ジャニーズの問題から考えたこと

〇ジャニーズ問題から考える日本社会の問題点
 ジャニーズ事務所で恒常的に行われてきた性加害がようやく大きな問題となり、さまざまな意見が提出されている。その中には「事務所の行ったことと、個々のタレントの行ったことは異なる」という形で、ジャニーズ事務所の関係者を擁護する意見もあるようだ。
 しかし私は、ジャニーズ事務所の解散も視野に含めたような、厳しい対応が妥当だと考えている。もちろん、それぞれの俳優については個人ごとの評価とそれにふさわしい対応がなされる必要があるが、全体として「ジャニーズの関係者」には断固たる姿勢で臨むべきである。

 そうすると、「そんな偉そうな態度を取るお前は、何も悪いことをしたことはないのか」とか、「ジャニーズ事務所の関係者にも良い人、立派な人がいる」という反応が予想される。それについては、自分が実に愚かな間違いをくり返して、周りの人に多大なるご迷惑をおかけしたのにもかかわらず、許されて今があることを認めるのに躊躇をしない。私の個人的な欠点や失敗は本当に多い。また、ジャニーズ関係者の美点として、たとえばTOKIOのDASH村での活動について、震災後福島県で活動している私は、尊敬の念を抱いている。
 しかしそのような「直接の個人の水準でのかかわりを通じて感じる人情」と、「社会を成り立たせるために重んじなければならない原理原則は何か」は、分けて考えられなければならない。私だって、ジャニーズ関係者が出演している番組等を心から楽しんだことはある。知人にはジャニーズが大好きな人だっている。その人たちは、私が「ジャニーズなんて解散した方がよい」と主張していることを知ったら、私のことを嫌いになるかもしれない。そうであったとしても、日本人である私たちはやせ我慢をして、「ジャニーズ事務所で恒常的に行われてきた性加害は、大変な人権侵害であり、今後くり返されてはならない」というコンセンサスを国民全体として形成し、このような問題がくり返されないためにあらゆる対策を講じるべきである。

 それとも、日本人と日本社会は、功なり名を遂げて、社会の中で影響力を持っている人が、裏で結構悪いことをしても、みなでそれを見て見ぬふりをする社会を続けていくべきだろうか。諸外国から、「日本というのは近代的な民主主義国家と称しているが、実際は権力や経済力を持っている人が、裏で性的に不道徳なことを行っても平気で通用する国だ」と見なされて生きていくべきだろうか。

 日本社会で強まっている風潮でもう一つ感心できないのは、「強いものには優しく、弱いものには強い」傾向だろう。数か月前の状況を思い出すと、ジャニーズ事務所と近い時期に広末涼子の不倫の問題が話題となっていた。そして、広末涼子とその関係者に注目し、批判的な議論を語っていた人の方が圧倒的に多く、相対的にジャニーズ事務所のことを話題にする人は少なかった。「これは一種の権力への忖度だ」と私は思った。権力者にとって都合が悪い情報が出た時に、別にスケープゴートをつくってそれを攻撃することで目くらましして、結果、この場合の権力者であるジャニーズ事務所をかばう、そういう流れになっていたと思う。これを変えたのは、日本人の内在的な力ではなく、諸外国からの強い外圧だった。そうであってもやらないよりは、遅れてしまったとはいえ、きちんとした対応をした方がよい。

 こんなことを言えば嫌がられるのは分かっているのだが、それでも痩せ我慢をして言いたい。少なくない日本人の社会意識は、「だれがいじめる強い側で、だれがいじめられる弱い側かを見極めて、前者につながって、後者となるべく関わらないようにする」という残念な内容になっている。空気を読むことに秀でている代わりに、一貫性のある原理や原則を欠いている。これは、権力者にとってきわめて都合がよい状況である。そこに付け加えて、「批判的なことを言う人」への反感と嫌悪を植え付けることに成功すれば、盤石である。これを覆すためには、政治家も学者もマスコミもそうだが、国民全体がもっと、基本的人権のような普遍性のある原則を自分のものとした上で、社会に参加しているという意識を持つ必要がある。さもなければ、社会全体が前近代的な停滞に落ち込んでいくのは必然である。

