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【化学】【数学】風吹けば 桶屋儲かる 会社員(その2)

 「盲信できる将来」というものを疾うに失ってしまえば、己の成長が無い分、「つまらなさ」だけが鬱積していくのは必定だということだ。
 人生の目標みたいなものは9割達成した。父は早世だったので些か残念だったが、母を天国に送るまではそれなりに孝行できた。孝行といっても、注いでくれた絶大なる愛情の泉のごく一掬に報いたに過ぎぬが、父の借金を返済し、マンションを購入し、そのローンも完済し、一緒に旅行を満喫し、生前に戒名を授かり、墓の不安も払拭し、働きながら晩年を自宅で介護した。私にとって、これらの“志”を遂げる作業は「自分との約束」であり、これだけは化学や数学に匹敵する「100%の正答」でなければならなかった。
 80歳まで生きられるとしても、もう残り32年の人生だ。うち、定年の60までが干支ひと回りも残っている。労働力不足のせいで、条件を満たせば70まで働ける法律が整備されてしまったが、これといって会社で成し遂げたい事も無ければ、出世願望も無い。いくら数学の苦手な私の試算であっても、もう殊更の贅沢さえしなければ老後に困らないと寿命から逆算できる程度のカネなら有る。おまけに、何も好き好んで結婚を諦念するに至ったわけでは無いが、誰かのために生きるという魅力的な権利を失った代わりに、自分の事だけに頓着すれば済む人生だ。これが残り32年であるぞ。長いようで短い32年――生計の見込が立っているのであれば、さっさとサラリーマンなんて辞めてしまいたいではないか。
 
 社内で一番広い会議室に、私の所属する事業部門の全員が「招集」された。否、「召集」と表しても何ら違和感を覚えぬ程、前方では本部長以下管理職全員が軍隊の如く整列している。「年度初めにあたり、只今より、事業部門の統括で在らせられる副社長の所信表明を受ける。全員起立!」と、化学の女王様にも引けを取らない号令と共に、「まあ、そんなに硬くならんで。皆の衆、座りたまえ」と小刻みに手刀を切りつつ入場したのは、奸智と権力の虜であり、演説の中毒者としても名高い「山田君」だ。副社長の名は山田ではないが、各部の人事権を掌握し「社長の座布団と、部下の左遷を運ぶ」と揶揄され、いつの間にか、私が毎週欠かさず視聴しているあの長寿テレビ番組に因んで、「皆の衆」がそう呼び始めたのだ。言わずもがなだが、本物の山田さんが運ぶのは「座布団と幸せ」である。室内には一挙に退屈な空気が蔓延していたが、私はというと、体育館で校長先生がどんな話をされるのか、座布団1枚分くらいの幸せをもって胸を躍らせていた。
 「皆さんのモットーは何ですか?私のモットーは2つあります。1つは『元気で明るく大きな声で』であります。老いとは年齢に由らず、底抜けに前向きな気構えがあれば人はいつまでも若い。もう1つは『狭き門より入れ』。皆さん、パラリンピックを観ましたか?人生の入口からハンディキャップを背負いながらも、それを人生が上手くいかない言い訳に使わない。私自身も他人より3年遅れての入社でしたが、この逆境は敢えて自ら作ったものであります。」・・・「私の大切にしている目標は――」でも無い。「私の心掛けている行動は――」でも無い。「モットー」というコトバを大勢の前で躊躇い無く発せる人を、政治家以外には久々に目の当たりにした。相手に“布教”したくなるほど強く不屈の信条を固めた者にしか、斯くなるコトバはそうそう口に出せない。入社するまでの3年間は何をしていたのか不明だ。政治家や宗教家の見習いみたいな事をやっていたという噂もあれば、大学院まで進んで経営学を専攻していたという噂もあれば、単に留年を繰り返していただけという噂もある。
