癌という病に立ち向かった父親の最後の想い。
どうも。にゃん吉と申します。
私の父親は、2年前の2018年9月に「膵臓癌」でこの世を去りました。64歳という若さでした。
今回は、私の辛くて忘れられない過去について落ち着き始めた今、当時のことを思い返しながら書いてみます。
【父親の性格】
私の父親は、口数も少なくとても真面目な性格でした。真面目な性格から、ずっと同じ会社でサラリーマンとして働いていました。毎日休まず真面目に通い続けていました。
会社では毎年必ず健康診断があり、毎年のように異常は無かったみたいです。父は愛煙家でタバコはずっと吸っていました。62歳になった時、健康を気遣い禁煙を始めました。辞めると決めた父はスパっとタバコを辞めその時はさすがに、
「すげぇな」と父のことを心から尊敬したことを覚えています。私自身もタバコを吸い、禁煙も何度かチャレンジしましたが失敗続きだったからです。
【体に異変が表れ始める】
私はその時は妻とアパートに住んでいました。実家には、よく顔を出していましたが仕事が忙しくなってきていたため1ヶ月ぶりくらいに久しぶりに実家を訪れた時の事です。
平日にも関わらず父の車があったので、
「珍しいなぁ」
と思いつつ家の中に入りました。家族皆がいつも集まる居間に横たわる父と台所に母がいました。
私 「仕事休んだの?」
父 「右目がボヤけて2重に見えちゃうから車も運転できない。でも、最近少し良くなった気がする。」
母 「もう1週間も治らないんだよ。眼科に行ったら内臓系かもしれないから胃カメラを進められてね。でも、予約がいっぱいで中々見てもらえてなくて。」
こんな会話をしました。その時は、そのうち治るだろうとあまり深く考えずその日は、アパートに帰りました。
それから2週間後の平日にまた実家に行ってみると、まだ父はいましたが、居間で横になり寝ていました。
私 「まだ治らないの?胃カメラした?」と、母に聞くと
母 「胃カメラしたけど異常がなかったから血液検査をしてもらった。お父さん最近ダルいダルい言っててあんまり元気がないんだよ。」
と言いました。この時はさすがに何かの病気なのかなと思い心配になりました。結局父は起きることがなく、
私 「起こしちゃ悪いから帰るね。」
と言い帰ることにしました。
それから数日たったある日、私がハウスで作業をしていると父と母が二人でハウスを見にきました。
母 「お父さんずっと家にいてもつまらなそうだから連れてきた。」
父 「この前血液検査したら、何とか値がすごい多いんだってよ。念のためCT受けることになっちゃったよ。」
と少し笑いながら言ってきました。まだ目は治っていないみたいでしたが、少し元気そうな父を見て安心しました。ところが父の目を見た瞬間に私は嫌な予感がしました。
「目が黄色い・・・」
黄疸の症状が出ていたんです。何かで見たことをうっすら覚えていました。癌になるとよく出る症状だと・・・
まさかね。癌な訳がない。と自分に言い聞かせていました。
それから数日後のある日、母から電話がきました。
私 「もしもし。どうしたの?」
母 「お父さん癌だって・・・レベル4の膵臓癌で余命3ヶ月って言われた・・・」
私は返す言葉を失いました。
私 「余命はあくまで推測だから、治る可能性だってあるよ!」
母 「そうだね。希望は捨てちゃいけないね。」
と、お互い励ますようにして電話を切りました。そのことを妻に話すと妻も涙を溜めながら「きっと大丈夫だよ」と励ましてくれました。
【壮絶な闘病生活】
癌と分かった日から、父はすぐに入院することになりました。仕事の合間をみて、すぐに病院に行きました。そこには、点滴をぶら下げながら歩く元気そうな父がいました。
父 「会社からいつ出勤できそう?っていう電話が頻繁にかかってくるから、早く退院して会社に行かないと。」
父は会社では、自分が任されている仕事があり他の従業員ができないため頻繁に会社から電話がくると言っていました。もちろん、父にも癌であることは正直に伝えていましたが本人は気にすることもなく前向きに治療を受けていました。なぜなら父の弟も昔、癌にかかり完治していたのを見てきていたからです。しかし、弟は初期で分かったため少し切るだけで治すことができました。
父は癌の進行具合までは知らされておらず、同じように治ると思っていたのです。進行状態を知らせていなかったのは、父が前向きになって治療に専念して欲しかったからだと医師と相談して決めたそうです。
