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【地学】酒・女・ 電車・会社に 揺さぶられ

 縄暖簾を潜る折には“軽く一杯”のつもりでも、大ジョッキでウーロンハイを二杯空にした頃には、すでにカネも終電も気にせずに注文し始めている。漸く網の端っこに焦げたハラミが残り始めたのは、カルビとシマチョウを二人前ずつ平らげた後のこと。それまでは、焼けたら即座に胃袋へと放り込む前振りが暫し続いた。他にも、ハチノス刺、センマイ刺、厚揚げに煮込みまで頬張っている。喉も乾いていたが、腹も減っていたのだ。
 連日のサービス残業に――通勤時間さえ惜しまれ、会社にベッドが欲しい程の残業に――耐えているうち、多少癖の強い先輩との間にも“戦友”としての絆が生まれる。その中の一人がベルさんだった。今日は珍しく20時30分の退勤。すっかり麻痺した我々の感覚では「早退」にすら近い。折角早く帰れるのだから、真っ直ぐ家路につけば、翌日の仕事も楽な筈である。でも、それはあくまで理屈の世界。第一、これ程の激務ともなれば、たとえ二日酔いだろうと睡眠不足だろうと、元々蓄積している疲れとの間に大差はない。1日の憂さを晴らすことのほうが、私達にとっては優先順位の高い“滋養強壮剤”。腹と同時に心も満たす必要に迫られていたのが、当時の私達のサラリーマン生活であった。
 好きな事を職業にする――これは凡人にとって至難の業だ。「会社員」たる職業に対する“期待”を学生時代から予め完膚なきまでに葬っておいたのは正解だった。希望は無い人生だが、予想通りの人生。「思い通りの人生」では無いけれど、「思っていた通りの人生」だから、多少は救われる。裏切られるくらいの期待なら、ハナから持たないほうが得策というもの。だから、日常の業務に対して「やりがいを感じる」とか「楽しい」とかいうコトバは、如何なる場面においても用いないと心に決めていた。その言葉が上司を喜ばせ、私を元気づけるものだと承知していても、この空虚な嘘だけは自らに禁じていた。そして、この妙なプライドとルールを矜恃していた人間がもう一人、炭火燃える七輪を挟んで私の目の前に居る。「仕事の目的はカネとオンナ。それだけ。」が口癖――私はこの下品な先輩と食すホルモンが大好物だった。
 
 つくづくオトコというのは――女性側の評価基準の上では殊更に――愚か者で、この日の話題も実にくだらない。上司の悪口にも飽きてくると、お次は猥談という展開になる。
 汗ばむ女子高生を見ると、オトコはどうして興奮を抑えきれないのか。夏服の白いシャツに透ける、ちょっぴり早熟な心模様を映す薄浅葱のブラジャー。校則なんて何のその、灰桜のマニキュアがオトナへの開花を連想させる。ベルさんは、今朝のホームでそんな甘酸っぱい“蕾”を舐め回すように眺めていたという。
 一方、そんな女子高生がオトナになっても、オトコの興奮は冷めやらない。すぐ傍らの喫煙所に目を遣れば、ちょっぴり不良だった少女がそのまま地元の小さい商社にでも就職したのか、大した作業も命じられていないだろうに、疲れ方だけは一人前といった態のOLが腕組みをしている。肌を覆いつつも、逆に脚線美を自慢するかのようなタイトな黒いパンツスーツ。遠慮気味の染髪だけは社会人でも、寧ろマニキュアは灰桜から乙女色へと若返っている。不快な日々に唾棄するかのような表情と、宮仕えに抵抗するかのようなピンヒール、その女王様っぷりが見事なもので、私は溜息交じりのタバコの煙を吹きかけられたくなった。
 ・・・それから半日が経過した路地裏の焼肉屋。阿呆な二十代の宮仕え二人、各々出勤時の人混みに紛れて拝ませて頂いた、ややヤンキーの雰囲気を漂わせる“後ろ帯”のご様子と感想について、互いに披露する。その姿を思い出すだけで酒が美味くなる。こうした衝動や欲情1つひとつを変態的だと片付けるならば、この巷に変態でないオトコなど殆ど存在しやしない。「絶対」に限りなく近い表現で断言できるが、いくら紳士的な仮面を被った男であっても、脳裏ではエッチなことを考えているし、それを滅却することは「不可能」に限りなく近い。貴女がカッコイイと恋焦がれているその人も「オトコ」の一員。女は「変態な男は嫌い」なのだろうけど、残念ながら「男とは変態」なのだ。「あの人だけは違う」と思いたいだろうけど、オトコという生き物は、多かれ少なかれ全員が、女性の尺度では「変態」の範疇に間違いなく入る。女性には一切理解を得られないのだろうけど、それがオスの悲しき性というものなのである。
 