〇日本的リベラルの問題点
 ここでもう一つ、別のややこしい問題のことを同時に指摘しておかなければ、不十分だろう。
 前述の日本人の大半の傾向を逆にした、「強いものに厳しく、弱いものに優しい」一群の人たちがいる。この人たちは立派である。歯に衣きせぬ批判を偉い人にも行うし、社会で虐げられた人たちへの目配せや支援もあつく実践している。実際に権力者に問題が大きく、それによって傷ついた人がいる場合に、その活動は本当に輝く。仮にこの人々のことを「日本的リベラルの実践者たち」と呼びたいと思う。
 この人たちの振る舞いがおかしくなってくるのは、社会的な影響力のある人が、比較的まともにしている場合である。例えば、ワクチン接種である。個別の事例において、確かに悲惨なワクチンの副作用に苦しむ例が皆無ではなかった。しかし、接種しなかった場合と比べて、接種した場合の利益が十分に上回っている場合に、権力や体制の側にいる人々のワクチンを接種すべしという決断は、無条件に批判されるようなものではない。賞賛されることがあってもよい。極端な「日本的リベラル」の人々が求めるようなゼロリスクを実現するために必要なコストに耐えられる社会は、日本を含めて、どこにもないだろう。本来定量的な評価を含めて個別に慎重に配慮すべき問題でも、自動的に「権力の側が悪い」として、理屈に合う合わないかに関係なく、一方的に厳しい批判と攻撃をしてしまう。
 日本的リベラルのもう一つの問題点は、確かに外の権威は厳しく批判するのだが、内輪の組織運営が、外からの検証が働きにくい分、権力におもねるという悪い意味で日本的になっていることが多いことである。今回、左寄りのメディアと呼ばれる報道機関で、ジャニーズへの批判的言及が遅く・ぬるくなりやすいのはそういった点の反映だろう。左寄りの発言で世間に人気のあった有名人の、身近な人へのパワハラ・セクハラ問題を耳にしたことも珍しくない。政治の世界では、日本共産党が、いつまでも党首が交代せず、反対意見を述べる党員を次々に除名している実態がある。確かにこの人たちには反権威という原則はある。しかし、自分たちの振る舞いやあり方が、一つの権威として機能していることへの自覚と反省を欠いている。
 それだから、日本的リベラルはダメなのだと断定するつもりはない。日本社会が良くなるためには良質な批判が不可欠である。そのためには、日本的リベラルの人々も、社会の中に巻き込まれていることを意識した上でその活動を展開し、「普通の人々」からの信用を得ることにもっと関心を向けるべきなのである。他者を裁いた言葉を、自分と自分の周囲にも当てはめていくような倫理的な一貫性があれば、社会からの信用度も向上し、より大きな影響力を発揮できるようになるだろう。

