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【部活】根性が 試合の決め手 縁結び

 「バレーボールのテクニカルタイムアウトとかな、高校野球の伝令とかな、サッカーの監督のベンチからの怒鳴りとかな、ああいうの、実は大したこと言うてへんやろ。『このセットを取れば勝てるぞ!全ての力を出し切れ』とかな、『練習でやったことをそのままやれ!流した汗はウソをつかない』とかな、『もっと前へ出ろ!失敗を恐れるな』とかな、ド素人のボクでも思い付きそうなことしか言うてへんやろ。これがごっつう大切なことなんやと思うわ。興奮と疲労の真っ只中にいる選手たちにな、限られた短い時間にあれこれ具体的な指示を出したところで、却って混乱するだけに決まっとるやん。ほんなら、分かりやすいコトバを繰り返して、気合を入れたり、ミスを防いだり、ゲームを左右するポイントを1つだけ注意したりな、そのほうが効果的なんやて。
 人間、あんまり頭なんか使わんくてな、単純に阿呆になって頑張るほうが勝てるような場面が絶対にあるんやて。解説者が言うみたいにな『冷静な判断』とか『巧妙な試合運び』とかも大事やけど、スポーツゆうのは、それ以前に『屈強な肉体』と『並外れた体力』が大前提なんや。世の中の殆どの事が、頭使うて処理するほうが良い結果を招くことばかりやから、ついつい誤解しがちやし忘れがちやけど、人間な、脳みそが寧ろ邪魔になるってこともあってん。だって、高校の部活なんてな、真夏の炎天下ん中グラウンド10周みたいな練習ばっかりしよるやん。そんな時『何でこんな事させられてんねやろ。ああ、早よう水飲みた』なんて考えながら走るよりな、どんな気持ちで走ってもどうせ同じ10周なら、ひたすら愚直になって10周終わった時に倒れちゃうくらい一生懸命やり切ってまうほうが、根性も筋力も付くがな。アタマ使うのはココロとカラダを鍛えた後の話や。こういうことはな、スポーツだけやのうて、仕事、勉強、恋愛、結婚、いろんなことに当てはまるのんちゃうかな、ってえ最近特に思うねん。」・・・お互いに40歳の壁を超えた。結婚を半ば諦めかけている私に比べて、結婚願望の強い先輩はまさに根性が違う。
 「キミとおんなじや。まあまあの大学出て、まあまあの会社に居てて、まあまあの収入や。それが、普通の人と平凡な家庭を持ちたいって思うても叶わんのやからなあ、そこは根性でカバーするしかあらへん。キミは若うに親御さん亡くならはったけど、ウチは両親健在や。やけど公務員を定年して悠々自適。結婚できるんやったら東京でも何処でも出てってくれって、そんな調子やし、嫁はんに迷惑かけるような親や無い。」・・・そうだ、その通りだ。貧乏家庭だった私よりも間違いなく育ちは良いし、親の資産もご自身の貯蓄もそれなりのハイクラスだ。性格も穏やかで、飾ったところもなく、それに何よりも幸せを望み、婚活をサボってきたわけではない。こういう人が40代を迎えても取り残される世相になってしまったのだ。もはや非婚化と少子化は法律や社会制度の整備などで歯止めが利くようなレベルではなくなってしまい、誰にもどうすることも出来ないのだ。だが、結婚願望の強い先輩はここで諦めない。
 
 「このまま頭で考えてても埒明かへん。そう思うて、結婚相談所に登録したんやわ。それも、そこら中に広告出して、そこら中に窓口開設してるような所と違うて、まあまあ本気のやつやで。例えばな、代々続く家業でな、どうしても後継ぎが欲しいけど、あんまりモテへんかったまま適齢期を過ぎて、かといって、そないに金持ちの家ともちゃうから、親戚の紹介する見合いでは何ともならんかったとか、男女問わず、かなり切実な人が『最後の砦』として登録する相談所なんやわ。造り酒屋の息子もおれば、由緒ある寺の娘もおるし、お茶やお花の先生の家系とかな、要するに親が『孫の顔が見たい』てえ本気で言うパターンや。そん中に、家業は関係あらへんけど本人が結婚を熱望しとるっちゅうボクみたいなサラリーマンも仰山居てはるというわけや。登録料は高うないねんけど、試験があんねや。ちゃうちゃう、面接なんてえ生ぬるいもんやない。結婚相手としての価値を徹底的に数値化して、自分に点数を付けられるんや。学歴・財力・年齢・健康・容姿・住居の6つの項目に分けて『品定め』をされる。」と言いながら、指を6つ折っていく先輩。カネも地位も無かったけど、継がねばならない家業も無かった親の子に生まれて、ある意味幸せだったのかもしれないなと思いながら、先輩に合わせて指を6つ折っていく私。そんな私の興味津々の相槌を待っていたかのように、先輩が説明を続ける。
 「まず学歴。これは出身大学の偏差値に出身高校の偏差値の半分を足した数値でランクが決まる。学校のレベルは時代とともに変化するから、偏差値は卒業年度当時のものって決めてあってな、卒業証明書か卒業証書を提出しなければならんのや。理系だけは大学院まで進学していたら加点要素になる。
 2つ目が財力。これは家計簿の貸借対照表や。現金・預金はもちろん、ボクはウチの会社の持株会で購入している分しか無いけど、株なんかを買っていれば有価証券、マンションなんかを買っていれば土地建物、こういうのを全部足した『資産』から、そのマンションのローンなんかを組んでいれば『負債』として差し引いて、残った『純資産』でランクが決まる。年収は源泉徴収票、預金や有価証券は残高証明書を提出することになっとるし、土地建物は登記簿を見て、抵当権の抹消が済んでいなければ、金融機関の発行する住宅ローンの明細を提出しなければならんのや。なっ、この結婚相談所、本気度がちゃうやろ。今すぐ結婚したい連中が切羽詰まって集まっとるさかい、パートナーに何を望んで結婚するんかゆう本音を隠しまへんちゅうのがルールなんや。『男に学歴と収入を求めるのであれば、全て数値化しますよ。そのかわり、貴女の生活力も数値化しますよ。お互いに赤裸々な点数を見比べてから、会うか会わないかを決めて下さい。』って、ドライに割り切って、事前に把握することのできる情報はぜ~んぶ調べ上げて、ランク付けしてしまうんや。