 ありったけの肉と焼酎を口に入れ、ありったけの愚痴と助兵衛を口に出し切ると、最後にモロキュウともう一杯だけ“シメ”のウーロンハイ。焼肉屋だが、冷麺もビビンバも無い。だから同じ路地にあるラーメン屋も共に儲かる仕組みになっている。ベルさんと私の関係と同様、この狭い世間で生き残るには“共存共栄”が命綱なのだ。焼肉屋「甲」に入れば、ハナから二人前ずつ頼む。さすれば、二人客の間には奪い合いも譲り合いも起きない。甲のメニューにハナから麺類も御飯物も無ければ、自ずとラーメン屋「乙」に立ち寄る導線が形成される。乙から甲へと続くパターンは少ないが、その分、乙より甲のほうが客単価は高く、甲より乙のほうが客回転率は高い。故に、甲乙は離れ離れになるよりも近接していたほうが互いに儲かる。
 ところが、そう簡単に物語は終わらない。ここで「甲および乙」に「丙」が加わる。焼肉屋とラーメン屋との間にはセクキャバがあるのだ。要するに、焼肉の後、ラーメンの前に、ここへ拝観する観光コースが出来上がっている。まるで“きぬかけの路”――金閣寺と仁和寺との間に竜安寺がある。三寺とも世界遺産。1つとて外す訳には参らぬ。
 
 やたらと明るい受付カウンターで“拝観料”を払うと、やたらと薄暗いホールへと通される。電話台サイズの卓に、梲の上がらなさそうなボーイから瓶ビールが運ばれると、やがてミラーボールが狂ったように回転し、女の子も回転し始める。女子高生の制服に身を纏ったお嬢も居れば、OLの制服に身を纏ったお嬢も居たが、いずれも安っぽい衣装で、これがまた良いのだ。マニキュアが余りにショッキングピンクなのも良い。これで灰桜や乙女色が登場してしまったものなら、徐々に今朝のホームと今夜のソファーとの分別すら失ってしまいかねない。そうなると、オトコから見ても超えてはならない変態一直線への道を突き進むのみである。
 「お客様、お時間です。是非ご延長はいかがですか。」とボーイが声を掛けると「ねえねえ、もっと遊ぼっ!」とお嬢がせがむ。この小芝居に「今度はいつ会えるの?その日に来るよ」という小芝居で返すと、キツい香水に満ちた店を発ち、お隣のラーメン屋でシメる。ここでも焼売をアテにレモンサワーを食道へと流し込む。焼売はあるが叉焼はメニューに無い。それが肉の専門店である甲への礼儀というものであり、この路地の流儀だ。
 
 駅にはJRと私鉄の両方が接続しているが、気付けばJRの快速はもう終了し、私鉄の各停にルートを切り替えないと帰れなくなっていた。この駅から発つ本日最後、否、日付が変わって本日最初の電車だ。
 ホームの端っこで、1日の務めを終えた円筒形のスタンド灰皿が真っ黒になっている。1時間前にミラーボールの下、ワイシャツに纏わり付いた初夏の生温い“女子高生”や“OL”の残り香を、本日最後、否、日付が変わって本日最初の煙草の臭いで掻き消す。「赤いスイートピー」は「煙草の匂いのシャツにそっと寄りそう」と歌うけれど、煙草のニオイって、そんなに優しいものなのだろうか。きっと「春色の汽車に」乗るその御方の煙草と、「夏色の終電に」乗る私の煙草とでは、銘柄も品格も何もかも異なるのであろう。でも、その御方とてオトコ。変態の一員である真実をお忘れなく。
