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【現代文】素直じゃない プライド高い それ誤解

 高校時代の鬼教師による読書感想文の宿題。その6作目の粗筋は、私の記述によると次のようなものだった。
 「神田の或る秤屋の店に奉公している仙吉は、番頭達が鮨屋の噂をしているのを聞いては、自分もいつかそんな通らしい口をききながら、その暖簾を勢いよく分けて入って行くような身分になりたいものだと思っていた。京橋まで使いに出された時、仙吉は勇気を出して屋台の鮨屋に寄ってみることにした。しかし、一つ六銭の鮨を口に運ぶことはできなかった。彼は知らなかったが、ちょうどその時、貴族院議員Aもその場にいて、小僧を気の毒に思っていた。ところが、体重秤を求めに偶然仙吉の店まで来たAは小僧と再会する。そこで、秤を選んだ彼は、わざと仙吉を指名し、供をさせ、鮨を腹いっぱいご馳走してやったのである。後になって、仙吉は偶然の出来事を不思議に思い、あの客は神様だったのかもしれないと固く信じ、苦しい時には必ず彼を想ったのであった。」・・・「読みはじめ」は「92年9月7日」、「読みおわり」は「92年9月12日」、「延べ時間」は「1時間」――6作目になって、再び1作目のような短編小説に戻っている。また、6作目になって急に「平成4年」が西暦に改められている。鬼教師の検印の年月日は「4.9.19」となっているので平成のままだ。5作目の『高村光太郎詩集』の所定用紙と見比べてみると、プリントに予め印字されていた「平成」の文字が6作目の所定用紙から消えていたので、特に考えも無く「92」と記入したものと推量される。所定用紙から「平成」が消えた理由も知りたかったが、これについてはいくら5作目と見比べたとて解明できっこないため、気持ち悪いが諦めることとした。作品は志賀直哉の『小僧の神様』。あの某有名持ち帰り寿司チェーン店の社名の由来であることは言うまでもない。感想文に「小学生の頃はあの店の干瓢巻きが大好物で、半ば透き通った黒柿色に染まる独特な食感の具材が神秘的に思われたものだった。後になって、あの具材の元がユウガオの果肉を乾燥させたものだと知った時には小さな感動の漣が立ったことを思い出す。」なんていったことが書かれていたら面白いのだが、どうだろうか。なお、京都暮らしが長くなった現在の私なら「実は干瓢巻きが東京の郷土料理だと知った時には、漣が怒濤へと変貌するような心持だった。今の私はあの甘露な風味を忘れかけている。味覚が大人になったからではない。間違いなく細巻の看板役者に入るはずの彼が、どの店のメニューにも並んでいないのだ。歌川広重が『東海道五拾三次之内』に『名物干瓢』として描いた水口宿は、すぐお隣の滋賀県ではないか。好きな鮨を、金が無くて食べられなかった仙吉、金が有っても食べられない私――小僧の神様はこの私にもいつの日か舞い降りてくださるのだろうか。」といった文章を添えたくなる。
 鮨だけにそんな色々なネタに脱線するような感想文を期待していたが、粗筋に引き続いて書かれていた私のそれは、次の通り生真面目なものだった。
 「Aは屋台で小僧を気の毒に思いながらも、ご馳走してやるのをためらいました。私にも確かにその気持ちはわかります。公の前で良い事をする時というのは、なかなか勇気がいるものです。自然に人に親切にするのが当然とわかっていても、それができる人は少ないと思います。また、それ以前に、Aの親切心そのものに驚きました。貴族院議員なんていうのは、お高くて、一般人など相手にしないところがあると思っていたけど、この人は違いました。やはり、人を肩書で判断するのは良くないと思いました。