〇原発事故後の言説をどう考えるか
 日本社会と、それを批判する「日本的リベラル」の問題点をここまできた。
 この両者の関係が見えやすくなっているのが、原発事故後の、特に処理水をめぐる様々な立場の人々の発言である。私は、処理水の放出はやむを得ないものとして許容し、処理水の放出を強く批判する人々に対して反対する立場を取っている。そうする意図は、「日本的リベラル」の人々にも、現在のままではよくないことを認識してほしいからである。
 今回の処理水で予想されるよりも多くのリスクを、私たちは許容しつつ生きている。それなのにこの論点がここまで強調されるのは、「日本的リベラル」の人がそれを論点としたいと願っているからではないのだろうか。権力者は社会を運営している人々でもある。「とにかく社会を運営している人々を批判して、その行動を邪魔することが正義である」と考えている人々に、私たちはどう接すればよいだろうか。そこに加わって、一緒に権力者にダメージを与えて溜飲を下げればよいだろうか。しかしそのようなことばかり行っていれば、社会の円滑な運営は行われなくなってしまう。誰もが委縮して、無難な言動しか行えない窮屈な社会となるだろう。社会的な責任を担うことを回避する動きが強まってしまう。そのなかで、逃げられない状況で社会の運営を行っている人々は、そのような「反対ばかりする人」の影響力を削ぎ、実質的な関与をさせないようにしていくだろう。現状のようにやみくもに批判ばかりする「日本的リベラル」のあり方では、かえって「リベラル」の評判を低下させ、間接的に日本社会における「右傾化」という風潮を促進させてしまっている。「リベラル」の言動が、中国や韓国の政府の動きと連動して見えてしまう部分があったのも、残念だった。「リベラル」を軽蔑し嫌悪すべき理由がたくさん示されれば、守旧派の立場にとってこんなに楽なことはない。社会問題に関心がありリベラルな思想に共感する人々の立場を、「処理水は汚染水」などの主張を絶叫する人々が独占してよいのだろうか。
 福島の原発事故に関しては、いくつかの幸運と、関係者の必死の努力によって放射線による直接的な健康被害は軽微なものに留まっている。深刻なのは間接的な健康被害である。避難指示によって強引な移動が行われた高齢者や病人のダメージは大きかった。生活状況の激変による循環器・呼吸器疾患の発生や既存の慢性疾患の悪化、自殺を含めた精神的な問題の発生率の高さなど、論点となるべき問題は多数存在している。私は一度、反原発運動の関係者に、「何で、反原発運動の人々はそういうことを問題にしようとせず、直接的な放射線の健康被害にこだわるんでしょう?」と尋ねたことがある。相手は真摯な方で、私の発言の意図もよく理解した上で、次のように答えてくれた。「間接的な健康被害では、うけない(一般に人気がでる話題ではない)からだと思います」とのことだった。私は、回答してくださったことに感謝しつつも、脱力するような気持だった。「間違いを認めない」反原発運動の指導者たちの頑迷さに加えて、それを支持する人々のふわっとしたポピュリズムの影響力の大きさを実感したからだった。
 この10年余の期間を、「原発推進」と「反原発」の争いと見た時に、その戦い方は圧倒的に後者が稚拙だった。「処理水」の部分は、原発推進側がガチガチに隙がなく防御を固めている場所なので、そこばかり攻撃するのは戦術的にも悪手である。それでも強引に、「科学的な根拠で安全を主張するのは、人として間違っている」といった反論がくり返されている。しかし、そのような主張を強弁し続けることは、長期的に「リベラル」の立場の信用と影響力を低下させてしまう。震災関連死の問題など、他にも指摘すれば反原発の立場を利する重要な論点はいくつもあるが、それらへの関心は薄い。そもそも、知ろうとしない。
 結局、「反権威」の活動を、反原発運動の指導者たちの権威的な断定と、運動内の権威への依存という形で行っているのが問題なのだ。「権威や空気に従っているだけでは不十分」であるというその認識は正しい。そこから進んで、「反権威の空気」や関連した権威者への依存からも独立して、「自分で考え、自分で決断する。自分の人生の文脈を自ら定めて、それに沿って行動する」個人の意識が高まり、そのような個人が結びつくことによる社会が成り立つところまで進むことが、必要なのである。
 少し前に、日本的リベラルによる「処理水への批判」が多少下火になってきた段階で、政府与党の関係者が、「関東大震災における朝鮮人の虐殺はなかった」と発言した。ただ「(日本的)リベラルは良くない」という空気ができると、そういうレベルの低い守旧的な主張が行われるようになる。そうすると「日本的リベラルの活動も重要だった」と思う。このように国内の空気が揺れ動く中で、私たちは惑うことが多い。その中で、基本的人権のような原理原則を国民一人一人の中に内在化させ、社会的な出来事について可能な限り誠実に是々非々に判断することを積み重ねていくべきである。「権威的か反権威的か」という軸だけで判断するには、現在の社会は複雑すぎる。

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