 3つ目が年齢。これは単純に若いほど点数が高く、女性のみ35歳までは出産適齢範囲内ちゅうことで加点要素になる。
 4つ目が健康。これは会社の定期健診の結果のコピーをはじめに持ってったけど、人間ドックを受けたら加点要素になるちゅうから、こないなことがきっかけで毎年受けるようになったわ。もちろんドックの結果で問題が見つかったら減点やで。
 5つ目が容姿。これは健康診断の結果でBMI値が分かるやんか。肥満やと減点、逆に美容体重をクリアしていたら加点要素になる。ここに男性のみ身長を点数化した評価が加わるんや。もちろん顔は重要や。顔写真の持参は認められへん。相談所指定のスタジオで撮影される。服装は自前やけど、男女とも『黒・紺・ダークグレー等のビジネススーツ』てえ決められててん。で、男は白いYシャツにネクタイ着用、ボタンダウンは不可。女は白の襟付ブラウス、アクセサリーは不可、スーツはパンツも認められるけど、その場合はスカート姿と両方の撮影になる。男女とも靴は黒、男は紐の革靴、女はパンプスで、サンダルやらミュールは不可。どうや、就職活動より厳しいやろ。会う時のファッションは自由やけど、写真審査は一切誤魔化しのきかない同一条件で勝負ってわけやな。男女とも化粧は認められるけど、スッピンでの撮影も必須になっててな、ちゃんと石鹸で洗顔するところをその場で立会人が確認するんや。撮影はな、顔アップ・上半身・立った全身・座った全身をそれぞれ左右の斜めからと正面の3つの角度から指定のカメラと指定の三脚の高さで撮る。で、顔アップについては、普通の証明写真レベルの表情に加えて、喜怒哀楽それぞれの表情も撮るしな、こんな風に口をイーって開いた形での笑顔も撮りよる。歯並びを見るためや。で、それらの顔写真をな、コンピューターが分析してAからGまでの7段階評価をしよる。日本人の20代から50代までの顔を100万人レベルで記憶させたコンピューターらしいんやわ。眼鏡かけてはる人は外した写真もマスト。もうな、撮影終わった頃にはクッタクタになるで。」・・・私がいちいち感心しながら、先輩と同じように口をイーって開いていると「キミ、歯並びええなあ。羨ましいわ」とお褒めに与る。
 
 「さっ、ここまでが『数値化』つまり点数によって価値を決める5項目な。で、6つ目の住居ゆうのはなあ、細かいランクを付けるわけやのうて、現在の居住地とかな、結婚後も働き続ける場合は転勤の可能性とかその範囲とかな、相手の希望に合わせて居住地を決められる可能性とかな、そういうことを詳らかにヒアリングされるわけや。
 これで6項目コンプリートや。一人ひとりについて、顔やら全身の写真とな、学歴・財力・年齢・健康・容姿の5項目それぞれの点数と住居に関するヒアリング回答が掲載された相談所指定書式の『釣書』が完成するわけや。5項目とも点数は相談所が独自に設定した基準でな、100点満点に揃えられとるさかい、最高点は理論上500点や。今までそんな奴おらんらしいけどな。おもろいのがな、点数だけしか掲載しいひんさかい、世間一般の釣書と違うて、例えば学歴の点数が分かっても、実際の出身大学なんかはこのオリジナルの『釣書』の時点では非公表やねん。財力にしたかて、源泉徴収票で年収は確認するけどな、会社や役職は評価の対象外やねん。要するに、その人の結婚相手としての価値を徹底的に調べ上げる以上、その価値を測量する物差しには点数結果しか用いひん。はじめは点数化なんて冷酷な方法やなって思うてんけど、学校や会社のネームバリューやイメージに騙されへんようにすることも徹底したはる。バイアスのかからない条件で正当に平等に評価するわけやから、ある意味、差別のない温かい方法なんやな、実はこれが。まっ、この相談所がこういうポリシーであることは最初にみっちり説明を受けるし、面倒な書類提出や写真撮影の条件全てに同意できる人なら誰でも登録可能ってところが、意外と門戸が広いのよ。ボク、この相談所を見つけた時、そのへんを勘違いしとってな、紹介者がおらんと入れへん思うて、銀行の役員したはった伯父に力を借りようとしていたんやわ。なんや、ロータリークラブみたいな会員資格を設けている所もあるやんか。知らんけど。」・・・そうか、その気にさえなれば私でも登録できるということか。頭の中でざっくり自分の純資産の総額を計算しているうちに、バイトの兄さんが肴を運んできてくれた。「海千山千、お待ち!」ワカメと山芋の千切が甘辛いタレに絡んだところへ卵黄が落とされ、やや多過ぎないかという程度に青海苔が降りかかっている。この店の看板メニューの1つだ。この単純な肴がウーロンハイに合う。「そうそう、エレベーターも頼んでいましたね。」エレベーターというのは、油あげに大根おろしを乗せたもので、「上げ」と「下ろし」から名付けられた洒落の効いたツマミだ。これはこの店以外でも偶に見かけることはある。料理がテーブルをそれなりに埋めるまでの間、二人がいつもの居酒屋に来ていることを忘れかけてしまう程、私は先輩の話に引き込まれていたのだった。
 
