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『真夜中の五分前』~土浦セントラルシネマズでの行定監督舞台挨拶を経て降りてきた新解釈

先日の土浦セントラルシネマズさんでの行定勲監督の舞台挨拶に参加させていただき、その際に大きなスクリーンでは2回目となる『真夜中の五分前』を見た。
もう、自宅では何度も見ているこの映画、見れば見るほど美しくて神秘的で素敵な音が心地よくて、どんどん大好きになっていくのだが、先日の行定監督のお話を伺ったことから、もうどうしよう!っていうほど愛しくて仕方がない宝物になった。

行定監督から提起されたもの

今回土浦セントラルシネマズで、行定監督のこの作品と春馬くんに対する真摯な想いを目の当たりにして、ここは私も行定監督から提起されたものについて、ちゃんと考えてみようと思った。

なお、めちゃくちゃネタバレなので、まだこの映画をご覧になっていない方は、鑑賞後にお読みになることをお勧めする。

今回も、行定監督
「取り残された一人の女性がどちらかという真実が迷宮入りする中、目の前にいる、その苦悩した一人の女性を愛することができるかどうか、それに葛藤する青年の物語を描きたかった」 
というようなことをおっしゃっていた。

映画『真夜中の五分前』のDVDの行定監督オーディオコメンタリーでも、同じようなことをおっしゃっていたのは何度も聞いていたのだが、私はどうしても、「生き残った女性がルオランなのかルーメイなのか」というサスペンスとしての解に気が行ってしまっていた。

もちろん、それにより何度も見たりいろんな方面から考察してみたり、その考察をほかの方達と共有し合ったりしてどんどんこの映画の魅力の虜になっていったのだから、それはそれで私たちファンの楽しみとして行定監督もお許しくださっていると思っている。なので、これからもこの楽しみは継続させていただきたい。

が、今回だけは行定監督の想いに勝手に応えるべく、真面目に考えてみたい。

リョウの気持ちになって体感してみる

私の参加した舞台挨拶は映画を見終わった後だったので、自宅に帰ってから行定監督から提起された問いを胸に、もう一度この映画を見てみた。

それは、春馬くん演じるリョウの気持ちになって体感してみることだ。

愛というのは人それぞれだと思うし何が正解と言うことはないと思う。だからあくまでも私の見解だが、恋愛っていくつかの種類と言うか段階があると思う。

・惹かれる
・恋
・愛

「惹かれる」とは、そのひとが自分の感性に引っ掛かりとても気になるという感じか。それは、外見から、ということももちろんあるだろうし、その言動からということもある。気づくとなんだか目で追っている感じ。
「恋」となると、そのひとの姿が見えたりそのひとのことを考えると、ドキドキするとかワクワクするとか胸が熱くなるとかいう感じなのかなと思う。もっと知りたい、もっと近づきたい、もっと一緒にいたい、もっと触れたい、とか。気づくといつも考えているが、まだ自己本位という気がする。
そして、「愛」となるともっと深いものになってきて、そのひとの力になりたいとか幸せを願うとかいう、自己本位ではなく相手本位の感情なのかなと思う。でも、そこまでに行きつくまでには一朝一夕ではなく、二人の間の積み重ねてきた歴史というものが作用していくと思う。歴史により形成された想いが何層にも重なって愛になっていくというような感じ。

この映画のリョウとティエルン、二人の男性の立場になってみると、モーリシャス前の彼女と積み重ねた歴史というものがあり、どうしてもそれに引きずられ生き残った彼女がルオランなのかルーメイなのかに拘ってしまうのは仕方のないことだと思うだが、拘った末の行きつく先というのがそれぞれ違う。

(1)ティエルンの場合
ティエルンには、モーリシャス後に帰還した彼女と1年という時間を過ごし新たに積み重ねた歴史も既にあったはずだが、モーリシャス前のルーメイと重ねた歴史の方が重要で、つまり彼女がルーメイであることが重要だったのだと思う。もし本当はルオランなんだとしたらルーメイになりすましている理由が気になるのも無理はないと思うし、どんな企みがあるのかと疑心暗鬼になってしまうのは理解できる。つまり、行定監督から提起された問いに対してのティエルンの解は明快で、NO!ルーメイでなければ愛せない、というもの。だから目の前の彼女がどちらなのか、それに拘り、疑い、最後はそれに疲れ果て放棄してしまう。