 さて、もし私が人から思いっきり鮨をご馳走になるとしたら、それはもう大喜びでしょうが、それと同時に、こんな贅沢をしていいのだろうかと、何だか悪いような気にもなると思います。作品の場合も、小僧は身分をわきまえるべきであり、鮨を鱈腹に食うなどということはあまり好ましくないという意見もあるかもしれません。けれど、私は楽観的なところがあるから、そんな厳しいことは言わずに、気前よく振る舞ったAも、それを素直に受け止めた仙吉も、これで良かったと思います。一人前の身分を夢見て、ひたむきに店に奉公する小僧の姿を見て、神様が本当に彼に幸せをお与えになったのかもしれません。また、私が偉いと思ったのは、その後の仙吉の行動です。人間は幸運なことがあると、何かとそれに溺れがちだけど、彼は決して鮨屋にご馳走になりに行くことに心を奪われず、むしろ苦しい時・悲しい時にはそれを思い出して頑張り抜いていったのだから立派だと思います。」・・・根が貧乏性なのか、否、実際に貧乏な家庭で育ったゆえ、他人様から何かをご馳走になることに伴う“代償”の蓋然性にも敏感だった様子が窺える。すでに高校1年生にして“オトナ”の片鱗が見える。その一方、「『鮨屋』で『小僧』といえば、あのネタを膨らませる絶好の機会ではないか」「鮨にまつわる自らの体験談を織り交ぜたら、少しばかり感想文に奥行きが出るのではなかろうか」といったチャレンジ精神については、その欠片も無かったと見える。
 
 それにしても、6回目の宿題で9月に突入している。5回目は8月という記録だったが、あの鬼教師が夏休みを『高村光太郎詩集』だけで許すはずがない。すると所定用紙に紛れて異質な色が挟まっていることを発見。それは二つ折りにした原稿用紙だった。右肩に留められたホチキスの針がやや錆付いているところに時の経過を噛み締める。こうなると引っ越しに向けた荷物の整理はますます捗らない。
 なぜ宿題の7回目だけが所定用紙ではないのか。ヘビーな課題に藻掻いた20年前が頭の片隅にだんだん甦ってくる。そうだ、1年生でも夏休みの読書感想文だけは全員が原稿用紙に清書して提出し、その中から見込みのありそうなものを鬼教師が選抜し、全国規模のコンクールに応募するという流れだったのだ。そして鬼に選ばれた時点で二学期の成績に10点が加点され、そのコンクールで何らかの入賞を果たしたら賞のランクに応じて更に20点以上が加算される仕組みだった。通常のテストでは中間と期末を合算しても常に5点差レベルでの鬩ぎ合いだったから、成績順位を決定づけるにあたってこの加点措置は大きかった。もう二度と戻りたくはない高校時代の猛勉強の記憶が突如として鮮明になってくる。
 というわけで、7回目の宿題には、所定の用紙だったら必ず書かねばならなかった「粗筋」が書かれていない。どんな内容の作品だったのかは感想文を読みながら思い出すことにしようなどと考えつつ、二つ折りの紙を開いてみると、いきなり小さな感動の漣が立った。鬼教師の赤ペンが「選抜+10点、優秀賞+30点、計40点加点」と踊っているではないか。私は自分自身の目を疑いながら、かつ胸の高鳴りを抑えながら、その触れただけで指先が痒くなるような古いペーパーを捲ってみる。
 「太郎物語に、憧れの五月さんの紹介で小柳静の身上相談を引き受けた主人公・太郎がきついことを言って静を怒らせてしまうという話がある。静は太郎と同年で、下宿をしながら働いているが、富豪である藤原家の長男・行夫と恋に落ちたのであった。
 太郎はこれがもとで五月さんとも遠退いてしまったような気がするが、私はこれでよかったと思う。特に身上相談などは、自分の思ったことを素直に述べるくらいしか答え方がないのではなかろうか。具体的な道を教えてあげることはなかなか難しいし、もしそうしたところで、道を選びその道を歩むのはもちろん当人である。また、自分で人生を選択できないようでは、人間として失格であると思う。私はまだ太郎と同じで人生経験に乏しい高校生であり、他人の人生に対して軽々しく偉そうなことを言うなと言われても仕方がないけれど、その人がどんな境遇であったとしても、立派に生きていくことは誰でもできると思う。
