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【心霊】ブラヴァツキー夫人 VS 英国心霊現象研究協会

こんにちはマスター、蓬莱です。

マスターは「スピリチュアル」という言葉はご存知ですか?これは1980年代から1990年代に世界中に起こった心霊の大きなブーム、「ニューエイジ」と呼ばれた、心霊や生まれ変わり、そして死後の世界などを結びつけて解釈する動きの中で広まっていきました。

スピリチュアルとはラテン語のスピーリトゥスに由来するキリスト教用語で、霊的なものを意味します。

これを広めた「ニューエイジ」は輪廻転生や死後の世界、因果律などを扱う文献を向こう百年ほど掘り返したり、インドに存在する覚者ともマハトマとも言われている人たちのインタビューや記録、そしてハリウッド女優のシャーリー・マクレーンの体験手記などの世界的なヒットとともに起こった幾つもの流派が混在したまま流行った心霊ブームです。

今回は、そのニューエイジの源流のひとつになった「神智学」を19世紀末に打ち立てた女傑、「ニューエイジのゴッドマザー」とも呼ばれる「マダム・ブラヴァツキー」こと「ブラヴァツキー夫人」と、もうひとつのニューエイジの主流派のひとつ英国心霊現象研究協会、略してSPRが対決した事件のお話です。

マダム・ブラヴァツキーこと「ブラヴァツキー夫人」

ブラヴァツキー夫人はゲーム「Fate/Grand Order」にて「エレナ・ブラヴァツキー」という名の少女の姿で登場しているので、名前を聞いたことがある人は割といるんじゃないでしょうか?そして、このブラヴァツキー夫人は発明王エジソンが心酔した人物でもありました。

ブラヴァツキー夫人の本名はヘレナ・ペトロブナ・ブラヴァツキー。彼女は1831年のウクライナにて、ドイツ系貴族であり騎兵砲撃隊長の軍人とロシア名門の小説家の母との間に生まれたお嬢様でしたが、母は若くして亡くなり、父は軍務に忙しく、彼女の祖父も知事としてロシア帝国の辺境を転々としていた為に彼女の幼い頃は旅の連続だったそうです。

ブラヴァツキー夫人と母親の肖像画

幼い頃からヘレナは精霊と会話する夢見がちな子でしたが、それとは別に激しい気性の持ち主であったとも言われています。

彼女が最初の奇跡を体験したのは14歳の頃、壁の高いところに掲げられた肖像画をよく見たくて、ふたつの小さなテーブルと、ひとつの椅子を組み合わせて足場を作り、そこに登った際に足場が崩れて気を失い、気づいたときは全てが元の位置に戻っていて、彼女は無傷。でも肖像画のすぐ横には彼女の手形がついていたそうです。

ヘレナは17歳になって20も歳の離れたニキフォル・ブラヴァツキー将軍と結婚しましたが、彼女はそれが嫌で、数か月でそこを出てしまい、この時代では離婚が困難であった為に、ヘレナはこのあとずっとブラヴァツキー夫人と呼ばれ、彼女もブラヴァツキーという姓を名乗り続けることになったのです。

この事件から24年間ヘレナの記録は無く、様々な憶測を呼びますが、彼女自身はその自伝において、世界を旅して様々な秘術を学び、エジプト、インド、ジャワ、日本にまで訪問して様々な導師に会ってその教えを受けたとしていますが、彼女の他の年譜と矛盾が見られ、当時の状況とも整合性がつかない箇所が見られるために、信憑性に欠けると言われています。

ブラヴァツキー夫人は1873年にパリからニューヨークに渡り、1874年に参加していた降霊会にて、アメリカの軍人ヘンリー・スティール・オルコット大佐と出会い、翌1875年には神智学協会を設立しました。

神智学とはテオソロフィーと呼ばれ、古代ギリシャ語で神を意味する「テオ」と、神の知恵、叡智を意味するソフィアを組み合わせた造語です。そして、神秘的な直感から、幻視、瞑想、思考による探求、啓示などを通じて神とつながり、神聖な知識の獲得や認識に達しようとする学問で、東洋の哲学と神秘学を西洋の哲学や教義と融合させる働きがありました。

