている男女を目に」して「怒りすら覚え」、「自分を恋愛とは無関係の人間だと決めつけ、彼らに対して劣等感を抱いている」人の主語を「私」とはせず「我々」としているのは、何となく卑怯なようにも受け止められたが、私と同類項の人種が一定数存在するという主張や仲間意識の表れだろう。――それにしても『家族八景』の感想文ならば、すでにこの2ヶ月前に提出済みである。一体どんな本を読んでこの文に至っているのかは気になるところだ。
 なお、「電車の車中」という重言に減点の赤ペンが入れられている辺りに高校生の若々しさが滲んでいる。いや、オトナになった今でも、つい「事前予約」などと口にしてしまったりする我が身を思い出し、成長の無さを痛感する。否、ひょっとすると、成長が無いどころか、高校当時に比べて私は退化しているのではないかという疑いすら禁じ得なくなってくる。では、恐る恐る先のページを捲ろうではないか。
 
 「しかし、ここで、嫉妬心を湧かせることそのものが実は馬鹿げたことであるのに気付く。私がある男女に劣等感を持つということは、その男女を自分より進んだ人間であると見なしているわけである。そこには、早く追い付かなくては、といった焦りの気持ちが含まれてはいないだろうか。皆と同じ時に、皆と同じように恋愛をしたいと思うことは、皆と同じく高校へ行きたい、大学へ行きたい、一流企業に入社したいと思う気持ちと大して差がない。他人の恋愛行為に劣等感を持つような自分も、昼間から車中でいちゃつくことで優越感に浸りかねない人間であるということを忘れてはならない。
 では、皆と同じ行動をとってはならないのかという問題にぶつかる。確かに社会の進む方向に自分の進む方向もある程度は合わせないと、社会はうまく保たれない。だが、自分の進む道は果たして正しいかと常に疑う必要はあると思う。真理を見極めることは難しくても、その努力を怠ってはならない。」
 ――恰も世の中には唯一無二の真理があって、努力して探せば見つかるかのような希望を未だ放棄し切れていない辺りに高校生の若々しさが滲んでいる。ということは、この感想文を書いたのは「人間とは未完成の生物であり、真理を探究してはその肯定と否定を半永久的に繰り返してしまう脳の構造を有してしまっている」と割り切る前の私である。この割り切りが成長と退化のどちらに分類されるのかは評価の割れるところだろうけど。――それにしても、恋愛の話がしつこい。一体どんな本を読んだら、こんなにも粘性の高い感想文に至るのか。こうなったら最後まで読みたくなってくる。
 
 「いずれにせよ、恋愛というプライベートなものを社会のルールに組み込もうとしてしまいがちなところに、人間の弱さと過ちを感じる。我々が恋愛に対して向き合う頭は固すぎる時と柔らかすぎる時があり、ちょうどいい具合を知らないように思われてならない。男は女をつくることが、女は男をつくることが、まるで義務であるかのように勘違いしている者が多い。先にも述べたように、人生は義務でなく無意識的であってはじめて価値があり感動がある。時に頭を固くしすぎて、過剰な忍耐や妥協がともなう関係で結ばれたとしても、それは不自然かつ哀れというよりほかない。時に頭を柔らかくしすぎて、ほんの気まぐれでひっかけたような相手では、少なくとも私はどうしても欲望を満たす対象としてしか相手を受け止めることができない。異性同士の愛情も、同性同士の友情と同じように、互いを人間として敬っていない限り、意味をなさないし長続きしない。どうして、頭が固くなったり柔らかくなったりするのかといえば、その人にとって恋人をつくることが人生の義務になっているからである。どうして義務になるかといえば、男女が適齢期に婚姻届を提出して、次に出生届を提出するという生き方が標準的である、そして可能であれば少子化を食い止める生き方が理想的である、という社会の圧力があるからだ。」
 ――いや~、的を射ている。自らが“恋愛弱者”である事実を十代にしてすでに自覚し、結婚と育児を強烈に推奨する社会に鉄槌を下そうと試みているではないか。頼もしいぞ。30年以上も過去の自分に遡って伝えてやりたい。「いいぞ、その勢いで頑張れ。このあと非婚化・晩婚化がお前の想像以上に進行するから、相手の見つからないお前が決して少数派では無くなる時代が到来するぜ。そのうちにLGBTQなんかも社会的に認知度が高まってきてな、多様性を歓迎するっていう追い風が吹いたりもしてな、とりあえず結婚できない人間イコール駄目な人間みたいな価値観は、お前の生きているうちに瓦解するから心配するな。」と。
 男女が結ばれて子を授かるという人間的な事象に政治的な介入を図るのは野暮で無駄な抵抗だということ、私が生涯独身であること、この2点の予想は見事的中していることが現在証明されている。さて、先のページを捲ろうではないか。
 