 だけど、私が太郎の立場であったら静に同情していただろう。そう思うと、私は偽善者である気がして腹が立つ。
 しかし、果たして世の中に本当の『善』があるのだろうか。これは一見、極端な言い方に聞こえるが、真理を追究することほど難解なことはないと思う。太郎のように、自分の考えをはっきり示すことが、いつも正しいとは思えない。人との対話の中で、自分の気持ちをストレートに言えない時だってある。もっと言えば、言ってはならない時がある。それによって人を傷つけることも、そして自分が悪人になることだってあり得るからである。だから、太郎もその翌日少し大人げなかったと反省したのだと思う。では、大人であったらどんな答えをするだろうか。静に同情しつつ意見するのだろうか。それが絶対に正しいとも言えないだろう。
 何が正しいのか、何が過ちなのか、判断が下せない自分は愚かだと思う。かといって、そんなことに怯み、生きることに嫌気がさすのも愚かだと思う。
 世の中がどんなに偽善で形作られているとしても、それで秩序がうまく保たれている限り、悔しい気もするけれど何も言えない。現に、いくら『偽善』と言っても、偽っているのは『善』であるわけだから、それは社会に『善きもの』の一つとして認められていることは確かで、善を行えば頭を撫でられるわけである。自分の主張も大切だけど、私が善いと思うことが周囲も善いと思っていることだとは限らないから、独り善がりにならないためには、どうしても偽善者になるよりほかないと思う。
 さて、太郎と五月さんが階級意識について話し合う場面もあった。私はこれに対して前から肯定的であり、偽善と同様、社会において否定することができないものだと思う。それどころか、太郎の言うように、これだけは人より優れているというものを持っていいと思う。ただ、藤原家は人より財産があること、人より家柄がいいことに満足し、何となく人を見下したところがあるから世間も嫌がるのである。私もそんな人間にはなりたくない。また、五月さんのように階級の上下で人間を判断するのも明らかに好ましくないと思う。階級なんて当てにならないものであるし、相手がどのような立場であっても正直に意見するほうがいいことは確かである。
 藤原家の三人兄弟は、親の方針どおり東大を出て大会社で働くことだけが人生ではないことを十分に分かっているだろうから、自分の好きな道を進むべきだと思う。
 私が太郎物語と出会って考えさせられたことは沢山ある。太郎は私なんかよりはるかに立派な考えの持ち主だけど、同じ高校生だから物語の中に入り込んで読むことができたように思う。また、何事にも自分の考えを持つべきであるということを改めて教えられた気がする。
 太郎が何か発言した後でしまったとよく思うように、私も考え方がまだまだ甘いと、それをどう甘いのか説明もできないのに後悔することがある。実際、私は何も分かってはいないのかもしれない。
 しかし、議題が難しいからといって黙ってしまうほうがもっと甘いと思う。何でも笑って済ませられる能力は大切だけど、考える時には考えなければ人間を磨くことができないだろう。太郎もそう思っているに違いない。」
 ・・・まず、6作目の感想文までは「です・ます調」の敬体だったのが「だ・である調」の常体に改められている。その上で、傍線部分(作者注:noteでは太字)には「もっと工夫した表現方法を考えなさい」というコメントが走っている。たぶん鬼教師は「甘いという表現を用いることが甘い」と指導したかったのだろう。その他、例えば「恋におちた」と書いていたのを「落ちた」と漢字にするよう求める指示や、「議題」を「義題」と書いてしまっていた誤りの指摘、てにをはや句読点の訂正等々、幾つもの箇所に細かい赤ペンの跡がある。ということは、この原稿用紙の文章をさらに別の原稿用紙に清書してコンクールに臨み、おそらく応募後の作品は返却されなかったため、手元にはこの紙しか残っていないという経緯だろう。なお、課題図書となった作品が曽野綾子の『太郎物語(高校編)』であることは言うまでもない。お世辞にも読書好きとは言えない私が稀に没頭した青春小説の名作である。
