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【保健室】朝飲めば 効き目が持続? 酔い薬

 いつの頃からか日光の眩しさが苦手で、鳥目気味のくせして、夜のほうが過ごしやすい。そんな訳で二日酔い気味の出張先のビジネスホテル。よくぞこの時刻に目覚まし時計の力を拝借せず起きられたものだ。9時32分発の「のぞみ299号」は10時06分着。このたった約30分の間、シートにじっと座っているのも辛い体調のくせして、一人前に空腹は感じる。本当は名古屋駅の台湾ラーメンでシャキッと覚醒したかったのだが、さすがにオープンの11時までは待っていられない。朝の飲食店の営業事情は京都駅でも同じだと心得ていた故、立ち食い饂飩で済ませようとしていたところ、小洒落たパスタ屋さんがシャッターを全開にしている前を通りかかり、足が止まる。
 明るいショーウィンドウを覗けば、パステルカラーに彩られたテーブルクロスの上で「九条ねぎとお揚げさんの和風スパゲティ」とか「万願寺唐辛子とおじゃこさんのペペロンチーノ」とか、艶々した食品サンプルが「おこしやす」と手招きする。その「おこしやす」に誘われるまま店内に入るも、バイトさんの表情はどちらかと言えば「おいでやす」に近いものだった。予約客や常連には「おこしやす」、一見さんには「おいでやす」、それが京都の流儀と云うが、厳密に使い分ける商売人はめっきり少なくなった。
 「海老とキノコの宇治抹茶クリームソースを…」と私が告げ終わらぬうちに、フランス人形みたいな制服のバイトさんが注文を遮る。「ただいまのお時間はこちらの朝メニューからのご注文となります」という“想定外のルール”を発表する作り笑顔の中に、仄かな無愛想の香りが漂っている。観光客で四六時中ごった返しているこの辺りで、剰え喫茶以外の飲食は閉まっている時間帯だというのに、この店だけが私の腹と同じくらい空いている理由は、どうやら値段の高さだけではなさそうだ。――「え~っ!?だったら、ショーウィンドウに貼り紙をしておくとかさあ、何らかの事前通知が欲しかったなあ。もう店に入っちまったから、文句だけ残して出るわけにもいかねえ。まさに『看板に偽りあり』ってぇのはこのことよ。そりゃそうだろ、オメエさん。入口で『本日出勤の女の子』ってぇのを散々見せられてだよ、いざソファーに腰を下ろしてしまった後に『海老さん』『キノコさん』『宇治抹茶さん』って、いっくら指名しても、『その子は夕方からです』って、まるで一切問題ねえかのようにあっさりした表情で応えるようなもんだよ。それとな、老婆心ながらついでに言っちまうけどな、『ただいまのお時間は…』の前にだな、普通は『申し訳ありません』って枕詞を置くのが正しい接客ってもんじゃねえのかい。」という科白を心の中で喋り切って、三度の深呼吸を経てから、ようやく落ち着き払い「じゃあ、ナポリタンをお願いします」とオーダーした。「じゃあ」に嫌味を込めたつもりだが、通じていないようだ。「ご注文を繰り返します。『昔ながらのもちもちナポリタン京水菜添え』でよろしいでしょうか?」と言うので、「はい。」と応じると、「サラダは先にお持ちしてよろしいでしょうか。ドリンクはあちらのドリンクバーになります。」という本日二度目の“想定外のルール”が発表される。朝メニューには必ずサラダとドリンクが付いていて、パスタ単品の注文は不可とのことらしい。――「え~っ!?そんなことメニューの何処に書いてあるの?もはや詐欺まがいと言っても過言じゃねえぞ、オメエさんのやってる商いは!」と心の中で喋ってから、「サラダ、先で構いません」と返事する。そもそもパスタに食指が動いたのは「グラスビール」くらいあるだろうと期待したからだ。ドリンクバーって言われても、今はメロンソーダやコーラの気分とは程遠い。
 朝から1,705円も払って羊頭狗肉の店を去ると、すぐ傍で10時半から回転寿司がオープンしている光景に出くわす。しかも、開いたばかりなので、この店の恒例となっている外国人観光客の行列がまだ出来ていない。・・・気付けば一寸の迷いも無くカウンターに掛け、焼酎の緑茶割りを注文していた。最近は、タッチパネルで選んだ注文品のみが客の手元へと流れてくる方式の店ばかりとなったが、ここはベルトコンベアの上を所狭しとネタが埋め尽くし、どれもこれも干からびるまで周回し続けることもなく、その新鮮さを競い合っている。つい30分前に覗いたショーウィンドウの食品サンプルより艶々しているではないか。自分の食欲に驚くと共に、鮨は別腹というのは真実だと知った。迎え酒は一時的に体が楽になった感じになるものの、後で余計に苦しむだけ――無論そう分っちゃいるけれど、欲求が理屈を拒んで止まない。だが、一旦帰宅しシャワーを浴びて昼寝をすると、起きた時には意外にも素面に戻っていた。寧ろ今日の場合、もう夜は飲めないと知っていたから敢えて朝酒を楽しんだわけだが、酔いが長持ちしなかったのは本日三度目の“想定外”だった。
 