 「しっかし、二人目のオンナ――ああ、オマエは三人目やったか――えげつないほど、口、臭かったなあ。アレは客商売のプロとしてアカンで。」と先輩が虚ろな目で文句を垂れている。フラフラだが、ベルさんは30分で独身寮に辿り着く。私の家までは、あと1時間はかかる。泊るのも選択肢だが、さすがに明日の着替えが欲しい。「まあ、あの店を深掘りしたかて、ええこと1つもあらへんな。仕事とおんなじや。何やかや言うて、深さに執着するくらいなら、まだ広さに拘ったほうが商売うまくいくで。そら、深掘りもええけどな、結果は同じやて。JRがダメなら私鉄に乗り換えればええ。」――おそらく「深さ」「広さ」というのは顧客との関係を指していたものと推察された。確かに、セクキャバも得意先も、どっぷりハマれば心地好くなるものの、いずれ穴から抜け出せなくなるリスクを伴う。
 
 「ところで、お客さん。あなた達は今までにどれくらい深い穴を掘ったことがありますか?」――落語部の顧問でもあり、生徒達を屡々「お客さん」と呼んでいた“マグマ大使”先生による地学の授業が始まった。あのセクキャバから遡ること十年前の初夏、私は千春さんという本物の女子高生、それも不良の欠片も無い、クラスで成績トップの才媛に、純朴な――自ら吐露するのも気恥ずかしいが、純朴な――心胆を占領されていた。まさに、どっぷりハマって穴から抜け出せなくなっていた次第である。
 「好奇心旺盛な子でしたら、公園の砂場で夢中になって、1メートルくらいは掘ってみた経験があるかもしれませんね。私は幼い頃、『この地面を掘り続けたら、何があるんだろう。地球は丸いって謂うけれど、日本の反対側までトンネルが開通するのだろうか。』って、そんなことばっかり考えていました。勿論それは無理な話ですし、手掘りには限界があります。
 地球の内部構造を調査するにはボーリング技術を使うわけですね。鉄管の先に工業用のダイヤモンドビットを装着し、地殻を――地球の表面ですね――地殻を砕いていきます。太いビットの掘り進めた穴の円周と細い鉄管との間には空間が出来ますから、ここに水とベントナイト粘土を混ぜたものを流し込んでいきます。これが比重2.7~2.8ですから、摩擦で熱くなっているダイヤモンドビットを冷却すると共に、比重2.6の岩粉を――これが地殻の成分ですね――岩粉を浮き上がらせる役割を果たします。」――マグマ大使は説明しながら、相変わらず黒板に美術の先生も顔負けのイメージ図を描く。
 「しかし、それでも限界はあります。ボーリングを和訳すると『試錐』、まさに『お試し』であり、地球を貫くなんて夢のまた夢。現在の技術では約13kmまでしか掘ることが出来ません。ちょいと針を刺すくらいのレベルですな。地殻の厚さは平均30km、薄いところでも5~10km。それならば、地殻の薄い場所を狙えばいいじゃないかって思うかもしれませんけどねえ、お客さん、そうは問屋が卸さないんですよ。5km以降の固い岩石の中を掘り進めることはなかなか難しい上、何処が薄い場所なのかを正確に特定することも難しければ、その場所に正確にビットを降ろすことも難しいのです。薄い場所は海の底――則ち陸から掘り下げる場合の距離に比べれば、海の深さの分だけは作業を省けるという算段ですが、海上の船からビットを降ろす必要があるわけですね。地殻の向こう側はマントル。地殻とマントルとの境界面を『モホロビチッチの不連続面』略して『モホ面』と呼んでいます。要するに、未だ人類はモホ面まで達するような穴を掘って、上部マントルの岩石を直接採取することも出来ていません。
 それでも、地球の内部にどんなものが在るのかは概ね判明しています。固体であるマントルの先――地表から2,900km進むと液体の外核、5,100km進むと固体の内核です。マントル(Mantle)と外核(Outer-core)との間が『グーテンベルクの不連続面』、外核と内核(Inner-core)との間が『レーマンの不連続面』です。ああ、これも絵にしちゃうと分かりやすいよ。」――マグマ大使は説明しながら、オレンジの8分の1を果物ナイフで巧みにカットしたような立体図を描き、地球の断面を示す。この高校で、赤・黄・青・白、四色全てのチョークを操るのはこの先生だけだ。