 「さて、料理も釣書も出揃いました。やけど、希望すれば登録者全員の釣書を見せてくれるわけやないねん。こればかりはいくら金を積んでも見せてくれへん。ボクの5項目の合計点と同じ点数の女性か、そのプラスマイナス10点の範囲に入っている女性の釣書しか閲覧できひんくて、つまりは自分と同レベルにランクインしている人から選ばせるシステムになっとるんやわ。そのかわり、同性の釣書は登録者全員の分を閲覧できる。ボクやったら男の釣書は全部見れるわけや。もちろん登録時にこのルールにも同意するんやで。
 もうな、この制度のおかげで気付かされることって、仰山あるんや。男性の中での自分の順位は教えてくれるけどな、そんなもん聞かされなくたって他の男たちのデータを捲っていくうちに思い知らされるんや。ボクは真ん中辺のレベルや。ボクが平均点や。このルールは女性も同じや。女性側のほうかて、ライバルたちのデータを捲りながら一喜一憂するんやろな。まず、ここで上位におらん奴は、よほど能天気でない限り、この相談所に来るまでの自信過剰を反省することになる。で、パートナーに高望みをしていた過去の自分を捨てたところで、いよいよ自分と同レベルの女性の釣書を拝ませて頂くんや。でもな、過去の自分はそう簡単には捨て切れへん。ついつい写真に目が行って、まあこんなもんやろってえ偉そうに納得するやんか。その次に容姿と年齢の点数が気になってもうてな、ここの点数が高ければ、合計点はボクとプラスマイナス10点の範囲内でほぼ同じやから、他の項目の点数が低い言うことや。せやけど、学歴や財力の点数が自分より高い女性は避けたいくらいやから、それが好都合なんや。男性は大半そういう見方をするそうや。片や女性のほうは、真っ先に写真から見るのは男と同じやねんけど、財力と住居の項目を何よりも重んじるそうや。昔から『結婚とは男のカネと女のカオの取引』てえ言う人おるけど、良いのか悪いのか今の時代でもこの価値観は廃れてへんことを実感したわ。
 でも、ちょっと事情が変わったところがあってな、それが女性の社会進出や。女も稼ぐようになったさかい、好みが男性化してきた言うたら言い過ぎやけど、財力と住居だけやのうて、やたらと容姿を気にするようになってきてんて。そらそうやな、門戸は開放されてるて言うたかて、結果的にこの相談所に集まるような人たちは生活に困らん人たちや。共働きで家庭を作るんなら、ダンナは多少収入が劣っても不細工より二枚目のほうがええに決まっとる。
 これを聞いてな。ボク、釣書の見方を変えたんや。自分より学歴と財力の点数が高い人やったら、困ったときに知識や知恵をくれるかもしれへんし、生活面でも何かと安心感を得られるやんか。結局、エレベーターみたいに、自分と相手が6台ずつ持っている評価項目の内訳を1台ずつ上げたり下げたりしてみて、自分に選択できる候補者の中から、思い切って学歴の最も高い人を選んでみてん。合計点では、ボクよりもプラス6点やった。」・・・私は醤油の浸みたエレベーターをつまみながら、ウーロンハイのおかわりを注文し、この話の続きを急かす。
 
 「相談所の担当者さんにな、『私たちの仕事はここまでです。あとは7つめの項目が一番大事ですよ。そう、実際にお会いされて、性格や価値観を確かめて下さいね。』って背中を押されて、大阪で会うことになったんやわ。その人な、出身は彦根らしいねんけど、京大で地球環境の勉強しはった後、今は建設会社の技術部門で土に還る素材の開発をしてはるんやて。でな、職場は難波やのに、どうして奈良にマンション買わはったんですか?って聞いてみたんや。いやいや、自分から『奈良に住んでます』言わはるさかいにな。そしたらな、大学のときに考古学サークルに入ってから夢中になって、社会人になってからも考古学の研究グループに熱心に参加してはるそうなんやわ。で、その活動拠点が奈良にあるもんやさかい、居住地もそっちをメインに考えはったらしい。1時間も会話してたやろか、あとは殆ど埴輪の話題や。ボクら素人は埴輪言うたら人や馬の形を想像するけど、一番多く出土されるのは円筒形のやつで、円筒の埴輪で古墳の年代が分かる場合が多いんやて。もうな、どんなに逆立ちしても向こうのほうが博学才穎なんやからと割り切ったら、なんかこう急に肩の力が抜けて、何でも積極的に質問してみたんや。「大きな円筒やし、中で火い焚いて、肉やら魚を燻製にする道具やったんでしょうかねえ?」って言うたら、上品にハンカチを口元に抑えながら笑わはったわ。あれは円筒の上に壺を乗せて神に捧げる儀式か何かに使われていたらしいねんけど、徐々に古墳の周囲に配置される境界みたいな役割に変わっていったゆうのが通説なんやて。大恥かいとるはずやのに、男ってアホやな。自分のひと言で目の前の女が笑顔になったっちゅうだけで舞い上がる。で、別れ際に思い出したように言わはるんや。『ちょっと嘘ついちゃった。考古学のためにマンションを買ったみたいな偉そうなこと話しちゃいましたけど、ホントは難波より奈良のほうが断然安い物件を探しやすかったって理由のほうが大きかったかも。通勤も近鉄の急行1本で意外と楽ですしね。うふふ』やて。もう、その悪戯っぽい表情で、ボクは彼女に交際を申し込むことに決めたんや。
 容姿なんて言うのはな、考古学の講義を1時間も受けているうちに変わってしまうんや。始めは今ひとつ垢抜けへん人やなあちゅう印象やったのにな、いつの間にか埴輪みたいな純朴な顔立ちに釘付けにされてまうねん。