 「え~、次にですな、『人の道』について伝えます。自分の人生を豊かにする自己実現が重要であります。国の為、国民の為では無く、自分の為に勝つというオリンピック選手の精神です。企業組織の価値観との共存は大事ではあるが、強さの原点は『自分の為』です。その上で『相手の為』を意識する。セールスの原点は信頼です。その上で『会社の為』を意識する。業績向上の原点は誠です。百術は一誠に如かず。企業が不祥事を起こすのは『誠』が足りない経営だからです。甘えの構造を作ってはならん。『春風を以て人に接し、秋霜を以て自ら慎む』これは儒学者の佐藤一斎の名言ですが、私はねえ、時には秋霜を以て人に接することも必要なんだと思います。」・・・さすが「自分の為」に会社組織を利用することに成功してきた姦雄だ。説の是非はさておき、聴衆の反応など意に介さぬ迫力というものがある。それにしても「原点」が好きな人だ。幾つもの原点が錯綜している。
 「万物はみな相互に作用して生かされているという華厳の哲学を忘れてはならん。諸君も『万物』の1つですから、大宇宙の中核に通ずるような『情熱』と共に何かを続けたまえ。情熱があれば、火事場の馬鹿力でゴルフも300ヤードは飛ぶようになる。私には息子がいるんだがね、それなりに生意気に親に反発した時期もあったんだが、無事に就職が決まった日、私の書斎に手紙が置かれていたのです。内容は今まで育ててくれた事への感謝だったのですが、とりわけ『継続は力なり』という姿勢を親父から学んだという一節は私を奮わせましたな。私は朝のラジオ体操とストレッチを30年間続けている。土曜日の英会話を10年間続けている。老いることの無いその背中を長男は見ていた。これが『情熱』というものです。
 3つ目に『現状認識』について伝えます。高度成長期もバブルも経験した私ですが、今は断崖絶壁。今まで売れていたモノが売れなくなった。今まで主軸としていた事業で儲からなくなってきた。毎年毎年が、如何にして減収減益を食い止めるかという闘いです。尤も財務体質は極めて健全で安定的な会社ですから、火の車に及ぶ心配はありませんが、万が一の火事の兆候あらば逸早く察知してほしい。水中の蛙は徐々に弱火で熱すれば、風呂に浸かっているかのような認識のまま死んでしまう。その火に気付いた時には手遅れということです。蛙だってね、一気に熱湯へ浸ければ、ピョンと飛び出すわけだが、会社の経営の傾き方というのはそんなに急激で分かりやすいものではない。まだまだ小火であるうちに、先程の『火事場の馬鹿力』を発揮してほしいのであります。それとねえ、皆さん、世間が不況でお先真っ暗のように考えがちですが、陽はまた昇るのです。今は『午前4時』なんだと思って、発想と戦略を転換してください。2時間後は日の出です。闇の中に居る今から、太陽のエネルギーをいっぱい浴びる準備が出来ていないと、生存競争に勝ち残れませんよ。」・・・午前4時の2時間後、即ち午前6時が日の出の時刻ということは、年度初めの4月1日の感覚に合致している。が、これが2ヶ月後の6月1日にもなれば、4時半で十分に空が白む。日の出に気付いた時には手遅れということだ。水中の蛙とは“山田副社長”ご自身のことではないか?現在が「業績の好転する夜明け前」の状態であることを効果的に語りたいのであれば、四季に左右されない表現として「寅の刻下がり」という言葉を用いると良い。科学とは縁遠いものと思しき「古文」の知識のほうが、寧ろ科学的なモノの言い方に功を奏す場合がある。高校の古文の授業で、芥川龍之介の『羅生門』における『申の刻下がり』を科学的に解説してくださった“業平先生”に、卒業後30年の時を隔てて御礼申し上げれば、旧懐の情が込み上げる。
 「皆さん、科学的なモノの考え方を大切にしてください。古めかしい過去の歴史を否定する創造的破壊、パラダイムシフトです。強い種が生存競争に勝てるのではない。変化に敏感に対応する種が残るのです。常に馬上行動で、消費者ありきですぞ。現場主義、顧客主義を貫いてほしい。日本は地震大国ですから、建物の耐震補強の技術に優れています。千年以上も昔の五重塔が倒壊しないのは『心柱』があるからで、あの東京スカイツリーの構造にも応用されていると言います。これぞ、日本の科学技術力であります。企業戦士たるもの科学的な根拠に基づいた戦略を立てよ。高校時代に化学や数学が零点なんていう人間ではダメです。」・・・どうやら科学に疎い私は生存競争には勝てない種のようだ。「業平橋駅」改め「とうきょうスカイツリー駅」の最寄りにお住まいの“業平先生”が、不本意ながら不甲斐なくサラリーマンから卒業できない私の現況を観れば、どんなに切ない和歌を詠まれることだろうか。
