見出し画像

法螺貝談義(第29話)

身体感覚に慣れてない方は「腹に力を入れろ」と言うと、身体の連動を切り離して「腹」という【部分】に意識が集中してしまいがちです。

そうなりますと、他の身体部位との繋がりを断ち切ってしまいます。身体の連動が上手くいっていなく、身体がバラバラの状態かもしれません。

では、分離した身体を繋ぎ直すことをやってみます。

法螺貝を吹く時を想像してみますと、法螺貝は手で支えられています。

その手を見ますと手首に繋がっています、手首は肘に、肘は肩に、肩は胸に、そして腹、腰、膝、足、そして大地へと続いています。

もう一方では、法螺貝の吹き口と唇が接しています、唇は顎周辺に繋がり、顎周辺は首に、首は胴体にと繋がっています。

身体の各部位に名前をつけるから分離しているように思えてきて、感覚的にも部分だけでやろうとしてしまいます。

実際のところ身体には境目はありません。

仏教で言う「縁起」や「諸法無我」を実感できます。

これは身体に限った話ではなく、世の中のものは全てこのようになっています

世の中のありとあらゆる存在で独立しているものは何一つありません。

今皆さんの周りにはいろんなモノがあると思いますが、全ては何かに寄り添っていると思います。

例えばパソコン。
パソコンはテーブルに寄り添い、次にテーブルは床に寄り添うように、このように何かと繋がっているはずです。

人間なので説明するためには「言葉を使う」ことは避けられませんが、逆に分別作用(部分だけ見て分けてしまう)をもたらします。

となると、法螺貝を吹くと言うことは身体のいろんな部位との連動や環境も含めて、大地をも同時に使っていることになります。

これを踏まえてみますと「俺が吹いている」と言う表現すらも怪しくなってきます。

どこかに意識を持っていくと見事に分離し連動しなくなる。

腹に力を入れろと言われると腹だけが意識により独立して、繋がりが消えていく。

アタマでの意識から離れ、身体感覚で繋がりを観ていくといいかと思います。

現代人は「モノを持ち上げる」と言うと〈モノは腕で持ち上げるものだ〉と思ってしまいがちです。

それは腕という言葉により、部分で身体を眺めているからです。

だから腕を鍛え、腕でモノを持ち上げようとします。

昔の日本人はモノを持ち上げるときは腕や肩や胴体、腰や足の全体で持ち上げていました。

声を発するのも「喉」だけを使っているわけではありません。

喉周辺から、首、背中、お腹、腰を含めて連動しています。

吹き手はいかにそれを邪魔しないかが大事です。

YouTube「立螺」


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?