 「何で実際に掘ってみたことも無い地球の内部の構造が解るのかって、不思議でたまりませんよねえ、お客さん。大丈夫。解説します。不連続面というのは、地震波――P波とかS波とかですね――この速度が急に変化する境界面のことです。地震計の技術が発達すると、地震波が到達するまでの所要時間と震央角および震央の距離との相関関係を示す『走時曲線』の詳細な分析が可能となりました。すると、核の中ではS波は伝わらず、P波は伝わるけど遅くなるという事を発見した。従って、マントルの奥にマントルとは違う物質があると推定したんですね。これがグーテンベルク。さらに、E(震央)から110°の地点に例外的にP波が到達する現象から、核の中にも外核と内核があることを推定した。これがレーマン。」――あっという間に黒板はマグマ大使の描いた図とグラフの数々で埋め尽くされた。
 「でも、今日は図とグラフだけね。お客さんにはこの地球のロマンティックな噺にまず興味を持ってほしいからね。ホントはですよ、この辺りの分析は極めて数学的であり、様々な式が登場します。それは次の寄席で解説することとしましょう。予告だけすると、例えば、地震波の速さはこんな式で表すことが出来ます。テストでもマストの知識ですよ。」――「Vp=√K+4/3μ/ρ」「Vs=√μ/ρ」――すらすらと黒板に書かれたものが、図やグラフから記号の羅列へと突如にして変わった瞬間、私の脳内には地震波が走り、思考回路が一気に崩壊した。人が受ける強い心理的ショックを「震撼」と表現した人の国語的センスに拍手を送りたい。
 「前者の式がP波(Primary wave)所謂『縦波』『疎密波』、後者の式がS波(Secondary wave)所謂『横波』『ねじれ波』です。『K』は『カッパー』と読み、物質の押し潰されにくさを表す体積弾性定数を指します。気体とか、押し潰されやすい物質は小さい値となりますが、K=0にはなりません。『μ』は『ミュー』ですね。ねじれにくさを表す剛性率です。液体と気体はいくらでもねじれるので、μ=0となります。『ρ』は『ロー』と読み、密度を指します。
 さっき地震計(Seismograph)の技術が発達すると、って言いましたが、日本にも平安時代から地震計があったようです。ラケットみたいな棒を地面に立てて、それが倒れるかどうかを基準にした原始的なものです。中国の昔の地震計は四方八方に球を設置し、どの球が落下したかによって揺れの方向も解るといったものでした。近代の地震計の基礎を作った人はユーイングです。地面の揺れをそのまま受け取れる独立した建物の中に、不動点となる錘を弦巻バネで吊るします。錘にはU字型バネを固定し、U字型バネからストローを伸ばした先に記録用の針をセットするわけです。すると、U字の片方は錘によって固定され、もう片方が地面の揺れを受けるため、ストローを通じて針が左右方向に動くわけですね。この針の動きが皆さんのよく目にするジグザグの波です。しかし、前後方向・上下方向の揺れは、錘も一緒に揺れるため、記録できません。よって、地震を正確に知るためには、東西方向・南北方向・上下方向、3つの地震計が必要となります。こうして精度の高まった地震計のおかげで、人類はP波・S波の動きの特徴を掴めるようになったわけです。」――マグマ大使は説明しながら、倒立型地震計の原理について、各種バネの接合態様から記録用紙の回転ドラムに至るまで絵で見せた。カッパーとかローとかで挫折していた私の理解力が若干息を吹き返した。
 「すると、P波もS波も地球の深部であるマントルを通過すると、その速度が増すことが解ったんですね。まずマントルには地震波を速める物質が存在している事までを突き止めたのです。P波で説明しましょう。『Vp=√K+4/3μ/ρ』ですから、圧力によって深に向かうほど物質の密度は高くなることを考慮すると、マントルは、密度(ρ)の値が大きく、押し潰されにくく(Kの値が大きく)、ねじれにくい(μの値が大きい)物質で構成されているという事になる。故に、上部マントルが密度3.3~3.4g/㎤の橄欖岩やエクロジャイト、中部・下部マントルが密度5.0~5.5 g/㎤のMg・Feが多い岩石だと結論付けたのです。いや~、恋人のハートの中身を知るくらい愛情と心血を注いだ研究ですねえ。」――流石だ。千春さんは恰も始めから答えを分かっている様子でこの授業を聴いている。今日も麗しいなあ。砂場で1mの穴掘りに興じた小学生の段階で私の地学的能力はストップした。斯くなる真空のアタマをして、一体どうやって彼女のハートの中身を把握せよというのか。何もかも千春さんには敵わない。この圧倒的な敗北感が私を官能的にせしめ、徹底的に彼女の虜で居られる安心感へと誘うのであった。