 自らが偽善者であることに腹を立てながらも、社会生活を送るにあたって独善的にならないためには偽善者になるよりほかないと結論付けたあたりに成長の熱を感じる。この世には絶対的な善など存在しないのだと飲み込み、高校1年生の段階で「真理を追究するタイプの哲学」から卒業しかけている気配が感じ取れる。一方で、35歳となった今の私には些か物足りないところもある。階級意識を持つこと自体には肯定的ながら財産や家柄に優越感を抱く態度には否定的、そこまでは理解できるのだが、この段落の結びで「相手がどのような立場であっても正直に意見するほうがいい」と述べている。このテーマに入る前の「善」に関する考察の中では「自分の気持ちをストレートに(中略)言ってはならない時がある」と述べているわけだから、この自己矛盾について当時高校生だった私の踏み込んだ分析が欲しかった。
 
 私は、現在のように出生数が低下する前どころか、第2次ベビーブームの直後の世代である。当時の高校生の人数はかなりのもので、単純に合格者数を同学年の人口で割り算するだけでも、あらゆる試験の競争率に今とは格段の差があった。ついでに蛇足してしまうが、いかに人数が多かろうと経済が成長していれば苛烈な競争にはならない。ところが、私達の世代というのは「泣きっ面に蜂」で、大学を卒業する頃になると、不況まっしぐらの中で企業の限られた採用枠を奪い合うこととなった。現在のように労働市場が人手不足に転じる前の話だ。むろん若き日に戦争の惨禍を経験してしまった世代に比べれば十分過ぎる幸せを享受しているけれど、戦後の平和を迎えて以降では「最も損な世代」と評しても誇張ではない。これぞ「ロストジェネレーション」というものであり、事実、私達の受験戦争と就職戦争は共に筆舌に尽くし難い災厄であった。
 そんな大勢を競争相手とした中での「優秀賞」である。平々凡々たる私にも名誉欲というものはある。こうなると、私が賞に輝いたのは一体どんなコンクールだったのか、気になるのは必定だ。そうだ、「賞状」が何処かに隠れているはずだ。20年前の読書感想文を再発見してしまったために、引っ越しの荷造りのスピードが著しく鈍化したが、賞状を探すという新たな目標が生まれた途端、作業の進捗度合いはV字回復する。タンスの奥まで雑多な品々を一気呵成に整理し、きっと卒業証書を丸めた筒なんかと同じ箱にあるはずだと目星を付けて隈なく捜索する。――まさしくビンゴだった。文科省(当時の文部省)が後援となっているようなお墨付きのコンクールだったのかどうかまでは不明だが、それ相応の全国コンクールだったことは紛れもなさそうだ。青少年の読書を推奨しようとしている出版社や新聞社の財団が主催だった様子で、理事長名が揮毫されていた。「優秀賞」が他に何名いたのかも不明だが、優秀賞の下に「佳作」やら「特別賞」といった類があったことだろうし、それなりの誇りを持っても悪くない賞だったことは、質感のある上等な紙が物語っていた。
 
 但し、何故だか当時の私はこの受賞を心からは喜んでいなかった。喜びが中途半端だったため、それがどんなコンクールだったのかもすっかり忘却してしまっていたのか。過去の栄光の輝き具合を確かめようと必死になっている現在の私のほうがよほど名誉欲に侵蝕されているのか。――蓋し、当時の私は自分の感想文の出来栄えに納得していなかったのだろう。どうやら私は、読書がさほど好きではなかった割に、読書感想文を執筆する行為だけは好むという、極めて怠惰な創作意欲を有する奇妙な高校生だったのではないかと振り返る。過去の私をそう解釈すれば、仮に他人の作品を読む意欲は適当だったとしても、自分の書き残す作品の完成度には極力妥協したくないという姿勢にとても頷ける。