しかし、父の思いとは裏腹に癌はどんどん進行していき、入院してから数日後には、黄疸の影響でお腹や手足がパンパンに膨らみ歩くことさえ出来なくなってしまいました。この時、私は初めてこんな父を見たことで癌という病気の恐ろしさや日に日に弱っていく父を改めて本当に癌なんだと実感させられました。
父はまだ病室が他の人と同じだったため、
父は、「隣がうるさくて一睡もできなかったよ」と言っていました。
でも、この時父は自分が長くないと感じ初めていたから眠れなかったのかもしれません。
それからすぐに病室が個室に移され、黄疸を抜くバイパス手術を受けることとなりました。手術を受け、黄疸が抜けると食欲が出てご飯も食べれるまでに回復したのです。
この時はさすがに母も、
「いつ退院できるか医者に聞いてみる!」
と、笑顔で医者に聞きに行っていました。しかし医者からは、そんな簡単な病気じゃないですよと言われたそうで母は落ち込んでいました。
医者に言われたことは的中して、数日後には黄疸でまたパンパンになり今度は喋ることも目を開けることもできないくらい衰弱していきました。癌はどんどん進行していたのです。
そんなある日のことです。
病室を訪れると、そのには起き上がりテレビを見ている父と母がいました。私は目を疑いました。
父 「おっ。来たな。」
母 「お父さん元気になったから1日家に帰れる外室許可が出たよ。」
と、嬉しそうにしている両親がいました。そんなにいきなり良くなるものなの!?と、ビックリしました。まだ歩けはしないものの、意識は確実にハッキリしていました。あとから調べて分かったのですが、『中治り現象』だったのかもしれません。
父を車に乗せ、実家へ帰りました。父は帰ると外をジッと眺めていました。この時は、父はもしかしたら良くなるのではと思いソッとしておきましたが、今となるとなんであの時もっと会話をしとかなかったんだろうと後悔に悔やまれます。
私は仕事があり、すぐに帰らないとだったので父にいつものように振る舞おうと、
「またね」
と言いました。しかし、父はこちらを見てなにも言わずにまた空を眺め出しました。
この時もしかしたら、父は「また」はないことを分かっていたのかもしれません。
次の日病院に帰ると、元気だったはずの父の姿はそこにはなくさらに悪化していきました。ここからは早かったです。
数日で目はうつろになり、視点も合わず、肺に水が溜まりはじめました。しゃべることさえもできず、息をするにも体全体を使いはじめていました。しゃべることもできなかった父がこの時だけは、
苦しい!!
と大きな声ではっきりと言っていました。よほど苦しかったのだと思います。看護師さんは冷静に
「苦しいよねぇ」
と、言っていました。なんでこんなに冷静なんだ・・・
その答えはすぐに分かりました。看護師さんはこちらを見て、
「そろそろです。準備をお願いします。」
と言ってきたのです。そうです。あとは死を待つことだったのです。苦しいからと、呼吸器も外されました。
それから数時間後に、父はこの世を去りました。父の誕生日まで残り1ヶ月だったのに・・・
それからは、私が喪主として父の最後を務め上げました。父が長年勤めていた会社にも出向き、お礼の挨拶をしに行きました。
そこで、衝撃の事実を知らされました。
社長さんと話しをしていたら、
「お父さんは定年になったら息子(私)の仕事の手伝いをするんだと嬉しそうに話していたよ」
と。初めて知りました。父がそんなことを思っていたことを。
その時私は強く思いました。
必ず仕事を成功させて、毎年綺麗に咲いた花を父(お墓)に届けるんだ!
そう誓いました。父ができなかった分、父の想いを無駄にしないように。
それから悪いことばかりではありませんでした。私達夫婦は結婚して5年間なかなか子供を授かる事ができず諦めかけていました。不妊治癒も受けていました。
そんな中、父が亡くなりすぐに子供を授かることができました。しかも、予定日が父の命日の日だったのです。実際は1ヶ月くらい早く産まれてきましたが、もしかしたら父が最後に残していってくれた、
贈り物
だったのかもしれませんね。
暗い話しになってしまいましたが、私が実際に体験した話です。この記事を読むことにより、親の大切さや、親のありがたみ、親孝行など皆さんが悔いが残らないようにして頂けたらと思います。
死は必ずきます。
後悔だけはしないように・・・。
最後まで読んで頂きありがとうございます!
サポートして頂けたらテンション上がって嬉しくなっちゃう単純な人間です。