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法螺貝談義(第28話)

身体や心持ちへの観察に入って行きます。

我々は当たり前のように「自分の身体と心」は〈自分のもの〉であると思いがちです。

しかし本来的にはこれらの主導権を持っていません。
自分の所有では無いと言う事。
つまり自分の完全なコントロール下にあるわけではありません。

その証拠に、自分の体なのに利き手ではない方の手で字は上手く書けないし、頭で思った通りの動きを身体がそのまま出来るかと言えばなかなかできません。

老けたくなくても老けるし、お腹が空くタイミング、トイレに行きたくなるタイミング、眠気が来るタイミング、これらは我々の意識や意図とは関係なく思いがけず不意にやってきます。

さらに言えば自分の心もそれと同じで、思い出したくない事でも、ついつい思い出してしまいますし、ダメだとわかっちゃいるけど食べてしまうとか、変わりたいけど変われないとか。

仏教の身心の分析では当たり前の話です。

〈自分の〉身体や心であれば言う事を聞くはずです。

思い返せば人生で一番言うことを聞かないのは普段「自分」と言っているこの自分ではないでしょうか?

完璧には思い通りに言うことを聞いてくれないこの身体と心。

「一番身近な他人」とも表現できるこの自己存在。

なんとなく身体と心を「所有」していると思い込んでいるだけですが、実際に思い返せば、身体と心は思い通りの振る舞いをしていません。

では、どうしようも出来ないのかと言うと大丈夫です。

身体と心は完璧なコントロール下ではないとのことで「無所有」かと言えばそうでもありません。

実は所有しているという〈側面〉もあります。

仏教では紀元前から「中道(ちゅうどう)」と言って、言葉というものに絶対的な信頼を寄せ言葉に振り回される近代人が陥りがちな二者択一的で二元的な考えを、身体的な事実ベースでのアプローチを基として採用しません。
これは近代科学の量子論でも同じ結論に至っています。

場合によりますが、言葉は表現ツールでしかありません。
その言葉に絶対的な信頼を寄せてしまう癖が、身体をあまり使わなくなった生活をする現代人には顕著です。

現代はアタマばかり使うので「言葉のあや」に絡め取られているだけです。
仏教(唯識)では「名義相互客塵性(みょうぎそうごきゃくじんしょう)」と言います。

「非有非無(有るでもなく、無いでもない)」なので、手立てはあります。

ではどうすれば良いのか?

身体や心が完全に自在に扱いきれないからこそ「観察」をします。

観察があれば法螺貝の音も、吹く時の態度も変わっていきます。

YouTube「立螺」


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