 返事は1週間以内に相談所の担当者さんから連絡が入る仕組みやねんけど、まあ結論から言うと、答えはノーやった。たとえ合計で6点の差やったとしても、高嶺の花には変わらへんちゅうことやったんやな、とか、自分より頭の悪い男は好みとちゃうかったんやろか、とか、そらもう余計な事を考えてはしょぼくれとったらな、相談所の担当者さんがこう言わはるんや。『いいですか。500点満点の実力のうち、たったの6点差ですよ。ちょっとした運ですよ。1時間を使って良い試合が出来た、この経験を次に活かしましょう。同じくらいの実力の者同士が戦っているときには、最後まで諦めない根性のあるほうが必ず勝ちます。』こん時に高校の部活の記憶が甦ったんや。人間、あんまり頭なんか使わんくてな、単純に阿呆になって頑張るほうが勝てるような場面が絶対にあるんやて。スポーツも恋愛もな、アタマ使うのはココロとカラダを鍛えた後の話や。」・・・そう言って、もう一度イーって口を開いて笑う先輩に、海千山千の青海苔がこびりついている。私のウーロンハイは3杯目に入った。
 
 「次はな、候補者の中から財力の点数が最も高い人を選んでみてん。合計点でも、ボクよりプラス10点やった。ボクが選べる相手の中では最高レベルや。相談所の担当者さんにな、『私たちの仕事はここまでです。本当に良いんですね?』と念を押されたけどな、思い切って東京まで会いに行った。結ばれたらそん時や。釣書の住居の項目には『できれば東京で親と同居できる方を希望』てえ書かれてたけど、会ってみな事情も分かれへん。彼女が京都に来られへんのんやったら、ボクが東京への転勤を会社に懇願すればええだけの話や。まあ、実際にどうするかは別にして、東京まで足を運ぶことによって、担当者さんの言わはる『諦めない根性』ゆうのを1回は出したゆう実績を作りたかったんかもな。
 上野のな、不忍池の畔のな、そらもう旨んまい鰻屋やったわ。ボクが店を知らへんさかい、わざわざ予約してくれはって。東京の人って、やっぱパリっとしたはるな。『御口に合って良かったわ。関西とは蒲焼の調理方法が違うって父に叱られてきたところなんです。御徒町(おかちまち)って初めは読めないですよね。ここから歩いて行ける場所なんですよ。それも父に叱られました。大切な客人が新幹線でお見えになるんだから、東京駅までお出迎えして、銀座ぐらいご案内しろってね。昔の人ですから。』なんて、流麗な言葉がスルスルとウナギみたいに泳いでいくようでな。その人な、御徒町で何代も続く宝石商の娘でな、宝石商は明治以降らしいねんけど、江戸まで遡っても小間物の職人の家系やったらしいねんて。お父さんが社長で、専務やったお母さんはもう亡くならはって、妹さんは嫁ぎはって、息子がおらんさかい、その人が今は副社長として跡継ぎ決定や。ボクが『凄いなあ』って呟くやろ。すると落着き払って『いえいえ、副社長って言っても肩書だけですよ。私があの店で実際にやっている仕事なんかは一人だけの経理部員みたいなものです。お恥ずかしい話、この業界も不景気で、ウチみたいな問屋は何でも身内で片付けないと続かないんですよ。』って、そらもう嫌味の無い言い方で謙遜しはるんやけど、実は大した人やねんで。堅実に儲けたはるんや。物心が付いたときから宝石と勉強が好きやったんやて。お父さんは猫可愛がりや。通りの名前にもルビーやらエメラルドやら付いているような街で育ったんや。小っさい頃から目利きの特訓や。せやけど、好きな道に進めって言わはって、店の後継者としての人生はたったの一度も強制されたこと無いんやて。で、国立大学の経営学部に入ってんけど、それだけや飽き足らんくて、学生のうちからジュエリーデザイナーの勉強も始めたんやて。ボクの適当なサラリーマン生活に比べたら、真剣さがちゃう。何やもう、息が詰まるほどやないけど会話に緊張感があんねんな。やけど、それが不思議と心地好くなってくるんやわ。『御徒町も読まれしまへんけど、帷子ノ辻って読めます?ウチの近所なんですう』なんて切り返す余裕も無いまま、あっちゅう間に1時間や。
 この後、ちょいとだけ上野公園を散歩してなあ、西郷さんを見るのも初めてやんか。彼女が何かを説明したはるんやけど、ボクの心境は高校の部活の大事な試合、興奮と疲労の真っ只中にいる選手たちとおんなじや。『ツン、ツン』って言葉しか耳が拾われへんかって、いや、ホンマなんやて。何か言わな思うて『ツンツンなんてとんでもない。こないに親切にしてくださって、ありがとうございます。』てえ応えたら、上品にハンカチを口元に抑えながら笑わはったわ。埴輪さんとおんなじパターンや。『ツン』ゆうのは、西郷さんの横に居てはる薩摩犬の名前なんやて。大恥かいとるはずやのに、男ってアホやな。自分のひと言で目の前の女が笑顔になったっちゅうだけで舞い上がる。けど、ツンやと言われているだけで実際には別の犬がモデルらしいわ。せやから『ツンツンなんてとんでもない』って応えは、或る意味正解やってん。で、別れ際に思い出したように言わはるんや。『扱っている品物が品物だけに、取引業者さんやお客さんの中にも海千山千が多いんです。こんな商いに没頭しているうちに結婚から遠ざかっちゃった感じで。貴方が誠実な雰囲気を持ってらっしゃるんで、安心しました。』やて。海千山千相手に切った張ったの仕事してますなんて言わはるけどな、ガサツなところが一つもない。格好から所作から何もかも小奇麗な彼女にボクは一目惚れしてしもうた。もうな、帰りの新幹線も名古屋辺りまで記憶が朧。」・・・調子が乗ってきた先輩と一緒に4杯目のウーロンハイを注文し、竹輪の磯辺揚げを追加する。「キミ、青海苔、ホンマ好きやねえ。」「ええ、今夜はノリノリっすよォ。」・・・甚だ失礼な話だが、この先輩の失恋話は常に面白くて明るいのだ。めげない根性。これが先輩の真骨頂だ。きっと部活の死ぬような練習で培ったのだろう。今夜の私はハナから先輩にとことん付き合うつもりだった。無論2軒目はスナック、3軒目はチャンコラーメンで締める。さて、どんな失恋ソングで盛り上がろうかと悪趣味な計画を立てていると、先輩が嬉しそうに上京物語の続きを始める。
 