 「さて、私がこうして意見している間にも、恋愛は理屈ではなく実践だと言って反発する人間がいるだろう。それはそれでかまわない。実践を知らない私の考えは説得力に欠けており、確かにくだらない場合がある。けれど、私が言いたいのは、実践する際に理屈を持ち出さざるを得ないのが人間ではないかということだ。頭が固かろうと柔らかろうと、恋愛についてカラダだけでなくアタマで真剣に考えてしまうのが人間という生き物ではないかということだ。
 サルは何のためにプロポーズし交尾をするのか、その目的を知らずに、生理的欲求のおもむくままに行動しているという。男と女が愛し合うということについて、ほんのわずかでも追究しなければ、我々の恋愛もサルのそれと変わらない。私の主張はサルを馬鹿にしている性質のものではない。想い、悩み、苦しむといった過程を経て相手と交際するのが人間らしさであり、また私も人間である以上はそうありたいという単純なことである。
 恋愛と和歌は密接な関係にある。皇太子さまと雅子さまが先日『贈書の儀』において、お互いに和歌を交換されたことからもそれは明らかである。和歌にはまさに恋する者の複雑な心境が正直に表現されており、その悩める気持ちが伝わってくる。
 
  明けぬれば暮るるものとは知りながらなほ恨めしき朝ぼらけかな
  藤原道信
 
 例えば有名なこの歌。夜が明けてしまうと、日が暮れたらあなたに逢うことができると分かっていながら、それでも恨めしく思われる明け方であることよ、ただそれだけの意味である。しかし、相手を思う気持ちの計り知れぬ深さを感じる。単に修辞が優れているというだけでなく、たった三十一音を基調とする中に人情の機微が詰め込まれている。ただ、この和歌の場合、毎晩とにかく枕を共にしたいといういやらしさを感じないでもないが。」
 ――これは驚いた。まず、サルの交尾から突如として和歌への話題転換。しかも急に「贈書の儀」を登場させるという図太さが酷い。小学校の卒業前に「大喪の礼」をテレビで視て、昭和天皇の偉大さを初めて知った私は、時代が平成に入ったその春に中学に入る。すると、新しい天皇皇后両陛下、のちの上皇上皇后両陛下の国民に徹底的に寄り添う“なさりよう”に敬服する少年となり、高校生の頃にはもうテレビに皇室の映像が流れるや否や釘付けになるような青年となっていた。ご公務ご多忙にもかかわらず、お疲れのお顔など微塵もお見せにならない。生まれながらにして国の象徴たる運命を在るがまま受け入れられ、その歴史と文化と伝統を継承なさり、北海道から沖縄まで津々浦々の息吹を大切に、世界各地の人々との友誼を重んじられる。厚かましく烏滸がましいのは百も千も承知だが、絶えず人に温かく接する太陽のような両陛下は、私にとって生き様のお手本そのものである。30年以上も過去の自分に遡って伝えてやりたい。「まあな、好きな気持ちは分かるけどな、皇太子さまが雅子さまへ貫いた愛の深さに感激したとか、そういう経緯に触れたほうがいいぜ。ド庶民でド凡人のお前が、何ら丁寧な説明も無しに、恋愛→和歌→ご成婚という展開を原稿用紙に残すなんて畏れ多いじゃねえか。」と。
 さて、ここから和歌の話題、則ちこの感想文の本題に移ることは一目瞭然。というわけで、ようやく思い出した。これは馬場あき子の『和泉式部』の読書感想文であったのだった。“恋愛弱者”の私が“恋愛強者”の詠む歌をどうして解釈しようというのだろう。きっと私のことである。解らない事は「わからない」と記しているに違いない。だって、そうだろ。平安の貴族社会に翻弄される恋愛遍歴多き女、この御方の世界観を、平成の大衆社会に愚弄される恋愛無縁の男子高校生が理解できたとしたら、それは天才か虚偽のいずれかだ。では、恐る恐る先のページを捲ろうではないか。
 
 「ここで本当なら式部の歌を引用したかった。でも正直言って、私は彼女を理解していないに等しい。それでいて感想文を書こうというのだから狡猾である。だが、野球ができなくても評論家にはなれるように、和歌を十分に味わうことのできない私がそれを解説することも、この場においては大目に見てもらいたい。
 それに私には、なんとか歌の解釈をする能力があっても、歌を鑑賞する能力はまだまだ備わっていない。つまり理解できる歌がどうしてもごく少数に限られてしまうので、和歌の中で最も私になじみのある百人一首から興味のあるものを拾い上げたのである。」
 ――やはり、解らない事は「わからない」と記したのか、過去の私という奴は。あまりにも想像通りに考察を諦念し、悲しいかな「彼女を理解していないに等しい」とまで断言している。けれど、このまま終わってしまっては感想文の態を成さないし、堂々と「正しい道」やら「社会のルール」まで大風呂敷を広げて恋愛を語っていたのだから、その伏線の回収くらいはしてほしいものである。17歳の私が一歩くらいは踏ん張っていることに期待しつつ、この先を読み進める。
 