 例えば、部活か何かのスポーツ大会でメダルを獲得したとしよう。嬉しいことは嬉しいのだけど、自分の試合運びが満足できるものではなかった場合、バンザイやガッツポーズをするほどの達成感はない。さらに言えば、試合中に判然たる凡ミスがあったような場合に至っては、もはや嬉しいのかどうかすら分からない心理状況で表彰台に上る。周囲からは「あの選手、素直じゃないな。プライド高いな。」と誤解されがちだけど、現在の私には何となくそんな選手の本音が汲み取れる気がする。平成の後半から令和にかけて、ネットが急発達したせいか、時代が「世間様への配慮」に神経を尖らせるようになった。たとえそれが行儀の悪い匿名での批判だとしても、とにかく批判だけは回避したいという時代になった。インタビューを受ける選手が「素直に嬉しい」などという薄気味悪い日本語をしばしば用いるようになったのはこのためだと私は勝手ながら捉えている。当初は「素直じゃない嬉しさって、どんな感情なんだろう?」って疑問を抱いていたけれど、「読書感想文コンクールで優秀賞を獲得した時のオマエに似た感情だよ。」という回答が返ってきたら、なるほど諒解できる。
 
 ――と、ここで思いも寄らなかった事が起こる。この箱には他にも数々の賞状が一緒に収められていたのである。
 「あなたの 作品は たいへん よく できて いました。これからも 作文や 詩を たくさん 書いて、たしかな目 かしこい耳 そして、ゆたかな心の 持ちぬしに なって ください。」と私を称える賞状の贈呈者は、区の小学校教育研究会の会長名になっている。当時の「小学校教育研究会」は子供達によほど「文節」を学んで欲しかったのだろうか、「あなたの作品はたいへんよくできていました」で良さそうなものを、一文字分の全角スペースのしつこさが不自然だ。私の文章に読点が多いという癖は義務教育に由来していたのか。まあ、それは兎も角として、これが「昭和59年度」――私が小学2年生時の「さくぶんコンクール」の「入選」の賞状である。――ん?これまた違和感がある。おかしい。私は「作文」というものが苦手だったはずだからだ。
 
 東京の私鉄というのは、大阪のそれよりも分かりやすく中心地の環状線から放射状に広がっている。大阪からは、京都へ京阪と阪急、神戸へ阪急と阪神、奈良へ近鉄、和歌山へ南海、敢えて加えれば宝塚へ阪急。これに比べると東京はまるで旭日旗を仰ぐが如しなのだ。横浜方向へ京急と東急、二子玉川方向へ東急、町田方向へ小田急、八王子方向へ京王、所沢方向へ西武が新宿と池袋から別ルートで2本、川越方向へ東武、春日部方向へ東武、筑波へつくばエクスプレス、千葉方向へ京成が成田空港線を含めて2本、敢えて加えれば東急は五反田からも目黒からも蒲田まで弓なりに迂回する珍妙な線路を持っていたりする。かつ、各々の路線も終点までが長く、例えば小田急は町田方向といっても箱根まで、西武は所沢方向といっても秩父まで、東武は春日部方向といっても日光まで延びている。これら主要な私鉄にJRや地下鉄その他細かいレールまで描くと蜘蛛の巣より複雑な美しさになる。
 この中で異彩を放っているのが、東急の「大井町線」と京王の「井の頭線」で、注意深く観察するとその特殊性に気付く。花火のように中心から四方八方に広がる軌道でもなく、JRの武蔵野線や東武の野田線のように山手線の外環を成す輪郭でもなく、落書きではないかと訝しむくらいの角度で斜めに走る姿が子供ながらに好きだった。大井町線が目蒲電鉄を起源とし、はじめから東急の系列として多摩川沿いに“同族”の各線を接続するスタイルだったのに対し、井の頭線には一度では覚えきれない程の込み入った歴史がある。調べると、戦前の「東京山手急行電鉄」というのがルーツで、この会社には大井町を起点に洲崎まで山手線の外環を敷設するという大構想があったらしいから、無関係とはいえ大井町線と井の頭線との偶然の“ご縁”も感じる。難しい年表はさておき、私が大学生の頃までは、京王「帝都」電鉄井の頭線だったから、かつて「帝都線」と呼ばれていた時代の面影がまだ在った。「帝都」なんて如何にも燦々たる名称ではないか。そういえば「東京メトロ」も民営化されるまでは「帝都高速度交通営団」であり、少年期の私はそのコトバの響きのカッコ良さに憧れていたものだった。