 「お名前のところにフリガナを書いてください。」「へえ?」「ですから、お名前、ここの『氏名』ってところにフリガナをご自身で書いてください。」「へえ?せやから、耳が聞こえへんねや。」「ふ~り~が~な!」「振り仮名てェ、みんな『京都府京都市』くらい、読み方分っかるやろ。」「住所ではなくて、名前の読み方。ココ、ココに書いて!」・・・市役所はこんな年寄りで長蛇の列だ。新型コロナワクチンの集団接種会場。わざわざ希望日と30分刻みの時間帯まで指定した事前予約の人しか集まっていないのに、窓口がこの調子では、混雑してしまうのも無理ない。胸に大きく「スタッフ」と表示したゼッケンベストが右往左往。花火大会の警備ではないかと勘違いするほどの大人数を動員したところで、誘導係は常に疲労困憊だろう。しかし、運営側の要領が悪いのも事実で、この予診票には元々「住所」と漢字の「氏名」と「生年月日」が役所側によって印字されているため、そのことに安心し、他の欄は自分で記さなければならないことをつい見逃してしまいがちなのだ。それが「フリガナ」と「満年齢」と「性別」である。まさか戸籍に「フリガナ」の登録が無い状態でマイナンバーカードをスタートさせたという問題が、“注射場”までの渋滞にも影響を及ぼしているとは――。それにしても戸籍には「性別」の情報があるのだから、ついでに性別も印字しておいてくれればいいのに。小さな四角の中にチェックを入れるという作業が、機械の都合上、不可能だったのだろうか。いやいや、票の冒頭に「※太枠内にご記入またはチェック☑を入れてください。」と印刷されている。この☑をそのまま印刷してくれたら良かったのだ。さらに言えば、これは全国統一書式なのだろうか、住所に「京都」と印字してくれているのに、その右側には「都」「道」「府」「県」の文字が礼儀正しく並んでおり、いずれかに丸印を付けなくてはならない。無論もう1つの「京都」の印字の右側も同様で、「市」「区」「町」「村」のいずれかを選ぶルールとなっている。これは小学生向けの社会のクイズか?この太枠の下に続く「質問事項」の1問目「新型コロナワクチンの接種を受けたことがありますか。」に対しては「接種回数」と「前回の接種日」に加え「前回接種を受けた新型コロナワクチンの種類」まで印字してくれているのだから、丸印を「府」と「市」に付けるくらいのことは済ませておいて欲しかった。が、役所の方々も多忙極まりないところ、そこまでの親切を要求するのも酷だろうと、「府」と「市」をコンパスで描いたかの如く綺麗な丸で囲む私。
 「本人確認書類を出してください。」「えっ?なんて?」「本人確認、そう、その手に持っているカード。マイ!ナンバー!カード!」と叫ぶと、スタッフは半ば奪い取るようにして住所と氏名の一致を確認する。そして「これは大事なカードですから、仕舞ってください。」と返す。「なんて?」「鞄の中に仕舞って!」「なんや、さっきは『出しなさい』って言うてたやん。なあ、ちょっと訊きたいことがあんねんけど、三条の王将で餃子食うてしもうたさかい、ニンニク臭うても、先生かましまへんやろか?」「他人に見られたら大変だから、カードを仕舞ってください!」「見られたらあかんもん、あんた見とったやんか。」・・・はじめから耳なんて遠くないのではないか?場内でのマスク着用が義務付けられている理由は、実はニンニク対策なのではないか?もう本人確認なんて「餃子の王将」のスタンプカードでいいのではないか?まあ、彼の手から「運転免許証」が飛び出さなかったことには安心した。事故はこの市役所内の列を渋滞させるくらいのレベルで十分だ。――爺にも婆にも一人ずつに対してこんな問答が続くのだから、堪ったもんじゃない。それと、老婆心ながら――爺と婆を相手に老婆心を露わにするのも奇だが――ついでに言ってしまうと、いっくら若い人達から親切にされても、口が達者のくせして「ありがとう」の一言も言えない年寄りが多過ぎる。頼むから、政府は老害著しい国民には別の薬品を注入して黙らせてほしい。そう願う一方、私自身も将来この害の仲間入りをするかもしれないという想像が頭を過ぎると、注射前から副反応のような倦怠感に襲われる。が、仮に私が若い人達から煙たがられる憎たらしい存在になってしまったとしても、「ありがとう」くらいは常に忘れない老人で居よう。私にとって「感謝を示せない人」というのは、「欠伸をする時に口元を掌で塞がない人」や「箸を持ったまま肘をつく人」と同じほど軽蔑に値するからだ。軽蔑は言い過ぎだとしても、好感度が半減することは間違いなく、私自身がそのような人物で在りたくはない。
 