 「式部という人は、社会のルールに左右されることなく、恋愛のプライベートな部分を最も尊重した人であったといえる。彼女の情熱的な生涯には恋愛至上主義の構えすら感じる。きっと彼女には彼女なりの恋愛に対する考え方があったに違いない。男性問題で世間の非難を浴びている式部が弁明の歌を作った場面に、次のような記述がある。
 
  和泉式部の、和泉式部にしか通用しない恋の『ことわり』、それへの理
  解が、その作品への理解の入り口であることはいうまでもない。式部は
  この『ことわり』の通らぬ世間を重々承知の上で、なおその『ことわ
  り』に身を委ねている。そこに式部の『憂さ』は生まれ、『物いみじく
  思ふ』<ながめ>の姿勢も生まれてくるのである。
 
 『ことわり』とは道理、つまり物事がそうあるべき筋道である。いささか楽天的ではあるが、人間誰もが正しい道を進むことを理想としている以上、『ことわり』が単一になると言い切るのは誇張だとしても、その数はそうそう多くはならないと考えるのが普通ではないか。
 しかし、考えがここに至ってしまうと、式部を理解することはできないというのが筆者の主張である。先に私は、何でもかでも社会のしきたりの中に組み込んでしまう風潮を否定したが、ここでも同じことが言える。誰もが信じて疑わずに『ことわり』としていることは、大多数の人間がそれに同意しているがために、それが一般社会の『ことわり』となり、ついには人としての『ことわり』にまで発展してしまっていることに他ならない。ところが、その良し悪しは別として、本来は誰もが独自の『ことわり』を持っているのである。人間を超越した神のような存在が『かくあるべし』と決断しない限り、百人いれば百の『ことわり』が生まれる加能性があるのだ。人は誰しも式部になり得るのである。」
 ――可能性を「加能性」と誤っている部分に減点の赤ペンが入れられているものの、個々に異なる「ことわり」が人の人たる所以であると論じた辺りは、過去の私を褒めてやろう。それにしても、昔から思考回路が変わらない。此処まで辿り着けば、あとは社会のルールについて分析するのみ。先を読まずとも、この先が読める。が、一応、答え合わせのために、先のページを捲ることとしよう。
 
 「ところが、人間の弱さはここでも出てしまう。九十九人が同じ『ことわり』を共有していることを示して、百人目に意見を求めたとしたら、その人がそれを否定できるはずがない。そこには自分らしさの欠片もない。『ことわり』とは、これほどまでにいい加減なものなのである。だが、他の九十九人に同調したことを、自分を殺して世間に屈したと評するのは乱暴だ。まして社会のルールであるならば、なおさらのことである。ちょうど本校において、制服の着方を自由にしようと生徒会で決議することもなく、たった一人がシャツをズボンから出して歩いたところで、その自己主張は認められず、ただの校則違反の域を出ないのと同じことではないか。たかがシャツ1枚で騒動を起こすのも面倒だから、九十九人が同意していることになっているルールに従うまでのことである。
 この場面で九十九人の人間と別の行動をとるほどの勇気のある者、人生をかけるほどの強い価値観が他の九十九人とは異なる者、あるいは自分の『ことわり』が何だか分からなくなった者が、式部の理解者となり得るのかもしれない。とはいっても、現実の世界は厳しい。式部だけの恋の『ことわり』も社会のルールとしては受け入れられなかった。もっとも式部はそれを『重々承知の上で』独自の『ことわり』に固執していたわけだが、彼女の内面について筆者は次のように述べている。
 
  恋する相手の心はもとより、自分自らの、どのように動いてゆく心であ
  るかも、なお明確にみきわめられない感性的な鬱情を抱きながら、しだ
  いに見えてくるものを待つ(中略)式部がみつけた本当の愛がどれほど
  あったといえるだろう。
 