 「相談所からはすぐに返事があった。OKや。二度目のお見合いはホンマに銀座やった。もうな、女ひとり好きになっただけで、東京ってえ街の全てが宝石みたく輝いて見えるから不思議なもんや。銀座なんて、遊び方、知らんやんか。もう彼女に任せるだけや。男がリードせんでもええデートってえ、ホンマ楽やな。でもな、東京の遊び方って簡単やってん。ブラブラ歩くだけで楽しいんや、いやいや、ホンマやて。ああ、キミ、東京人やったな。ほれ、ビルだけでも凄いな。ネジ1本ですらデザイナーズやないかって思うほど最新式の設備とインテリアに埋め尽くされた建物ばかりや。そのハコん中に何がある言うたら、知らへん横文字のショップばかりや。こないな息の詰まる店で満腹になるんやろかゆうようなカフェで若奥様がランチしとんねん。利き猪口くらいの小っさいラテが1杯600円もするカフェやで。他にも、何が楽しゅうて並んでまでメシ食うたはるのんやろっちゅう店ばっかり。新京極に行ったら高校生でも買えるんちゃうか思うよなシャツがな、何万円もするようなブティックも発見したで。一体、誰が、何のために、こないなもん買うて帰るんやろって、疑問だらけや。疑問を持たへんかった店はファーストフードとコンビニだけや。あれだけは京都とおんなじや。いや、ホンマのとこ、ファーストフードに近いような店でソフトクリーム買うたやんか。日本全国からモノが集結してるさかい、信州フェアみたいな期間限定で小布施の和栗ソフトゆうのが旨そうやったんや。2本は多いから二人で1本食べよかてえ、たったの1本買うただけのセコイ客やで。それやのに『ありがとうございます。またのご来店をお待ちしております。』って、指を揃えた両手を丹田に重ねて深々とお辞儀すんやんか。あの社員教育の徹底ぶりには驚いたわ。関西であないなお辞儀すんの百貨店だけやで。でな、店出るやろ。よ~く見渡してみると、長野県だけちゃう。彼方此方で○○フェアだらけや。旅行に行かんくても銀座に行けば全てが済むんや、少なくとも食べ物は。大した風情もない、中には東京の人だけやのうて田舎者も喜ぶように観光地化された複合ビルも多いねんけどな、でも凄いねん。あっこまで洗練されとると圧倒されんねん。聞けば銀座も東京のごく一部言うやないか。当ったり前のことやけど、想像してみい。山手線の29駅のうち3分の1くらいは梅田に匹敵する規模で、残りも駅前はみんな四条河原町みたいなもんなんやな。山手線の輪っかの中にも六本木やら赤坂やらあるんやで。もちろん永田町や大手町もな。輪っかの外にもな、浅草だけやのうて、錦糸町やら赤羽やら北千住やら、言うたら難波みたいにディープな街が点在しとるんや。いかに大都会か!
 ああ、キミ、東京人やったな。キミ、東京の人に見えへんから、敢えて言うけどな、ボク、東京、嫌いやってん。今でも根っこでは肌に合わへん思うとるよ。インテリ気取りのビジネス狂いが、何ちゃらコンサルタントと称して、分かり切った常識をわざわざ英語交じりで体系的な学問っぽく解説しては、カネ巻き上げてるような世界やろ。小生意気でステイタスに拘る小金持ちが無駄遣いと情報太りに明け暮れて、スーツやのうて全身クールビスみたいな得体の知れへん格好の中性的なオトコが汗ひとつかかへん仕事で自己満足に耽っとる。そんな世界やろ。ボク、そういうけったいな空間、大嫌いやねん。」
 ・・・私は遠慮なく爆笑してしまった。頗る愉快であった。故郷である東京を離れてみて、私も東京という空間をこんなふうに解釈していた節が思い当たったからである。しかし、子供の頃から東京を見てきた出身者として、しかも渋谷のようなチャラチャラした街で育った者として、些か否定するなら、ビジネス狂いやら小金持ちやら中性的なオトコやら、そういう輩に限って「東京人」ではなく「上京人」だということを東京人は見抜いている。実は質素で地味で「裏勝りこそ着物の極意」っていう感覚が自然と骨の髄まで浸透してしまっている東京人には「偽物」が分かるのだ。
 しかし、大都会というのは本当で、もともと生き馬の目を抜くような街だ。1年も訪れないと風景が別人の顔になってしまうけれど、そんな街を10年ぶりに歩いても方向感覚を失わず複雑な地下鉄を乗り継いで目的地に辿り着けるのは、東京を故郷とする者の強みだ。逆に「野山のような環境」ではいとも容易く遭難し自分を見失ってしまうような軟弱さが東京人の弱みだ。先輩の仰っていたことは、中らずと雖も遠からずなのである。600円のラテや何万円のシャツに目新しさも物珍しさも感じない東京人もいる。私なんかその最たる人種だろう。流行の中心地で四六時中呼吸しながら生活しているのだから、自分自身が流行に鈍感でも平気であり、世の中の変化に動揺もせず興味も抱かないのが東京人。目的が分からない街づくりに慣れているし、もともと目的の介在しない街であることを心得ているのだ。
 
