安倍元首相が殺害されたことで、考えたこと

 安倍元首相が統一教会の関係者に銃殺されるという事件が起きた。まず、故人に対して心からの弔意を表したい。その上で、通算日数が3188日に及ぶ首相在任期間中の活動について、筆者が提唱する「日本的ナルシシズム」の観点から振り返らせていただく。「日本的ナルシシズム」は、周囲に巻き込まれ、自ら主体性を発揮しようとしないことを美化・理想化する病理的な精神性である。それには、権威や空気が強制する内容に抵抗する力が、極めて弱い。「日本的ナルシシズム」を克服することには、政治的・経済的なメリットもあるのだが、その一義的な価値は倫理的な面にある。つまりこの小文が行っているのは、心理的・倫理的な考察である。

 まず、安倍元首相の功罪の「功」の部分から考えたい。
 私は安倍元首相の貢献の最も大きな面は、憲法9条を改正して日本が再び軍備を行うことを目指した点にあると考えている。「自らの主体性を発揮できるようになる」ことを倫理的であると考えるのならば、安全保障のあり方を完全にアメリカに委ねているような現状が、望ましいものであるはずがない。沖縄に基地の負担が偏っている状況を、改める方策も見えてこない。しかし、日本の沖縄以外の地方でも、アメリカ軍基地は受け入れられないが、、自衛隊が改変された組織の基地ならば、受け入れても良いという場所が見つかるのではないだろうか。
私は、安倍元首相の政治的活動に触れるまで、そのことを直視することから目を逸らしていたと思う。「安倍元首相のような悪い人がそうしてしまったので、仕方がなかった」という形で状況が推移することを、どこかで期待していた。頑強な平和主義を唱える人から恨まれ蔑まされること、また強権的で権威的な人物とみなされることが恐ろしかった。強すぎる平和主義者たちが作る空気に、逆らえなくなっていた。しかし私は人間の攻撃性や羨望などの働きについても考察する人間である。世の中に起きることは美しく平和なことばかりではない。そのために「軍」という要素を欠いては国家や社会というものは成り立たないと考えているのが、本音である。
 「それならば、そもそも国家というものが必要ないはずだ」と唱える一群の人々のことを連想する。しかし私は、そういう人々のことをあまりポジティブに評価することができない。世の中で別の人が「汚れ仕事」を担ってくれている。それによって自分とその周囲の安全な生活が守られている。それなのに、その「汚れ仕事」を担ってくれている人のことを、軽蔑し攻撃することを、そういった人々は、いとも簡単に行うからだ。
 講談社現代ビジネスの編集者によれば、私がこちらのメディアに投稿したブログの中で最も閲覧数が多くて好評だったのは、「日本社会で増殖する「万能感に支配された人々」への大きな違和感」https://gendai.ismedia.jp/articles/-/57729で、100万回を超える閲覧があったそうだ。こちらで扱ったのが、「自らは安全地帯の中に引きこもりながら、何らかの行動をした他人のどうしようもない事情について徹底的に糾弾する」ような人々の思考・感情と、そこから生じる行動のあり方だった。安倍元首相の活動にはその在任期間を通じて、このような人々の問題点を明確にし、それへの対抗策を示してきたといえる面がある。私は、この点も積極的に評価したい。
 他に、安倍元首相の貢献としては、外交面で日本の存在感を示し、国際的な安全保障状況の安定に寄与した面が大きいと聞いているが、その詳細を論じるのに私は適切ではない。

