死にたい人へ贈る私のハンデ

私は人生における大きなハンデを2つ抱えている。こればっかりは努力じゃどうしようもないものだ。

自分の人生を悲観的に見て「死にたいぱおん」とか言う奴は確かに私も腹が立つ。カンボジアにはヒアルロン酸を打ちたくても打てない人がいるのだ。

しかし私のこのハンデは仕方の無いものであり、「死にたいぱおん」とSNSに載せてもだれにも文句を言われないだろう。

こればっかりはカンボジアの子を引っ張り出してきても揺るがない。

1つ目は花粉症。多くの人は共感してくれると思うが、花粉症の人間は四季が一つ死ぬ。せっかく四季がある日本に生まれた意味さえも薄れる大きなハンデだ。

しかし今回伝えたいのは花粉症の辛さではない。花粉症の辛さは毎年ヒルナンデスとかが伝えてくれる。

伝えたいもうひとつのハンデは「うんこが10にならないと出ない」ことだ。

これは大人になってからハンデであることに気づいた。皆はうんこが10にならなくとも、6くらいから絞り出せるらしい。

しっかりと説明すると、私はうんこが漏れる直前にならないと出ない。なんというか、自分の便意に気づかないのだ。

だからそもそも6という概念がない。10になって初めてうんこが出そうだと気づく。

なので0か10だ。もっと感覚的に言うと、うんこかうんこじゃないかだ。「うんこでそう」という感情は私には無い。うんこの存在に気づいた時はもうギリギリで、「でそう」などという余分な3文字は省かれ「うんこ!!」となる。

大学1年生まで私は皆そうだと思っていた。しかしドライブに言った際、トイレ休憩でコンビニに寄り、出発した直後にうんこがしたくなったことで発覚した。

「え、なんでさっきしとかなかったの?」と言われるまで自分のハンデに気づいていなかったのだ。

他の人は6で絞り出せるということを初めて聞いた時、まず抱いた感情は「おしっこみたいだなぁ」だった。

この10にならないとうんこでないハンデは、振り返ると確かに私の人生を何度も苦しめていた。

まず、デパートなどのトイレに並ぶ人達。あれは意味がわからなかった。私は一度も大便器の行列に参加したことがない。

うんこしに行こうと思った時にはもう漏れる直前なのだ。あんなに悠長に並んでいる暇は私には無い。トイレが空いていなかったらダッシュでエスカレーターを駆け上がり別の階のトイレへ行く。

あそこで並んでいる人は、てっきりもう漏れているものだと思っていた。その後処理の列に見えた。それくらい私にとってトイレに並ぶことは理解し難いものだ。

そして、「トイレは休み時間に行っておきなさい」という理不尽。中学高校とよく言われてきた。授業中に手を挙げトイレに行くと、2/5くらいの先生はこれを言ってくる。

自分はずっと「おしっこじゃないんだよ」と思っていた。しかしうんこが漏れそうなためそんな長ゼリフを口にする余裕はなかった。

適当に「え、えへぇへ」と笑いながらトイレへダッシュをしていた。

あのルールはきっと、6で絞り出せる人が考えたのだろう。私はずっと「休み時間に行っとくって何?」と思っていた。

代謝のいい学生時代、1時間目と4時間目は大抵うんこがしたくなる。その先生にとって私のイメージは「毎回うんこしにいくやつ」だったと思う。

きっとそれがサボってると思われたに違いない。私は内申点が異常に低かった。

法政大学に通っている私の出身高校の偏差値は、45だった。大学よりも15ほど低い。

内申点の低さによりその高校しか選べなかったが、模試の偏差値は65くらいはあった記憶がある。都合のいい物かも知れないが。

だとすると私がもしうんこを6で絞り出せる人だったら、高校の偏差値は65だった。

そこから15上がるとして、現在の偏差値は80。私は東大に行っていた。

ちなみにハーバードも全然いけた。ただ、面倒くさいので東大を選ぶのだ。

うんこが6で絞り出せないばっかりに、ここまでのハンデを負っている。「カンボジアにはうんこしたくてもできない人もいるのよ」などとは言わせない。

身近にこんな大きなハンデを抱えている人がいると思って、これを読んだ方には「死にたいぱおん」とツイートする気持ちをグッと堪えてもらいたい。

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