(2)リョウの場合
モーリシャス前にルオランと積み重ねた歴史は大切なものとなり、再びつまらない日常を過ごしている1年後、モーリシャス事故で助かった双子の片方がルーメイと名乗り現れる。しかもティエルンは彼女はルオランなのではと言う。ティエルン同様彼女がどちらなのかに拘るリョウも、やはりルオランと積み重ねた歴史が重要だからだ。もし、ルオランがルーメイになりすましているのならその理由は何?ルオランが女優になりたかったこと、ティエルンを最初に好きになったことは知っている。彼女が本当はルオランだとしたら、自分よりティエルンを選んだことになる。それは、今も胸にあるルオランと積み重ねた歴史、ルオランの愛を否定することになる。それはあまりにも辛いことだと思う。
でも、実は彼女に再会してから新たな歴史は既に始まっていたんだと思う。それは、ティエルンに受け入れられず悩む女性、自分が何者かに苦悩する女性と新たに積み重ねる歴史。その目の前の苦悩する女性にどうしようもなく惹かれる自分がいる。そんなある日、彼女が再び姿を消してしまう。

街中を探し回るリョウ。真夜中ベッドに腰かけ物思いにふけるリョウとモーリシャスの海にたたずむ彼女が交互に映し出された時、うつむいた姿勢から視線をゆっくり上げながらリョウの目に明確な意思を感じた。彼女がルオランであってもルーメイであっても、もうどうでもいい。

真夜中の五分前、階下から聞こえる物音に降りてみると、机の上にはルオランに贈った時計が置かれている。時計を握り慌てて外へ出ると、去っていく彼女の後ろ姿が夜の街に見えた。呼び止めようとしたその時、時計店内の掛け時計が一斉に翌日になったことを告げる。手にした腕時計を確認すると定刻。

世界に五分遅れて生きていたリョウ。自分が何者かに悩んできた彼女。夜の上海の通りで一緒に明日を迎えた二人。そこでリョウは疑いようもない想いをはっきりと確信したんだと思う。彼女を愛しているとーーー。
リョウの場合、行定監督から提起された問いの答え、それは迷いながらも、彼女と一緒に迎えた翌日にようやくYES!に辿り着いた、ということだと思う。

振り返った彼女は、ルオランでもルーメイでもない新しい彼女の顔。そして、リョウと彼女は、過去を脱ぎ捨てこれから”今”を生きていくのだと思う。一緒に。

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とまあ、今回、先日の行定監督のお話からリョウの気持ちになって見てみて、初めてこんな新解釈が降りてきた。

原作小説では、主人公は帰還した女性をかつて自分が愛した女性ではないと拒絶し、以降は真夜中の五分前かつて愛した女性を思いを馳せる、というラストになっているので、行定監督は監督独自にエンディングを求めたということだろう。

行定監督が、『真夜中の五分前』行定監督オーディオコメンタリーでこんなことをおっしゃっていた。

この映画は最後にタイトルである真夜中の五分前というものに帰結したいと考えていた。翌日になるというのはポジティブなことが多いんだけど、その五分前というのはちゃんと明日が迎えられるんだろうかという不安に駆られる曖昧な時間だと感じていた。その真夜中の五分前に逡巡する男女の話として描きたかった。この翌日を二人が迎えたラストシーンが浮かんだ時にどうしてもこの映画を撮りたかったんだと思う。10年間考え続けて、このラストで本当にいいのだろうかと何度も考えたんだけども、リウ・シーシーさんが振り返った時のなんともいえない何者でもない目の前にいる女性を撮り終えた時に、この映画を撮ってよかったと思った。
~『真夜中の五分前』行定監督オーディオコメンタリー

敢えて別の結末にしたということは、行定監督は愛と言うものの一筋縄でいかない複雑さを監督なりに描きたかったということなのだろう、と思った。

性懲りもなく解を考察

そんなことを言いながら、性懲りもなくサスペンスの解を考察する私を許していただきたい。やはり、辻褄が合わないとどうしても納得できない性分でして。

きっと幼児期から何度も彼女たち姉妹は入れ替わっていたのだと思う。生を受けた時の名前とはもう既にティエルンやリョウと出会う前に入れ替わっていたのかもしれず、帰還した彼女は、敢えて言うならモーリシャス前ティエルンの婚約者として生きていた「ルーメイ」と名乗っていた女性の方だと思う。けれども、幼少期から何度も入れ替わっており、モーリシャス後疑いの目を向けられることもあり、自分が「ルーメイ」として生を受けた者なのかどうか、それさえもだんだん彼女は混乱してきたのではないか。

「わたしは、いつからルーメイなの?」

「わたしはルーメイじゃないの?」

とリョウに問いかける、その表情から、今回は彼女の戸惑いに嘘はないと思えた。

ひとって対峙する比較相手がいるとその特徴は顕著なものになるが、ひとたびその比較相手がいなくなると、その特徴は中庸なものになるのではないかなと思う。例えばこの姉妹の場合、ルーメイは自由奔放で大胆、ルオランは思慮深くて控えめだったのが、対峙する相手がいなくなったら、それらの特徴の際立ちが失せその中間に寄って行くような感じ。だから、帰還した彼女がルーメイと名乗りながらも、なんとなく思慮深く控えめなルオランのように見えても不思議ではないと思う。

