法螺貝談義(第55話)
法螺貝の音色は瞬間の一点物です。
「主人公」と言う言葉がありますが、これは仏教が由来の言葉です。
現在では、物語の主役とか中心人物といった意味合いで使われています。
本来は、外側の何かと比較した自分ではなく本来の自分ということ、主体的に本心に沿って生きると言う意味合いになります。
よく我々は「同じ」という言葉を使います。
概念で括れば、アタマの中では「同じ」はあります。
例えば、「人」とか「花」などのカテゴリーはアタマの中の概念です。
「人」というカテゴリーで括れば「同じ」になります。
しかし、概念を離れ「感覚」という面で世界を捉えると、現実の世界に「同じ」は一つもありません。
人は顔も身長も体重も性格も趣味も価値観もみな違います。
特定したその個人も常に変化しています。
大自然を眺めれば、木も葉っぱも石も同じものはどこにも見当たらない事実を目の当たりにします。
大量製品ですら、姿形は同じに見えますが、置いてる場所が違うのですから本当の意味では同じではありません。
言葉通りに世界は存在していません。
概念という括りで物事を見るから「同じ」と思えてくるだけの話です。
法螺貝も、吹く人や貝によって全て音が違います。
唇の動きや空気量など、身体の使い方もみんな違うから、同じ音にはなりません。
法螺貝に合わせて吹く柔軟性も時々によって違います。
人間の身体の動きの延長線上に法螺貝との共鳴で音が構成されていきます。
これは言わば、人間の身体が音を出す装置になっているわけですが、時が経てば身体も変化しますから、自分の音ですら変わっていきます。
人間の六識(眼耳鼻舌身意)の前五識(眼耳鼻舌身)は基本的には今現在の瞬間を捉える事しか出来ません。
法螺貝の音も吹いてる瞬間しか聴けません。
瞬間なので逃したら2度とその時の音は聴けません。
「法螺貝の個体」「チューニング」「身心の状態」「テクニック」「周りの環境(天気・場所等)」との縁起の組み合わせなので瞬間の一点物です。
録音すればまた聴けますが、ただしそれは録音された音でしかありませんし、今の音は以前に吹いた時のと同じ音ではありません。
さらに言えば録音の音ですら、聴いてる私がどんどん変わっています。
人の法螺貝の音と比較しても「全く同じ音」にはなり得ませんから、比較は楽しい学びの材料として吸収し、あくまでも今の自分が奏でる音の良さを伸ばしていくこと。
外側だけではなく内側に目を向ければ、今の音は授かった自分の身体にしか出せない2度と遭遇することのない音。
言い換えれば他の人には出せない音でもあります。
同じにはなり得ない法螺貝の音を吟味しながら主人公として楽しみたいものです。
YouTube「立螺」
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