 「せやねん。目的なんか初めから無いんや。ウィンドウショッピングしてるだけでええねんって気付いてん。でな、銀座から帰ってくるやんか。銀座線で1本、たったの10分、便利やで。アレ、上野広小路駅から御徒町まで全部地下道で繋がっとるんやな。ああ、そうそう地下鉄四条駅と阪急の烏丸駅が地下で繋がっているようなイメージや。せっかく東京に来たんやし、もう1日楽しもう思うて、秋葉原の安いビジネスホテルは抑えといたんや。したらな、彼女から『夕飯はウチで食べてって』って、天使のようでもあり、悪魔のようでもある囁きがあったのよ。だってそやろ。嬉しいけど、お父さんが居てはるんやで。何処ぞの馬の骨とも分からへん男が2回目のデートで家に上がり込んで、すき焼き鍋いっしょに突つくてえ、地獄しか先に見えへんわ。ボクが玄関でモジモジしていたら、向こうから野太い声がしてなあ、『お帰りい。やあ、悪いねえ、勝手口で。店の営業中は一応正面のほうはお客様用の応接にしているんですよ。今夜はすき焼きね、すき焼き好きでしょ』って、声だけが聞こえるんや。もうな、こっちはな、二等兵みたいな起立姿勢を崩さずに『はっ、はい!』の一言や。あの娘さんのオトンや、そら貫禄あるでえ。声だけで威圧感あんねんから、部活の上級生なんてもんやないで、あの怖さは。それにな、ボクが玄関やと『勝手に』思い込んでたんは、まさに勝手口やったんや。勝手口ゆうたかて、相撲部屋かヤクザの事務所かっていう造りやで、知らんけど。でっかい信楽焼の狸が置いてあるんや。まるでその狸が『すき焼きはどうかね』って喋ってはるみたいでな。狸に向かってお辞儀したの、生まれて初めてや。
 結局、お父さんの顔は見いひんまま、彼女と再び外に出たんや。土日は忙しいんやて。いやな、食材の調達に出たんや。もちろんアメ横は賑おうてんけどな、観光客で溢れかえってる目抜き通りとは外れた場所にな、地元で暮らしたはる人が買い物をする小っさいスーパーも構えとんのや。東京やもん。さぞかし高級な売り場に度肝抜かれるやろなて想像しとったら、逆の意味で度肝抜かれたんや。安いねん。銀座の逆や。何もかもウソみたいに安いねん。肉は買うてあるゆうさかい、椎茸やら長葱やら菊菜やらな、あっ、東京では菊菜のこと『春菊』言わはんねん。ああ、キミは知っとるな。野菜だけちゃうで。焼き豆腐や糸蒟蒻は元々安い食材やけど、あっ、東京では糸蒟蒻のこと『白滝』言わはんねん。もうええな。この日はすき焼きの食材の補充みたいな買い物だけやったけど、他にも調味料やら菓子やら、とにかく安いねん。それとな、驚いたのは品揃えの豊富さや。総菜の種類、えげつないで。独身者が多い地域でもなさそうやけど、弁当もごっつい数や。どれ1つとしてヘンな物ちゃうで。見たら分かるやん。しっかりしたええもんがな、信じられへん値段で飛ぶように売れてんのやわ。ああ、キミは十分に東京のスーパーの凄まじさを知っとるわな。23区だけで1,000万人に迫るような市場で競争に勝ち残っていくちゅうのは、こういうことなんやな。実際にちょっとだけでも生活の匂いのする場所に足を運んでな、買い物を体験してみるとやな、政府やなんやの経済統計やら、消費者物価地域差指数やら、そういうデータも数字のマジックみたいのがあって、鵜吞みにはできひんなって気付いたんや。東京ってな、ライバルのおらん地方のスーパーの殿様商売とは比べもんにならん程、実は物価安いて。家賃だけが異常なまでに高いゆうだけで、普段の生活費はウチの近所なんかよりよっぽど安上がりに済む。
 ところでな、彼女が怒ってはる姿も愛おしかったなあ。『ごめんなさいね。前っからああなの。初対面の人にも馴れ馴れしい父でしょ。それに、すき焼きって何よ。この前お会いした時、鰻屋にお誘いして、関西とは蒲焼の調理方法が違うって父に叱られた話をしたばかりでしょ。すき焼きだってそうじゃない。』やて。ボクは上の空やった。いつの間にか彼女がボクに敬語を使わなくなっていたことに感激してたんや。こんな些細なことに小躍りする程ときめいたのは、それこそ高校以来かもしれへん。あっ、お父さんとはその後すき焼き食うたで。上機嫌で居はったけど、何を話したかさっぱり覚えてへん。そら、すき焼きは旨いなんてもんやなかったで。あない上等な肉は久しぶりや。割下を使おうが何しようが、だいたい蕩けるような霜降りを野菜や豆腐と一緒に煮込んだら、東西関係なく旨いに決まっとるやん。ボク、東京の食べ物も好きやで。にしてもなあ、人間ゆうのは因果な生き物やな。緊張してても腹は減るし肉は旨い。
 まあ、いろいろ喋り倒してもうたけどな。言いたいのは、この歳になって、東京の持つ色々な顔をきっちり見せてもろうて、ああ、モノを知らんゆうのは怖いなて思うたことや。ほれ、子供の頃には嫌いやった粕汁やら鹿尾菜の煮物やらが、オトナになってから急に食べられるようになったどころか、好物に変わるやろ。例えが悪いかもしれへんけど、あれなんかと同じ感覚や。つまりはな、食わず嫌いやったんや。そら、彼女の影響は多分にあるけどな、東京てえ街、すっかり気に入ってもうたんやわ。千年の都もええけどな、お江戸はええでえ。」・・・先輩の言う通りだ。都に東も西もない。住めば都が大正解。東の京都で「東京都」。両方の楽しみ方を知る人間でありたいものだ。「で、先輩、今はどうなんですか?」
 
 すき焼きの日の帰り際にお父さんが『またお越しください。今度は柳川食べに行こう。ドジョウね。』言うて、莞爾とされておられたんで、その瞬間ホッとしたなあ。せやけど、もっと嬉しかったのは、彼女がそれを遮って『父さん、何言ってるの。勝手なんだから。今度は私が京都へお邪魔する順番なの!』って言うてくれはったことやねん。長い1日やった。秋葉原のビジネスホテルに戻ったら、もうそのままベッドに突っ伏してもうたわ。翌日はもう何してても楽しゅう感じてな、NHKのニュース視とってん、アレ、始めに全国のニュースやるやろ、その後な、時間帯によってちゃうけど残り5分くらいで『続いて関西のニュースです』てえ、別なアナウンサーに画面が切り替わるやん。アレ、東京ではどうなんやろって注目しながら視てたんや。そう、切り替わらへんのや。とうに40も過ぎて、ボクはそれくらい世間知らずやったんや。なっ、同じアナウンサーが渋谷のスタジオでそのまま関東のニュースを読み続けるやんな。ただそれだけで刺激的なんや。感受性豊かな高校生に戻った気分やで。
