小3の私が考えていた『死』について

小学3年生の時「死んだらどうなるんだろう」と考えたことがある。

「死ぬってなに?」
「死んだらどこに行くの?」
「私はどこからきたの?」
みたいな。

息を止めてみた。
死んだら息が出来なくなるから。

苦しくなった。
苦しくなった次はなんだろう?と考えた。

身体的には息が出来なくなって、心臓が止まっていくんだろう。
それが死だと、3年生の時の私は思った。

だけど、この頭の中の自分は?
と考えた。
「苦しい」とか
「痛い」とか
「辛い」とか
そんな考えている自分はどうなるの?と考えた。
それも消えちゃうのか?
いや、消えたらおかしいんじゃないかとか。

今思えば、それは『魂』のことだったんだろうけど、小3の私にはわからなかった。

身体が動かなくなったら、私の頭の中の私はどうなるの?
と考えていた。

私が生きていたという証は、写真には残るかも知れない。
だけど、頭の中で考えていたことは、誰にも触れることなく、知られることなく消えていくのか?
自分が考えていることは、全てムダになるのか?
そんなことも考えていた。

布団の中で、ぐるぐるぐるぐる考えて、気持ち悪くなった。

考えすぎて、気持ち悪くなってしまい、それ以上考えられなくなった。

死んだらどうなる?
は、小3の私には難しかった。

だけど、魂は生きているんじゃないかと、うっすら気づいていたんだ。

今生きているのは、『死後に始まる本当の生活の準備』なんだという。

死んだら終わりではない。

今、生きているうちに、死んだ後の生活の準備をしなくてはいけないのだ。


なにを準備するのか。
それは、一言で言うのは難しいんだけど、光を持つことなのかなぁと思う。

うーん、書こうと思っても書けない。
この続きを書こうとしてもなかなか進めない。
言葉にするのは難しいし、どれも合っているようで、どれも合っていない気がしてきた。
また、書いては消し、書いては消しを繰り返す…。

私なりの考え方ね。
なので、合ってるとか合ってないとかはちょっと置いときます。

今の考えって死んでも同じ。
変わらないと思う。
だから、意地悪な人は意地悪なまま。
仏様になって、いきなり仏の心になるわけがないと思うの。

物欲が強い人は強いまま。
執着心がある人は、執着しちゃう。

だから、未成仏になったりしちゃう人もいると思うの。

死んだらお墓に入ると思いこんでいる人は、ずーっとお墓の前で入ろうと何回も試みて入れないを繰り返す。
そんなとこでうろちょろしていないで上に行きなよって言ってもいけないの。
これは、視える人から聞いた話。
それはとても悲しいと思った。

死んだら生きてる時より頑固になると思う。
考えを変えにくいの。
思考はストップしちゃう。
死んだら変化が少ないから。
気づきが少ない世界に行ってしまうから。

だから、今、生きている時にたくさんの気づきを得て、どう自分が考えて、とう選んでどう進むか。

思考を色々変えてみる努力をする。
努力というか、楽しんでみる。

自分を信じてとことん疑うの。

ん?
わかんないけど、信じて疑う。

自分のことを信じることが大切なんだけど、自分の今までの価値観は疑ってみることも大切かもって思う。


M-1観て、勝手に点数付けてる女が、急になにを言ってるんだろう…。

なんかね、今日は、そんなことを1日考えていたよ。

小3の時にはよくわからなかった、死ぬということ。今もまだよくはわかっていない。

それでも今、こうして生かされている。


私は愛されている。
私は大丈夫。
私は持っている。

プラスの言葉なんか言いたくない日もあるかも知れない。
どうしても笑えない日もあるかも知れない。
それでも大丈夫。
きっとうまくいく。

やかんに入れた水は、火にかけたらお湯になる。
プラスの言葉は火だ。

沸くから。
火種を絶やさなければちゃんと沸くから。

その光を持っていこう。

日向の道を歩いていこう。

あらあら、カムカムエブリバディが出てきちゃったよ…。

なんか、ちょっとまじめになっちゃった。
最後までお読みいただきありがとうございます😊

昨日も今日も明日もずっとずっと幸せをありがとう。
たくさんの出会いに感謝💕

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