 「次にマントルよりも先にはS波の影が出来る――則ちS波を通さない物質が潜んでいるということで、『核』の存在が解った。S波を通さないという事は『Vs=0』という事です。『Vs=√μ/ρ』ですから、『Vs=0』となるための条件は、①ρ=0、②μ=0、③ρ=0かつμ=0、のいずれかです。一方、地球の平均密度は質量を体積で割れば算出でき、約5.52だという事が判っています。すでに地殻が密度2.6~2.8 g/㎤の花崗岩質岩だという事も判っていますし、マントルの密度はさっき説明した通りです。すると、核の密度は地球の平均密度から逆算して、11~15 g/㎤ぐらいと推測されます。従って、核がρ=0つまり真空という事は絶対に有り得ないわけです。そうなるとμ=0が必要条件となり、核を成す物質は気体もしくは液体だと推定されますが、気体だとすればρはゼロに近いわけですから、液体だと結論付けるのです。ρ=11~15 g/㎤で、かつ液体、是、則ち金属の液体――それもFe・Niの合金である事が解っています。なぜ、金属の種類まで特定できるのかって?それはお客さん、地球の内部を核に到達するくらい奥深くボーリングすることは出来ないものの、他の惑星、つまり隕石(Meteorite)から推定しているんです。いや~、恋人の気持ちを知ろうとする時と同様、実に推定の領域が大きいですねえ。」――何となく理解できる。理解はするけれど、もはやここまで理屈っぽいと地球の中身なんてどうでもよくなる。隕石でも衝突しない限り、我が“真空アタマ”の働きは改善しないであろう。
 
 「しまったなあ、今日は予告だけって言いながら、地震波の速度の式まで聊か喋り過ぎちまった。こりゃ失礼。そのお詫びと言っちゃあ何ですが、お客さん、地殻とマントルで地震波の伝わる速度が異なるという事についてイメージしやすい例え噺を1つご披露いたしましょう。
 私の家は井荻にあります。ご存知でしょうか、杉並区井荻――上(かみ)と下(しも)の井草、上と下の荻窪の4つの村が合併して出来た町名――シンプルで分かりやすいですね。西武新宿線と環八が交差している井荻駅の近所です。で、ここをスタート地点とする競走をするとします。よ~いドンで走るだけですが、この競技には『JRなら電車利用可』という特別ルールがあります。ウサギ選手とカメ選手の2名がエントリー。両者とも陸上部で同レベルの脚力を持ち、1キロ5分ペースで走れるとしましょう。競走は2回、『5キロの部』と『10キロの部』です。
 まず『5キロの部』――ゴールは野方、ご存知でしょうか、中野区野方――西武新宿線と環七が交差している野方駅周辺です。井荻と野方との間は実際に5キロも離れていないのですが、駅から駅まで線路上をランナー向けに舗装した道を走るとして、工夫して凡そ5キロのコース取りをしたものと仮定します。ウサギ選手はJRを選択します。井荻から環八を南下すること約2キロ10分の走りで荻窪駅へ。荻窪駅から高円寺駅まで中央線で約4分、高円寺駅から環七を北上すること約2キロ10分の走りで野方に到着です。電車の待ち時間や駅構内の移動時間を相当オマケで4分と設定しても計28分かかりました。一方、カメ選手は単純に5キロ×5分の計25分でゴール。ここではカメの勝利です。