 霜月から師走へ、何もかもフンワリしてな、銀座とすき焼きの想い出だけで酒が飲めるような日々やった。正月休みに入ったら、ホンマに彼女が遊びに来てくれはった。当たり前やないか。ホームでお出迎えや。京都駅13番線に16両編成の「のぞみ」がスルスルとウナギみたいに入ってくる。プシューてえドアが開くやろ。まさかなあ思うたけど、着物やってん。絹の袷は深~い藍に水仙文様、遠くからでは色無地と見間違うほど水仙がさりげなかったのは、きっと彼女の美貌に遠慮しとったんやろな。雪中花の水仙は正月着物の代表格やけど、逆境からの勝利みたいな意味やて聞いたことあるわ。まるで二人のためにあるような着物やんか。花言葉の通り自惚れたってバチ当たらへんて。
 着慣れてはっても歩きづらいやろ。どうかなあ思うてんけど、彼女が『産寧坂を上ろう』言わはるんや。石段の道の先は、上野に銅像が建つ40年くらい前かなあ、西郷さんも何度も訪れていた清水寺や。ああ、キミはこっちのことも京都人以上に知っとるな。尊敬する月照上人が成就院の住職やったさかいな。人でいっぱいやったけど、それでも真冬の清水、寒いやんか。せやし、彼女の手ェ握ってな。『清水の舞台から飛び降りるつもりで、ボクの気持ちを伝えます。結婚してください』って、さらっと言うてしもうた。白い息吐きながらな、彼女が『婚約指輪はないの?冗談よ。結婚指輪はウチでお買い求めください。』って言うてな、強く手を握り返してくれはった。もう嬉しくてな、これは鹿児島に足向けて眠れへんてえ思うたわ。」・・・今夜の先輩の居酒屋トークは、いつもの失恋話ではなかったのだった。
 
 「難関はお父さんや。後日、御徒町へご挨拶に行ってな。待ち構えていたお父さんもこの日は粋な和服姿や。『私は生まれて此の方、京都しか知らへん世間知らずの男です。そんな阿呆が不忍池で鰻を頂いてから・・・ああ、あん時のお会計、お父さんのご馳走やったんですね。私はもう逆上せてしもうて、支払いも忘れるほどでした。ああ、お父さん呼ぶんは馴れ馴れしいですね。申し訳ありません。兎に角、西郷さんとツンを見上げたあの日から、東京見物のつもりやなんて生半可な気持ちは微塵もありませんでした。私は真剣です。真剣やから単刀直入に申し上げます。結婚を前提にお嬢様とお付き合いさせてくださいなんて、間怠っこしいこと、よう言いません。今すぐ結婚したいんです。・・・お嬢様と、それと結婚指輪を、私に下さい。』座布団を横に退けてな、もうこれで全力を尽くした。単純に阿呆になってな。」・・・1つひとつの言葉が粒立っていた。御徒町の一室が目に浮かぶようだ。
 「お父さんがな、ゆっくり話し始めたんやわ。『本当にいいのか?・・・いやあ、本当に決めたんだねえ。・・・ハハハ、ウチの指輪は高いよ。宝石のようなウチの箱入り娘はもっと高くつくよォ。ハハハ、冗談、冗談。厳しい宮仕えをご経験なさっているんなら、いろいろと人間関係の難しさもお分かりでしょう。会社組織の動かし方もご存知でしょう。ウチの副社長の甘いところを指導してやってください。まあ、もう副社長は解任だけどな。君の妻になって京都へ巣立っていくんだからね。娘は生まれて此の方、東京しか知らない世間知らずの女です。どうか娘をよろしくお願いします。』って、お父さんからな、今までの人生の中で最も有難いと言っても過言でない言葉を頂戴したんや。でな、お父さんもボクに向かってご丁寧に頭を下げる空気感だけがこっちに伝わってきたんや。そうや、空気感だけや。こっちは額を畳にこすりつけたままやから、お父さんがどんな表情で結婚のお許しを求めるボクの震える涙声を聞いていたのかも確認できひん。けどな、確かにボクを家族の一員として認めてくれはったんや。」・・・そう語る先輩の目に静かな涙が浮かんでいる。私のほうはと言うと、すでに清水寺の下りから音羽の滝のような涙を流しっぱなしだった。
 この騒がしい居酒屋で、二人の四十男が暫し互いに包み泣く。そして、その涙が収まるや否や、海千山千を挟んで向かい合う二人の間に山盛りのおでんが置かれた。それは店の大将からのサプライズサービスだった。「結婚かあ。良かったなあ。盗み聞きちゃうで。そないな大声で喋っとったら、耳ふさいだかて聞こえるがな。おめでとさん。この京風の御出汁、嫁はんにも味おうてもらいたいなあ。雄節と雌節で一対の鰹節がな、仲良う鍋ん中で溶け込んで、二人の人生に鹹い醤油も甘い味醂も加わって、味のある夫婦になってくんや。もちろん子孫繁栄の『よろ昆布』も入っとるで。」・・・おでんは京都が旨い。関西では関東煮も好まれて、両方のおでんの店があるけれど、東京人の私はあっさりした京風おでんに出会った途端、この透き通った出汁の風味にすっかり魅了されてしまった。新婚夫婦のようにアツアツのおでんをフウフウしながら堪能し、ウーロンハイを熱燗に切り替えた頃、先輩が急に正座になり、それでも満を持してといった様子で切り出した。何とサプライズは大将のおでんだけでは終わらなかったのだ。
 
 「と言うわけで、ボク、今期で会社辞めます。経理の仕事やったら得意分野やもん。東京でお父さんの大切な宝石商の金庫番やらせてもうて、副社長にはジュエリーデザインの仕事に専念してもらいます。長い間、ホンマ、キミには世話になった。せやから、まずキミに伝えたかったんや。」・・・えっ、冗談でしょ?宮仕えは続けながら、たまに東京でお手伝いする程度ではないの?会社にはしつこく東京への転勤を希望し続けつつ、サラリーマンとしての立場を何だかんだ言って延命するつもりではなかったの?