 「4つ目に『勝者の条件』について伝えます。9月11日は何の日だかご存知ですか?そう、同時多発テロ事件ですな。毎年アメリカでは愛国者を讃える日として、式典が開催され、ハイジャックされた機内でテロリストの暴挙を阻止しようと試みた乗客らに哀悼の誠を捧げます。実に美談ではないか、諸君!会社が危機の時には、自らの身を投げても会社を守ってほしい。そのようなアソシエイツが支え合う組織であれば、オンリーワンとなり、戦わずして勝つことも可能です。それとねえ、皆さん、『弾性変形』と『塑性変形』って分かりますか?これも科学です。前者は加えた力を取り除くと元に戻る変形、後者は元に戻りません。ですから、『改善』では無く『革新』を目指してください。トヨタ生産方式は『改善』です。動きを止めてしまえば、改善前に戻ってしまう。しかし、トヨタにはトヨタの社内に『打倒トヨタ』という現状不満足の精神が宿っています。だから変形し続けられる。あと一歩、あと一回、あと一時間のやる気と負けん気の精神。能力の差が5倍だとしたら、意識の差は100倍です。
 私はもう年寄りですが、赤々と燃え滾る松明を、余裕をもって次の世代へバトンタッチしたいと思っています。そのために、枕を高くして眠る安泰な日は一日もありません。諸君も、上司の悪口より、如何にして良い会社にしていくかという将来の議論をしたまえ。肴を肴にして酒を呑むようでは、勝者には成れない。神をも動かすほど一生懸命に働く者に神は微笑むのです。」
 
 私は勤務の一環として偶にこの種の御高話を拝聴する好機が持てることを率直に喜ばしく感じていた。“山田副社長”は決して評判の芳しい人では無かったけれど、人生でなかなか遭遇できないタイプの人物だ。私とて自己愛は浅くないと自覚するが、堂々たる自信と旺盛なる意欲もここまで並み外れた水準に達すると、もはや瞻仰に値する。
 けど、話のテーマ自体はやっぱり「つまらない」。理由は化学式よりも遥かに簡単。経済を成長させ、文明を発展させ、世の中を便利にしていこうといった類の志向に、如何なる努力をもっても私の思考が寄り添わないからだ。則ち資本主義社会で多くの民間企業が当たり前のように目指している世界観に、私のベクトルを合わせようにも合わせられないのだ。第一「顧客主義」って、どんな主義なのか?顧客を大切にすべきなのは当然分かっているが、どの会社のどんな経営者も「お客様目線で」と豪語する。これは「上から目線」なのか「斜に見る」なのか「横目を使う」なのか?本当に屁理屈などでは無く、さっぱり私には分からないのだ。経営者は抽象的なことを豪語していれば良く、それを具体的に解釈するのは従業員に丸投げということか?例えば「○○県に住む○○歳くらいで○人暮らしの主婦を想定して、その人の気持ちに接近しなさい」ということか?待て待て、そんなことをしたら、多様性を尊重しようという風潮に反し、顧客に対する打算や先入観を助長するだけではないか。或いは、もし仮に「自分が客の立場だとしたら、こんな価格帯でこんな品物が欲しいのに」という目線で物事を考えなさいという意味であれば、私の答えは決している。「自社商品は勿論、他社や他業界も含めて、巷に出回っている商品やサービスに現時点で特段の不満はありません。これ以上、何も求めないし、何も要りません。」そう、私という人間は「昨日より今日、今日より明日」という価値観に馴染めず、「昨日と同じ今日、今日と同じ明日」を望む者であり、平和な平凡に安堵する凡人なのだ。飽くなき挑戦や変革を望む者には――競争社会なのだから論を俟たないのは百も承知なのだけど――好戦的で危険なニオイがする。私は自らの精神的な「心柱」において、この狭い見識を捨てられない。まさに大学の教授が「キミはサラリーマンに向いていないからねえ」と先見された通りだ。私がサラリーマンたる所以とは、どんなに突き詰めても、より良いモノを市場に提供していこうという「目的」では無く、困窮しないだけの生活費を稼ぐための「手段」にある。否、圧倒的多数の凡人にとって、サラリーマンとは斯くある者では無いのか?それとも、私のほうが狂っているのかな。
