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“師”とは

オンラインコミュニティについての議論が時々巻き起こる。

問題があったり、メリットもあったり。
どんな趣旨のコミュニティかによって話は変わるんだけど、なにかを学びたい、身につけたいという思いでコミュニティに入る人が一定数いるんだろう。

そのとき、そのコミュニティの主は、学びたい、身につけたいもので成功を収めた人なのだろう。
あるいはその道を行く人たちが集まり、みんなで上に昇っていこうという集まりかもしれない。
成功者にその秘訣を学びたい、その人が辿ったやり方を知りたい、それを真似たい。そう思うのは理解できることだ。

この流れが最近多い気がする。コミュニティとかサロンとか、オンラインでの活動に目が行くからだろうか。よく見るものだ。

そして、この方法は、果たして学びにおける良手なのだろうか?という疑問を抱くようになった。
今まだ現役、あるいは成功して日の浅い人間は“師”たり得るのかという疑問だ。

奇しくも(?)私はある一角から師匠と呼ばれているが、それはまあ愛称として置いておいて…

人が学びたい、身につけたいと思うものを「教えるプロ」「その道の人間を育てるプロ」つまり“師”がいるのが学校だ。
小中高などに限らない。専門学校、大学もそうだし、受験予備校、公務員予備校、語学学校、資格予備校もそうだ。
師のなかにはそれなりの数、そこで生徒がなろうとしている者になった人達いるだろう。東大卒の講師による進学予備校なんか典型例だ。
そうした人たちも含め、そこで教える人たち、師は「育てるプロ」だ。東大卒でないけど東大志望の生徒を教える講師も大勢いる。そして東大生を輩出する。

育てて終わりだとか、試験に受かるための勉強しか教えないとか、そういう問題は確かにある。だがすべての“師”がそうではない。
逸脱事例が目に余る昨今、その問題を無視はできないが、それでもまだ、覆ったわけではない。

翻って、コミュニティやサロンで教える人たちは“師”だろうか。

同じ目線で教え合うことは素晴らしいことだ。コミュニティとして理想的だと思う。またたとえ道半ばであったり日が浅くても、成功者がその目線で自分の経験から教えることも、有用に違いない。
師の立場の人間と、教わる人間が「ともに育っていく」という場合もある。それも素敵なことだ。

そこから教わる”だけ”で、本当にその人が求めるレベルまで育つことはできるのだろうか?
不可能ではないと思う。それでも簡単ではないだろう。

「“師”など不要」と言われたら私は異を唱えたい。

師の存在は貴重であり、自分に合う師に出会うのは、成るために重要だ。そして、切磋琢磨する環境にはその生徒たちを見守る存在がいるものだ。必ず、とは言わないが。

私は、もし一から何かを身につけたいとして、それに合うオンラインコミュニティがあったちしても、そこに“師”を求めるのはリスキーだと思う。絶対にいないとは言わないけれど。

アメリカ人が全員優れた英語教師でないし、カメラマンがみんな抜群の写真講師ではない。留学経験のない最高の語学教師や、オリンピック出場経験のないオリンピアン育成コーチもいることを、意識しておきたいし、覚えておいてほしいと思う夜。

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