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データは記憶、アルゴリズムは思考

今週末、ずっと積んだままになっていたホモ・デウスを読みました。

この本の中で、著者のユヴァル・ハリスは、「生物はアルゴリズムである」と主張しています。
アルゴリズムとは「ある問題を解く手順を、単純な計算や操作の組み合わせとして定義したもの」で、同じレシピに使えば、同じ料理ができるといったようなことです。
アルゴリズムという考え方は、コンピューターなどの非有機的なもので使われるのが一般的で、人間や動物などの有機的なものにはあまり使われません。
しかし、ハリスは次のように主張します。

・生き物はアルゴリズムである
・アルゴリズムの計算は計算機の材料には影響されない。
・したがって、有機的なアルゴリズムにできることで、非有機的なアルゴリズムにはけっして再現したり勝ったりできないことがあると考える理由はまったくない。

「ホモ・デウス-テクノロジーとサピエンスの未来」ユヴァル・ノア・ハラリ

確かに現時点では有機的なアルゴリズム(=生物)のほうが非有機的なアルゴリズム(=機械)よりできることは多いけども、いつかはそういったこともできるようになるでしょうと言うのです。

確かに、AIはすでにチェスや将棋では人間を凌駕し、まもなく車も人間以上に上手に自動運転ができるようになるでしょう。

それでは、生物の中のアルゴリズムで処理されるデータとは何なのでしょうか?
私はそれは「記憶」なのではないかと考えました。

それでは、体も有機的なものに置き換わっていくと考えると、アルゴリズムで制御されている生物は機械と同じなのでしょうか?

ハリスは、データ至上主義は「動物と機械を隔てる壁」を取り払うといいます。

さらにHarari氏の主張は、生命をアルゴリズムと捉えることが可能ならば、コンピューターの非有機的なアルゴリズムに置き換えることができると展開されます。実際、人工知能の発展により多くの仕事が無くなるなどといわれていますが、これはヒトのアルゴリズムの一部をコンピューターのアルゴリズムに置き換えていっていることに該当するでしょう。そして、ビッグデータの世界では実際に、ヒトの行動や思考をデータに置き換えて理解し、分析し、行動や思考を先回りして提案するということがなされています。

 Harari氏はこれを突き詰めていった先に、「人間至上主義」から「データ至上主義」へという世界観の変化がやってくるだろうと予言します。実際、コンピューターやセンサーが身の回りにふんだんにあふれることで、私たちの行動や思考はデータに置き換わり、AIなどによって分析されることにより、意思決定の主導権は人間の思考ではなく、データ側に委ねられつつあるようにも思います。情報量でも分析力でももはやコンピューターネットワークは個々の人間を凌駕しており、私のことを最もよく知っているのは私ではなく、コンピューターネットワークの中にある「データ」であるという事態が生じつつあります。この結果、「神」のような権威は、人間からデータに移りつつあるというわけです。

https://bio.nikkeibp.co.jp/atcl/mag/btomail/18/07/17/00403/

データが集積してビッグデータになり、アルゴリズムが強力になっていくにつれて、アルゴリズムはさらに重要な意味をもってきます。

グーグルやフェイスブックなどのアルゴリズムは、いっったん全知の巫女として信頼されれば、おそらく代理人へ、最終的には君主へと進化するだろう。

「ホモ・デウス-テクノロジーとサピエンスの未来」ユヴァル・ノア・ハラリ

自分だけのものと思っていた自分の記憶がデータとして集積されて、大きなアルゴリズムによって判断されてしまう世界においては、果たして自分の自由意志とはいったい何なのでしょうか?

いろいろと考えさせられます。

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