 「勘が鈍いなあ、キミってえ男は。それでもキミ、東京人かあ?さっき言うたばっかりやん。東京ってな、実は物価安いて。家賃だけが異常なまでに高いゆうだけで、普段の生活費はそこらへんの地方都市よりよっぽど安上がりに済む。ほんなら答えは簡単やんか。社長と副社長の住む家に同居したら、それで仕舞いや。ボクな、本気やで。宝石の勉強始めたんや。したらなあ、もう会社の仕事にちいとも身が入らへん。御徒町で生き生きと働いている自分しか思い浮かばへんのや。
 もうボクも40代やで。日頃の仕事は一生懸命やらせてもらうけど、特別に熱中できる目標感があるわけでも無いし、このまま会社にしがみついたかて、逆にチームメイトに申し訳ないやんか。勤続年数こそ美徳だなんてゆうのは大ウソや。今、ボクが会社を辞めたら、周囲に迷惑が掛かるなんて躊躇するのは思い上がりやし、そもそも人間なんて生きてるだけで誰かに迷惑かけとんねん。その迷惑を自覚しながら頭を下げて生きてきゃええやんか。そないに思うたら、もうボクの悩みなんてゴミみたく思えてきてな、ここらで第二の人生に踏み出そうって決心したんやわ。宝石みたいなキラキラの人生が待っとるで、花の都大東京にな!」・・・先輩の誕生石は9月のサファイヤ。宝石言葉は「成功・誠実・慈愛」。まさに彼にふさわしい。
 
 「彼女はボクのこと『誠実な雰囲気』なんてお世辞言うてくれはったけどな、ボクは誠実なんかとちゃうで。部活でもな、レギュラーに選ばれへんかったライバルの友人から「試合に出られないオレたちの分まで頑張れ」て言われたりするとな、虫唾が走んねん。仲間を讃える美しさは頭ん中では理解してんねんけど、なんや白々しいて思わへん?スポーツだけやない。入学したかった学校、入社したかった会社、入籍したかった女性、自分が選ばれへんかった時の悔しさがあるんやったら、自分よりも強かった相手に『おめでとう』とは言うけどな、『頑張れ』とはよう言わん。負けた自分は弱かったから負けたんやって認めるだけでええやんか。ましてや自分が勝ったほうの立場やったらな、敗者に対して『君の分まで頑張る』なんて臭っさい科白、よう言わんわ。これってごく自然な人情やと思わへん?ボク、そないに負けん気の強いほうちゃうけど、この価値観ばっかりは昔っから曲げられへん悪い癖なんや。2年生の時にな、試合中、3年生の選手が怪我したら気の毒やとは思うけどな、すぐさま補欠のボクにもチャンスが巡ってきたてえ、気持ちを切り替えてまう。他人の不幸を喜ぶとまでは言わへんけど、ボクは誠実なんかとちゃうで。でもな、自分の幸せを第一に考えへんほうが不誠実な生き方とちゃうかなあ。婚活のときもずっとそうやった。
 結婚相談所に行こうと決めたのもな、小中と一緒やったツレがな、これがもう当時は肥満児の典型みたいな奴で、保健の先生から栄養指導まで受けとってん。此奴がな、長いこと会うてへんうちにな、すっかり変身してもうて、芸能界ではかなり端くれやねんけど、渋い役柄でたまにテレビにも出とることを知ったんや。イケメン俳優だけやのうて、それこそ新作スーツのCMモデルなんかもやってるって聞いた時は、もうホンマに小便ちびりそうになったで。そういや、女の子でもな、中学ではちいとも目立たへんかった子が、成人式で再会してみたら、どえらい別嬪さんになってたことにも驚いたけど、肥満児が痩せてシュっとした役者に転じたあの姿は、成人式の百倍も仰天したで。人はなあ、変われるんや。彼奴は成功したんや。弱い自分にも周りの目にも勝ったんや。それに比べてボクは結婚もできひんまま、フラフラと負けっぱなし。このままやいかん思うて、大勝負に出た先がこの相談所やったいうわけや。ほんで、慈愛に満ちた彼女とお父さんに出会うたんや。ボクも成功したんや。弱い自分にも周りの目にも勝ったんや。
 そら、人生の価値ゆうのは勝ち負けが全てやないて分かっとるけど、勝負の無い人生ゆうのも価値ないで。」
 ・・・改めて分かった。やはり、この先輩は根性が私とは桁違いだったのだ。根性無しの私にはこの結婚相談所にご厄介になる資格など無いことを痛感した。
 
 結局、2軒目も祇園のスナックの門戸を開いてしまった。私は初めてこのスナックで失恋ソングではない歌を選曲し、愛し合う二人に贈る歌を熱唱した。レーズンバターを口へ放り込みながら先輩が云う。「キミ、失恋ソング以外も上手いやんか。さっきの歌い方なんか、まるで『趣味はカラオケです』って、のど自慢大会に出る人みたいやったぞ。あっ、1つアドバイスしておくわ。『ご趣味は何ですか?』て訊かれた時に即答できる準備はしておいたほうがええぞ。ちいとでも間が空いてまうとな、『ああ、この人、無趣味なんやあ。つまらん男』てえ第一印象が相手に一気に染み渡って、もうリカバリー不能な試合展開になるで。」・・・ん?趣味?私の趣味って一体何だろうか・・・つづく

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