 功罪の「罪」の面についてはどうだろうか。
 元首相が殺害されるに至った経緯が明らかになりつつあるなかで、改めて感じるのは、「統一教会と、それに象徴される精神性に深く巻き込まれていたこと」の罪とその悪影響の大きさである。日本から統一教会に献金された資金の額は極めて大きかったという。日本に対して明白に攻撃的な意図を持つ団体の活動に関与してしまったことを、肯定的に受け取る訳にはいかない。多額の献金によって家庭が破壊されたことが、事件の犯人の凶行が生じる遠因となったと伝えられている。
 金銭面での損失以上に深刻なのが、統一教会の奉じる精神性、集団や組織の統治法(ガバナンスのあり方)の影響力を強めてしまったことだ。統一教会と縁の深い勝共連合は、「共産主義の脅威から社会を守る」ことを目的・スローガンとして1968年に設立された団体だという。ここから私が思い出したのは、1937年の日本で、天皇機関説が排撃された後に成立した『国体の本義』である。こちらの成立過程でも、「共産主義の脅威に対抗する」という目的が唱えられていた。これらの攻撃対象が、特定の政治団体に限定されているのならば、共産党にはひどい話なのだが、その被害は少なかったといえるだろう。しかし、理論的なものや学術活動・健全な批判精神等の人間の高次の精神活動に必須な要素の多くが、「政府・社会を棄損する目的のある特定の政治団体の活動」と結びつけられ、「非道徳的である」と攻撃されるようになったのが、歴史の展開だった。このガバナンスのあり方は強力で、やがて国民や信徒が自分の政府や宗教組織に疑問を持つ発言をしただけで、高位の者が直接手を下さなくとも、他の国民・信徒が「非道徳的だ」と自発的に懲罰を与えるようになる。レッテルが貼られた人に攻撃的に接することは許容されている。それどころかそうすることが功徳であると、集団内の皆が考えるようになる。それが進むと、そもそも集団のあり方に疑問を呈することを考えなくようになるという段階に、自発的な隷従が進んでしまう。そうなると、政府や宗教団体の権威ある地位を占める人々の幻想の妥当性が批判・検証されることは不可能となり、やがて大きな判断の間違いが事前に十分に検証されないまま実施され、失敗が明らかになっても正されなくなる。「天皇機関説」という形で、最高の権威である天皇も学問的・機能的な評価の対象であると考えていた昭和初期までの日本人の政治意識の方が、この面では健全だったと言えるのではないだろうか。
 このような組織や社会・国家における望ましくないガバナンスのあり方が強化されることに安倍元首相が加担してしまったのは、非常に遺憾である。日本的ナルシシズムを克服することが倫理的と考える立場からは、そのような政治活動のあり方には非常に問題が大きかったと判断せざるを得ない。したがって、安倍元首相の貢献を認めるものの、私は国葬に反対である。

 最後に補論として、現状では原発の再稼働については容認せざるを得ないと考えていること、憲法9条の改正には条件付き反対と考えていることを表明しておく。上記に述べたような「集団や組織の高位の人物が批判・検証されない」ガバナンスのあり方が改められない限りは、原発再稼働も憲法改正も、本来は認められるべきではない。前回の「原発事故に国の責任はないのか…最高裁判決に対する「大きな違和感」」https://gendai.ismedia.jp/articles/-/97005のブログで論じたように、2011年の事故の原因の大きな部分が、上述したようなガバナンスのあり方が規制当局と電気事業者の関係に影響を与えてしまったことにあったと私は考えている。そのことへの見直しや反省が不十分なまま原発を再稼働させれば、また事故が起きるのではないか、そして、今後発展が期待される再生可能エネルギーの発展を、原発関係者が妨害するような活動をするのではないか、そのような不安を感じている。しかし、原発については状況がひっ迫していることや、経済状況の悪化が社会にもたらす悪影響が大きいことを懸案し、容認せざるをえないだろう。
 憲法改正については、上述のようなガバナンスのあり方と、ある程度強い軍隊と、国際関係・経済活動の行き詰まりが絡まって、第二次世界大戦に踏み込んでしまった苦い歴史を忘れる訳にはいかない。したがって、憲法改正は必要であるが、そのための条件として「社会の上位にあるとされる人々への合理的な検証と、検証結果が反映されることによって権威・権力の制限が可能であること」を挙げたい。そのことには、現状では統一教会の影響力の排除も含まれる。何せ、日本国の元首相の命が奪われる遠因となった集団である。

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