ブラヴァツキー夫人とヘンリー・スティール・オルコット大佐

ブラヴァツキー夫人は神智学の啓蒙と拡散の為に立てた協会は世界中に広まっていきました。夫人はこれらの運動を宗教ではなく「神聖な知識」や「神聖な科学」として広めたそうです。

ブラヴァツキー夫人は学んだ秘術を使って様々な奇跡を起こしたと言われ、また、偉大な魂を意味するマハートマーと呼ばれる神秘的な覚醒をした導師たちの教えを請い、それを探求するという活動も行っていました。そして、このマハートマーのやり取りは主に手紙で行われ、そのやり取りした書簡も重要な記録となっていったのです。

マハートマーとのやり取りをした書簡

こういった活動にエジソンや、ドイツのルドルフ・シュタイナー、インドのクリシュナムルティも参加し、従来の宗教やオカルトとはちがう論理による体系化も起こり、ブラヴァツキー夫人たちは、新たな心霊的ジャンルを確立したのです。

この流れは、クトゥルフ神話の創始者とも言われるハワード・フィリップ・ラヴクラフトにも影響を与えたそうですよ。

ところが、1884年の9月にブラヴァツキー夫人と、マハートマーとの書簡や奇跡が虚偽であるという事が暴露されるという事件が起こり、それがきっかけで、心霊現象の研究とともに偽物の心霊トリックを暴く活動も行っていた英国心霊現象研究協会SPRがこの問題の調査を始めたのです。

英国心霊現象研究協会

英国心霊現象研究協会SPRについては、以前の記事「霊的親和性」と「死後の世界」にてお話しましたね。

調査に向かったのはSPRのリチャード・ホジソン。

彼はブラヴァツキー夫人に仕え、内部告発を行ったエマ・クローンの発言を支持し、神智学協会員の宣誓供述のなかの矛盾や不正確な表現などを調査し、そのレポートは200ページに及びました。

その中にはマハートマーからの書簡は筆跡などからブラヴァツキー側の捏造であるとし、様々な奇跡のトリックまで言及した上で、ホジソンは「ブラヴァツキー夫人は歴史上、もっとも完成度が高く、独創的で、興味深い詐欺師のひとり」と結論づけました。

英国心霊現象研究協会リチャード・ホジソン

この暴露事件とホジソンのレポートは協会に深刻な打撃を与えましたが、彼女は1886年の1月に「ホジソンが調査能力に欠如していることは外の者によって明らかにされるでしょう。私には疑いの余地はありません」と予言しました。

その百年後の1986年に同じSPRのメンバーのヴァーノン・ハリソンがこの200ページに渡るホジソン・レポートの再検証を行いました。

そして、この事件の告発を行ったエマは素行が悪く、ブラヴァツキー夫人によって解雇された背景があり、その腹いせの告発であった事を踏まえ、慎重にマハートマー書簡の筆跡を鑑定し、また、ホジソン・レポートも詳細に調査したのです。

彼の結論は、ホジソン・レポートはブラヴァツキー夫人の一連を欺瞞に満ちたものであるとする認知バイアスがかかっており、このホジソン・レポート自体に欠陥があり信頼に足らず、細心の注意を払って読む必要がある」と結論づけました。

ブラヴァツキー夫人の予言からちょうど百年経って、彼女の嫌疑は晴れ、SPRは当時の調査に行き過ぎがあったことを認めたのです。

なお、ブラヴァツキー夫人はこういった騒動から逃げるように本拠地のインドから、ヨーロッパにもどり、1887年にロンドンにて新たにロッジを開設し、機関紙「ルシファー」を創刊して啓蒙活動を続け、その後も支持者に囲まれて出版を重ね、1891年にロンドンにて亡くなりました。

スエーデンボルグも、ブラヴァツキー夫人もロンドンで安息を取り戻し、亡くなっているのですが、彼女を糾弾したSPRもロンドンにあるわけで、最後まで奇妙な縁が彼女の背後に働いていたような印象がありますね。

今回はウィキペディアの「ヘレナ・P・ブラヴァツキー」「神智学協会」「マハートマー書簡」「ホジソン・レポート」などの項目からお話しました。

蓬莱軒では、知的好奇心を刺激する話題を毎週動画でお届けしていますので、YouTubeチャンネルにもよかったら遊びに来てくださいねマスター。

それではまた、らいら〜い🖐

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