 話題が次々と脱線したが、鉄道ファンと名乗るには烏滸がましく、俗っぽい乗り物好きというだけの私でも、井の頭線のまさに「独自路線」ぶりには魅了されていたのだった。吉祥寺や下北沢が若者に人気の情報発信基地に成長したのも、永福町や久我山が高級住宅地に発展したのも、あくまでも全て「結果論」に過ぎない。まず「そもそも最初にどうして吉祥寺と渋谷との間を斜めに鉄道で結ぼうと試みたのか?」「急行に乗ってもJRの利用と比べて数分しか移動時間を短縮できないのに、意図をもって吉祥寺と渋谷を結んだ理由は何なのか?」「或いは高井戸辺りの沿線に重要なファクターでもあったのか?」といった疑問に対して回答を見出せないところが魅力。この13キロ弱しかない距離を走る先頭車両の“鼻”から上に覆面レスラーみたいな色が施され、面の色にバリエーションがあるのも魅力。終点の吉祥寺駅にも、起点の渋谷駅にも、行き止まりの「車止標識」が設置され、別路線との相互乗り入れを一切していないところも魅力。京都から伊勢志摩へ旅行に出かける際、大和八木駅付近に新ノ口連絡線があるおかげで直通特急に乗ることができる。このイメージ、つまり井の頭線もせめて同じ資本の京王線と明大前駅付近で連絡線が繋がっていれば、渋谷から乗り換え無しで府中競馬場にも京王閣競輪場にも行けて便利なのだ。が、頑なな印象を受けるほど誰とも握手せずに独立した交差を貫いている。余談だが、元々は井の頭も小田急も京王も、みんな戦時中は所謂「大東急」の傘下だったわけだし、東京大空襲による被災を契機に「代田連絡線」なるものが下北沢の西側に存在していたそうだ。――つくづく逸話に富んだ井の頭線――例えば世田谷線や荒川線のようにレトロ感や風情をも売りにした“半ば観光鉄道”の類ではなく、東京の“バリバリの通勤電車”の中で言えば、こんなにもユニークな路線が他にあるだろうか。
 この奇天烈な通勤電車の名前となっている「井の頭」が由緒正しいことに関しては説明不要だろう。神田上水の水源であり、江戸の歴代将軍の鷹狩の場であり、恩賜公園の地である。そして私の小学2年生時の遠足の行き先が「井の頭公園」であり、「遠足で感じたことを作文にしなさい」という宿題が出された経緯から、私の脳内に井の頭線に纏わるエピソードが一気に井の頭池の如く湧出したという次第である。
 童謡「春の小川」のモデルが渋谷川の支流だったという話は地元区民の常識だが、そんなド田舎だった渋谷が盛り場へ転じたきっかけの1つ“弘法湯”で知られる「神泉」、古くより馬の牧場で幕末からは軍事訓練や兵営の場所だった「駒場東大前」――これは駒場駅と東大前駅が合併した結果だ。「池ノ上」は南北に細長い大池があった上の高台という意味らしいが、確かに池ノ上から坂を南に下り切った先の地名は「池尻」である。そういえば「池尻大橋駅」も「玉電池尻」と「大橋」の両電停の合体だ。池ノ上の次が“世田谷七沢”の1つ「下北沢」で渋谷から1つ目の急行停車駅。――たったこの5駅だけの区間にも、なんて魅力的な物語が鏤められているのだろう。小2では勿論ここまでの郷土史料には精通していないものの、私の作文は公園に到着するまでの街の雰囲気を詳細に伝える内容で9割を占めていた。肝心な「井の頭公園駅」を降りた後の展開はというと、ただでさえ文章が稚拙にもかかわらず、「池がきれいでした。どうぶつがいました。」といった塩梅で急激にトーンダウンする。これを読んだ先生から「もう少し公園のかんそうを書きましょう」と指導されたことが懐かしい。
 