 30分待ったが、注射は3秒で終わり、「接種後待機スペース」へと案内される。直後のアレルギー反応が万が一起きた場合に備えて、渡された紙に赤マジックで書かれた時刻までの15分間、用意された椅子に凭れていなくてはならないのだ。
 「出口てェ書いてあるやんか!目ェ歪んどんのかいな!」「アホ言いなや。座っとれェ言わはったやろ!」「せやから『出口はこちらです』てェ、看板に書いとるやんか!」私の背後では、老夫婦の口喧嘩が一向に収束しない。このペアは一体どうして一緒に暮らそうと誓い合ったのだろうか。醜い罵声の音量が次第にアップし、天井の高い会場に木霊する。こういう互いに自己主張の激しい夫婦に限って、若い人達へ結婚を勧める世話焼きだったりもするから、アナフィラキシーでもないのに卒倒しそうになる。意中の女性に悉くフラれた結果論に過ぎないが、私は「結婚できなかったからこそ、今の幸福に至っている」事実を久々に再認識した。もし傘寿を越した私の隣にこんなにも煩い配偶者が居たら、さっさと安楽死してしまいたくなることだろう。
 「運勢は日によらず人による」と謂われるように、幸せも結婚の有無によらず人による。然は然りながら、四十路、五十路、六十路と、人生の迷路を彷徨い続けるにつれ、諦めたのか、必要としなくなったのか、その歩みに“道連れ”を欲しなくなった人々を観察していると、やはりどうも幸せそうである。春秋の週末は家族連れで賑わう行楽地のニュースに華やぐが、テレビ画面の枠から外れると、ニュース映像とは正反対の少子高齢化なるパノラマが広がっている。街の様子を熟視すれば、婚姻届の履歴なき“戸籍童貞”と“戸籍処女”の面々――貴族にはあらねども、自由気儘な風流人たち――に溢れ、行楽地ではない場所で各々静謐な享楽に耽っている。この私もその一人だ。
 
 「お疲れ様でした。今日はこのあと激しい運動とお酒は控えてください。お風呂は大丈夫です。気を付けてお帰りください。」・・・お役所の“接客”のほうが朝のパスタ店よりも余程マシだと感じた。“客”の回転はイマイチだけど――。労働力不足で民間企業のサービスが低下し、長寿社会で官公庁のサービスは向上する――それが少子高齢化というものだ。
 高齢化とは少子化の必然的帰結。少子化とは経済成長とジェンダーフリーの必然的帰結。男も女も、性別による役割を分担せず、等しく仕事して稼いで自立的に生きるのだから、結婚やら出産やら子育てを奨励する政策は困難になってくる。それどころか、ますます独身の議席数が増えていく。是、中高生でも解せる方程式だ。――ついでに言ってしまうと、表向きには男女同権を標榜しているにも拘らず、私のように収入とキャリア意識の高い女性と一緒になり、専業主夫になりたいといった願望を所有する男性には誠に生き辛い世の中だ。そんな世の趨勢を薄々見極めつつ、まだ誰かと結ばれる幻想をも薄々抱いていた日々が、恋しくも痛い・・・つづく

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