 次に『10キロの部』――ゴールは高田馬場――やはり西武新宿線の線路上のコースです。ウサギ選手は10分で荻窪駅、中央線9分で新宿駅、山手線に乗り換えて4分で高田馬場駅です。さすがに新宿駅を経由しますので、プラス5分として、10+9+4+5=計28分です。さっきの「5キロの部」と同タイムですね。一方、カメ選手は単純に10キロ×5分の計50分でゴール。そう、この競走、当然ながら長距離となればなるほど電車利用のウサギ選手に有利となります。
 この競走を地震波に置き換えると、カメ選手が『地殻』のゾーンのみを低速度で走る『直接波』、ウサギ選手が地殻の中では低速度でも『マントル』のゾーンに達すると高速度で移動する『屈折波』ということになります。震源――ここでは分かりやすく震源イコール震央としますが――震源である井荻から近い野方くらいまでの地域では『直接波』による揺れのほうが地表へ早く伝わりますが、これが高田馬場くらいの地域まで離れると、たとえ遠回りであっても『屈折波』が直接波を逆転するのですね。」――マグマ大使は説明しながら、西武新宿線とJR中央線が並走する路線図を描く。それも杉並区から新宿区までの局地的な路線図。この上からウサギの赤とカメの緑で各々のルートを色分けして示し、結びに右の縦ラインを“赤い山手線”で塞ぐ。これは本日の授業の中で最もすんなりと“真空アタマ”に入る噺だった。
 JRと私鉄が――いや、私鉄同士だとしても――複数の鉄道がほぼ等距離を保ちながら並走するというエリアが首都圏には極めて少ない。よって、先生にしてみるとご自宅のご近所の事だから偶然に思い付いたのかもしれないけれど、この例は直接波と屈折波の解説に最適だった。強いて他のエリアを挙げれば、蒲田~品川間のJR京浜東北線と京急本線との並走くらいのものだろう。・・・右手の小指球を鉛筆の芯で真っ黒に汚しながら、地球の断面図や走時曲線のグラフ、倒立型地震計の絵等々でノートを懸命に埋め尽くしていた青春の初夏から十年が経ち、JRを諦め、私鉄の終電で帰宅する酔っ払いの私は、今でも印象に残っているこの授業を思い出していた。「そら、深掘りもええけどな、結果は同じやて。JRがダメなら私鉄に乗り換えればええ。」――そうですねえ、ベルさん。私達は屈折波にして屈折派、屈折したサラリーマンですものね。
 
 そして、あのセクキャバから三年後、京都へ転勤となり伏見の独身寮に住むようになった私は、JR奈良線・京阪本線・地下鉄烏丸線・近鉄京都線の4線並走で地震波の理解をより深める。その後、老朽化による独身寮の閉鎖に伴い四条烏丸へと引っ越した私は、JR京都線と阪急京都線を目的地や状況に応じて使い分ける習慣が身に付いた。他にも阪神間において阪急・JR・阪神の並走があり、阪堺間には地下鉄御堂筋線・JR阪和線・南海高野線・阪堺電気軌道・南海本線の5線並走がある。言うなれば関西圏はモホ面の教科書だ。
 「さあ、ここまで長々と話してきましたが、お客さん、こんなのは初歩中の初歩。地震学(Seismology)はとっても奥深いのです。が、何となくお分かりかと思いますが、これ程の理屈を組み立てたところで、人類は未だ地震の予知1つ実現できていません。地球の仕組みをこんなに研究し続けているのに、いつ首都圏を大地震が襲うのか、誰にも皆目見当が付かないのです。だから、皆さんは地学の勉強も大切ですが、それと同じくらい真剣に避難訓練をしましょう。命守ってこその学問。これが私からのお願いです。」
 ――さすがマグマ大使。地球の創造主アースの生んだ正義のヒーロー。一方、その教え子たる私はと申せば、最後の家族となった母もこの四条烏丸で介護の末に亡くし、四十歳を過ぎてもなお独身。残りの人生で特に成し遂げたい目標や夢も無く、半ば惰性で四十八の年男となった。ヒーローとまでは言わずとも、誰かのために頑張る人生から卒業してしまったわけだ。「自分だけを守れば良い人生」――是、お気楽なようで、意外にも「誰かを支える人生」より数倍も厳しく険しいものだと痛感している。そりゃそうだよね。誰かの役に立っている事を自覚し難い日々の中で、自己肯定感を維持せねばならないんだもの・・・つづく

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