 私の小学生時分の作文能力とはこんなものだった。従って、区から評価されるほどの「さくぶん」を仕上げる力量が私にあったとは思えないのだが、賞状をよく見ると、その謎が解けた。「詩の部」と記されているではないか。嗚呼、あれだ。思い出した。貧しくて昼夜共働きだった両親の代わりに私を育ててくれた近所の小父ちゃん小母ちゃん。学童クラブが若干離れていたこともあり、放課後の私はこのご近所さんの家へ当たり前のように「ただいま!」と“帰宅”していた。「もう一つの両親」といっても過言ではない二人のちょっとした日頃の小言――「畳が擦れるから居間で“でんぐり返し”をするな」とか「床の間にランドセルを置くな」とかいった類の小言――を愉快にリズミカルに詩にしたのだった。そして「うるさい、でも、たぶん、ありがたい」と結んだ記憶が残っている。大人になった後、この結びから「たぶん、」の文字が消えたことは言うまでもない。
 この「さくぶんコンクール」の「入選」のタイトルは、翌年の3年生、さらに「昭和63年度」則ち「小学校6年生」でも獲得しているが、並べてみると賞状の本文が物の見事に同じだ。「たしかな目 かしこい耳 そして、ゆたかな心の 持ちぬしに…」・・・「賢い」は中学あたりで習う漢字だろうけど、国語力の向上を目的としたコンクールだったことだろうし、さすがに「確かな目」「豊かな心」「持ち主」くらいは漢字にしても良かったのではなかろうか。なお、3年と6年の受賞は「作文の部」なのだが、案の定、その内容の記憶は皆無である。これぞ作文の出来栄えに納得していなかった証だろう。
 ところで4年生と5年生の時には特に“偉業”は無かったのだろうかと、悲しいかな遥か遠い過去の自分の輝きに期待していると、別の賞状が発掘される。「昭和61年度読書感想文コンクールに、出されたあなたの作品はたいへんりっぱでした。これからも考え深い人になるために、よい本をたくさん読んでください。」とあり、4年でも区の小学校教育研究会の会長名で表彰されている。続いて5年生時はというと、それは「昭和62年度読書感想画コンクールにおいて頭書の成績を収めました。よい作品をつくりあげた努力を認めこれを賞します。これからもたくさん本を読んでますますよい子になってください。」という入選の賞状であり、何と読書の感想を絵に表現したようである。但し、子供の頃の私は決して本好きだったわけではない。卒業式の日に図書館で本を借りた記録カードが全員に返却されるのだが、絵本と紙芝居が数点あっただけで殆ど真っ白だったことをハッキリ憶えている。賞状では2年連続で「たくさん本を読め」と促されているが、無論その後大人になるまで私が読書家になることもなかった。
 
 これで確信を得た。「読書好きではなく、感想文好き」という奇妙な性分は、高校生どころか、洟垂れ小僧の昔から変わらなかったのだ。干瓢巻きの美味に目覚めた子供の頃からこんな調子であれば、小学生から中高生へと成長するに連れ、他人の作品を読む意欲は適当だったとしても、自分の書き残す作品の完成度には極力妥協したくないという姿勢が徐々に芽生えていかぬはずがない。但し、繰り返すが、それは「素直じゃない。プライドが高い。」のではなく、むしろその逆だ。素直なのである――自分に対して――。文章は下手でも稚拙でもいいのだ。自らの文章の中に、自らの思考回路が分かる図面を可能な限り正確に引くことができたのかどうか――そういった観点から測った自己満足的な「完成度」にストイックなのである。
 誰に命じられた訳でもない。ただ自分で自分に課したルール。破ったところで誰にも叱られないし誰からも罰せられないけれど、守り通している自分との約束。どんな人にも「自分だけのルール」が幾つかはあるのではなかろうか。私の場合、それが「自らの文章の中に、自らの思考回路が分かる図面を可能な限り正確に引くこと」「風呂上がりに柔軟体操をすること」「朝の出勤前に氏神様をお詣りすること」、ああ、それから「不倫だけはしないこと」だったのだ・・・つづく

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