 そんな事を自問自答しているうちに、慌しい期初の一日が過ぎてしまえば、私と同じく狂っているアソシエイツが近づいて来る。「部の歓迎会兼決起会とやらは来週やし、今宵は有志だけで、肴を肴に酒を呑みに行こうぜ」と誘われるまま、赤提灯へ。肴は「トマトスライス」「ハムエッグ」そして案の定「山田君の悪口」となった。
 「面の皮の千枚張りとは、奴のことやな。『私生活の幸せが企業の幸せに相通じるのであります。従業員満足度は顧客満足度に相通じるのであります。』てェ、厚顔無恥も甚だしいわ。やっぱ、息子から手紙を貰うほど偉い人には成られしまへんわ。」「だいたい、家で仕事の話なんかするか?普通、嫌われるよな。会社の話題なんて私生活にマッチしねえのが常識中の常識だろ。ただでさえ、家ん中じゃ『パパの話はつまんない』が口癖だよ。女房どころかガキまでが。」「せやな。かと言うて、気晴らしにキャバクラ行っても、まさか『日本企業の科学技術力』を自慢げに喋るオトコなんか、おらんやろ。お相手さんは、新規オープンのネイルサロンとかスイーツの店とか、そんな人生に夢中なんやから、全く会話は噛み合わへんで。爪も磨かんと、デザートも食わんと、毎日黙々と労働ばっかりしとるさかい、サラリーマンは結局『つまらない人間』やて言われてまう。」「それ、残念ながら正解なんだよな。だって、俺自身がこの仕事を心から面白いとは思ってねえもん。」「せやったら、今からネイルサロン事業でも計画してみるか!」「なんか、虚しいな。」
 
 ・・・サラリーの語源は「塩」らしい。一説によると古代ローマでは貴重な塩が兵隊の給料だったからだと謂うけれど、その真相は兎も角、現代日本の企業戦士もしょっぱい仕事に縛られた賃金奴隷であることには違いなかろう。遠慮なく核心を衝くならば、サラリーマンの八割方は「学生時代までの期間にやりたい仕事を見つけられなった人種」であり、「他にやることも無いから仕方なく就職活動に突入した人種」であり、「せめて少しは関心の抱ける業界を中心に片っ端から面接を受けた結果、拾われた会社に泣く泣く勤めている人種」若しくは「やりがいよりも収入を優先すると割り切って、少しでも条件の良い会社を選んだ人種」である。まあ、「泣く泣く」は言い過ぎにせよ、日本企業の八割方はこのような人種の集合体であり、或る意味「変化に敏感に対応する種」として生存しているのだ。故に「無駄口くらいは饒舌でなけりゃ、やってられねえぜ」と無駄口を叩くアソシエイツ同士が、互いに互いを倒壊させない「心柱」となって日常を乗り切っている以上、我が国において居酒屋と上司の悪口は半永久的に不滅なのである。
 だが、このシステムは「他に方法が見つからない」と言わしめるほど合理的でもある。能動的に「自分のやりたい仕事」が無いわけだから、とりあえず受動的に「他人のやりたい仕事」をしていれば済む。つまり上司から命じられる通りに行動していれば、それで毎月25日には給料が手に入る。主任は課長の言うことを聞いていれば済み、課長は次長や副部長の言うことを聞いていれば済む。こうして、概ね二割方の役員部長級が、概ね八割方の兵隊へ指示することにより、何だかんだと円滑な事業運営が成り立つ。様々な任務を拝命しているうちに「やりたい仕事」が見つかった奴が「二割方の側」への昇格を狙えばいい。