 式部は意外にも真剣な恋愛を求めていたといえる。<暇つぶし>などではない。<まじめ>なのに、結果として<暇つぶし>になってしまった。しかし、男の来訪が重なるような彼女の生活を見て、世間が多情だといって非難しないはずがない。『男のいうことに一々こたえているうちに関係はいよいよ複雑になって』しまった式部の人間的弱さを不憫に思いながらも、私にはどうしても彼女の『ことわり』が分からない。
 これが、本当の女心は女にしか理解できないというものなのか。現に本作品の筆者・馬場あき子も、解説の永畑道子も、共に女性である。これは私一人の『ことわり』かもしれないが、男心、女心が互いに同性にしか通じないということは一種の法則みたいなもので、恋愛を複雑なものにしている理由の一つだろう。式部の複雑な心理がそのままそれを物語っている気がする。男心と女心の違いについて一つ挙げるなら、恋愛に自分らしさを出すことは、やはり女性でなくてはなし得ぬことなのかもしれない。あくまで一般論だが、男性の恋愛の動機はどうしても女への色欲に支配された部分が大きいものだから、男性には恋愛に自分らしさを出そうという発想自体があまり出てこない。どちらかというとサルに近い。従って、自分独自の『ことわり』に悩むことはあったとしても、それが鬱情を抱くほどの悩みになることはないだろう。
 式部は自らの『ことわり』の通用しないことにじっと堪えなければならぬ運命にあった。でも、世間は彼女の内面を無視しながら、本当はそこに恋愛の真理を少し認めていたのだとも思う。それが、彼女が恋愛歌人として後世に名を残している所以なのだろう。」
 ――以上、原稿用紙14枚半、29頁の大作であったが、この文章量にも拘らず、一度たりとも式部自身の和歌を読み解く作業を経ていない。誠に横着な読書感想文であるが、恋愛観の男女差から式部の悩みを紐解こうとしたチャレンジには拍手を送りたい。
 男性の恋愛の主たる動機を色欲としている事に「あくまで一般論だが」との“お断り”を付けているところに、思春期終盤の“信条”のようなものが読み取れる。当時の私が恋に落ちる素因は、肉色が然程には濃いもので無かった。「オンナの艶っぽさに魅かれて、接吻や同衾を望むが故に」といったカラダの動機よりも、割とココロが勝っていた。カラダを満たす行為はAVに一任するという独自の「ことわり」があったのか、AV女優と同級生がリンクしないことに「憂さ」が生まれて悶々としていたのか、振り返ればそんなところだろう。
 また、おそらく高校当時の私に式部の「ことわり」が理解できなかったのは、「鬱情を抱く程にまで自分の心の動きが見極められなくなる恋愛ならば、一旦リセットして、大切な人生を恋愛以外の物事に傾けてみたらどうだろう」といった、如何にも青春臭い固定観念に縛られていたことが背景にあったものと推察される。どうせここまで論じるのなら「恋愛の手段でもあって、恋愛以外に人生をかけられるもの。それこそが、彼女にとっては和歌だったのだろう」と結論付けてほしかった。
 
 オトナになった今の私には、式部の「ことわり」がほんの少しだけ解る。解ったつもりになっているだけかもしれないが、少なくとも彼女の「ことわり」とやらに共感できる。だって、東京で中学時代の片想いの相手・春子さんと逢う折には、彼女の前ですっかり自分というものを失ってしまい、自分の「ことわり」が何だか分からなくなるのだから。それでいて、まるで失った自分を探して取り戻すかのように、大阪では大学生の風俗嬢・サクラといつもの居酒屋で、こうしてダラダラとテレビを視ながら酎ハイを飲んでいるのだから。
 
 「このまま卒論書いて、院試受けて、修士取って、就職するんやろか。」「まあ、そうだろうなあ。」「教授は『割り切ってから会社に入ったほうがええで。サラリーマンになったら、おもろい研究なんて無いし。やけど、心から諦めたらあかんで。諦めたらゲームセット。仕事がおもろいゆう迫真の演技をするゲームを楽しむんや。』って、何やそんなこと言うてはった。」「どっかで聞いたことのある科白だな。でも、いい先生だな。」「やっぱ、そうか、ええ先生やんな、ウチの教授。それとな、『今は人手不足やけど、世の中が変われば、会社はまた平気でリストラを始めよる。そのサインはな、仕事を与えないことで辞めさせる会社と、過酷な労働で辞めさせる会社の2種類があるから、気ィ付けや。』みたいなことも言うてはった。」「うん、やっぱりいい先生だわ。でも、NHKのアナウンサーばりに周囲のサインに気を付けてても、どんな会社なのかは、入ってみないと分からないんだけどな。」「やっぱ、せやな。教授もそう言うてはった。あとな、時々哲学っぽいことも言わはんねん。『スルメとガムの違いは何あ~んだ?』みたいな。何やと思う?」「ええ、それって哲学のクイズなのかなぁ。まさか、噛めば噛むほど味が出る奴と、その逆の奴もいる、みたいな話?」「うわ~、やっぱ文系って凄いなぁ。あっさり正解すんねんなぁ。」「それ、褒められてんのかなあ。」「教授は『せやから、世の中には噛まへんほうが長持ちする奴もおる』てェ、言うてはった。」
 ――スルメだって、ずっと噛んでいれば、いつかは味が無くなるんだけどな。まあ、そういう横槍が哲学には無用なんだよな・・・つづく

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