 ところが、二割方の側に「一人ひとりが主体的に自分の頭で具体的な企業価値向上策を考えよう」といったスローガンを掲げたがる人が居るから厄介なのだ。まず、そのスローガンが主体的でも具体的でも無いし、そもそも二割方としての役割を放棄している。八割方の側に対して「君のやりたい仕事は何か」と問うのは、「やりたい仕事」の無い兵隊達を混乱に陥らせる“禁じ手”なのであって、二割方が何の為に八割方よりも高い収入を約束されているのかを理解していない。本来「自発」とは他人から「強制」されるものでは無いのに「指示待ちはダメだ」と詰め寄ってくる雰囲気――是、とんだ勘違いである。その逆だ。「指示待ち」だからこそ組織の業務は上手く進捗するのだ。上司の指示が的確であることが前提となるが、的確で無いと疑った時にはちゃんと部下からも指摘するし、パーフェクトな内容で無くても指示を出し続けるのが上司に与えられた仕事である。「指示すべき人」が「私からの指示を待つな」と命じてしまうのは職務怠慢以外の何物でも無い。そうであるにも拘らず、さも当人は「正しいことを言っている」かのような表情だ。もうこれだけで、つまらない仕事が余計につまらなくなる。
 
 高校生だろうと、中年サラリーマンだろうと、基本的に「“仕事中”は殆どつまらない人生」かつ「1日の殆どが“仕事中”」なのである。但し、「何かをするためにカネを稼ぐ」といった「目標感」があると「つまらなさ」は相当に緩和されるということ。多少苦手な料理でも塩を振れば美味しく頂けるということ。「高校生の勉強」と「会社員の労働」――どちらの「仕事」にしたって、僅か数ミリの“志”でも持ち合わせていれば、それが退屈に効く薬になるという理屈だ。
 目下4回目の年男を迎えようとしている私には最早その薬すら無い。高校の時分には有った“志”じみたものが皆無。そりゃそうだ。親も兄弟も妻子も居ない私独りの現在は、疾うに「桶屋が儲かった」後の状態――この先に進んでも何ら物語性を期待できないのだから。次の風が吹いたとて、私の脳内は「砂埃が舞うぞ!」といった元気な連想とは縁遠くなってしまった後の状態だ。これ以上、一体何が私の退職願の提出を抑制し得るというのか。「青春訓」どころか、中年にして精神的には老後以下。その点、等しく「つまらない仕事」であろうと、人生の充足感においては「試験管との格闘」のほうに軍配が上がるというわけだ。
 
 むろん分かっちゃいるのだ。貪欲に使命感を持って地球を飛び回るサラリーマンがいる。資源に乏しい我が国のエネルギーを各地から調達し、科学技術力で世界の主導権を握ろうと力を尽くしている方々によって、私の豊かさも我儘も保障されている。私がサラリーマンのつまらなさについて、いけしゃあしゃあと愚痴ることが出来るのも、国際競争に勝ち、我が国を他国よりも相対的に裕福にしようと汗を流している最先端のサラリーマンの上に胡坐をかいているようなものだ。能動的で有能な“生産者”無くして、受動的で無能な“消費者”では居られない。だが、私は最先端に立つ人生に、性格的にも能力的にも向いていないことが歴然としているため、他の位置から私達の日々の維持に貢献するしか無い。そうなると、私と同類項に位置する凡人サラリーマンにも、その位置に相応しい頑張り方があることを、文明的・自然科学的にというよりも文化的・人文科学的な見地から伝え、私と同じように「何となく就職活動をして、何となく会社員になるしか、事実上の道が開かれていなかった圧倒的多数の人種」が、もし現代社会に疲れているならば、これを癒し、せめて鼓舞したいと思っている。それだけのことだ。
 
 ・・・ん?「目下4回目の年男」と呟いてはみたが、「年男」って生まれた年の0歳時を1回目にカウントするのか?さすれば、桑年、即ち48歳の私はすでに5回目か?いやいや、世間では5回目を還暦と呼ぶ人ばかりなり――年男の回数で暇を潰すくらいにしか数学的なモノの考え方を役立てられぬ我が身がいっそう嘆かわしい。
 しかも、47にもなって、未だテメエの人生で精一杯。他人の事を思いやる真心までは忘れちゃいねえが、社内のプロジェクトにも無関心だというのに、まして地球上で起きている99.9%の事なんざ、オイラにとっちゃ無関係の他人事でい・・・つづく

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