また、こういうことってないだろうか?誰かの経験を自分の経験として記憶してしまうこと。何度も何度も繰り返し聞かされるうちに、その想像がリアリティを帯びてきて、さも自分が体験したことのように記憶されていくこと、なんとなく私はあるような気がする。

おそらくこの姉妹は、お互いの話を聞くうちに想像上の映像が自分の体験のようになってしまい、更にモーリシャスの事故の衝撃もあり、もうどちらの記憶なのかわからなくなっていたのではないか。

ここでいくつかの疑問点の解を考えてみる。

<モーリシャス直前のルオランの様子>
 リョウと映画を見に行った時ルーメイのファンに囲まれたルオランは、ティエルンに助け出されルーメイと勘違いされ贈られた洋服を受け取る。その後リョウに会いモーリシャス行きを告げるが、着ているのはティエルンから贈られた洋服。鏡に映る自分を見つめ、幼き日の自分とルーメイがブランコにより入れ替わっている幻想を見る。何か覚悟を決めたような表情のルオラン。
モーリシャスからリョウに出した手紙には、このように書いてある。

これからはもっと自分の時間を大切にしたい
リョウ、次にあなたに会うときは
私は今を生きてみたい
5分前でも5分後でもない
今を ルオランより

モーリシャスの教会で、マリア像の前に置かれたロザリアと引き換えにリョウからもらった腕時計を置き去りにする。何か赦しを乞うような表情でマリア像を見上げるルオラン。

一方、オープニングではプールに浮かぶ女性がこのように言っている。

いつだってそうだった
いつだってわたしは私ではなかった
私は誰?私は誰なんだろう?
なくさないと見つからない
いつだって そうだ・・・

プールに浮かんでいることから、この女性はルオランだと思う。
またゴルフの後、別荘の外に飛び出したルオランが、追ってきたリョウにこんなことを言っている。

何度も思ったわ 彼女に消えて欲しいって
そんな自分がいや
私が消えればいい そうなの?

この一連の流れがどうしても引っ掛かる私は、こんな想像をしてみた。
ルオランにとって、ルーメイに自分のアイデンティティを奪われたことは、人生を駆けるほどの重要なテーマだったのではないかと思う。恋愛よりも重要なテーマ。
ルオランは、映画館の外でティエルンが自分のことを完全にルーメイだと見誤ったのをきっかけに、ルーメイに奪われた自らのアイデンティティを取り戻す決意をしたのではないか。リョウにモーリシャス行きを告げる時に、敢えてティエルンから贈られた洋服を着ているあたり、私はその決意と受け取った。ものすごいサスペンス劇場になってしまうけど、それはルーメイに消えてもらう決意だったのではないか。その自分の企てに懺悔の意味も込めて、モーリシャスの教会のマリア像を見上げる。ふと目の前にあるロザリアを、赦しを得るために盗んでしまう。以前「私もその5分でルーメイと違う世界に行けるかな」と呟いたあとにリョウがくれた5分遅れの腕時計と引き換えに。ところが、思いがけずモーリシャスで巻き込まれたクルーザー事故(まさか事故まで故意で起こせまい)。ルオランは、ルーメイに消えてもらう絶好のチャンスであるはずなのに、土壇場になってやはりルーメイを見殺しにできなかったのではないか。ずっと憎かったけど、やはり愛しい自分の半分であるルーメイを。そして、ロザリオをルーメイの首に掛け最後にはどうか助かって幸せになって欲しいと願い海の藻屑と消えていったルオラン。ーーーというのが今回浮かんだ私の見解。

<頭の傷の謎>
姉妹二人とも、自分が幼少期ブランコから落ちて頭に傷を負ったと言っている。モーリシャス前に実際に頭の傷を確認したのはティエルンのみ。そして、モーリシャス後に傷を確認したのはリョウのみ。これがどういう意味なのか。もしかしたら、姉妹二人とも偶然にも頭に傷を負っていたのかもしれない。

<試写会の謎>
モーリシャス後、双子の両親との食事中、ティエルンの撮った映画の話になる。「まだ見ていない」と答える彼女にティエルンが「モーリシャスに行く前、試写で見ただろ」と言い、疑惑を更に濃くしていく。これはどういうことだろう?モーリシャス前にルオランが映画館から出てルーメイのファンに取り囲まれたシーン、あれをティエルンは試写を見てきた後だと思い込んだのかもしれない。

以上の3つの点に疑問が残っていたので、かなり自分なりのこじつけもあるが、私の新解釈においてこれで矛盾が落ち着いた。

おわりに

こんな風にいろんな見解を生み出すこの映画、やはりすごい映画だな、面白いなあ、と思う。それは、この映画が敢えて明確な説明をせず、俳優たちの表情、演技に全解釈を委ねたからだと思う。そして、受け取る側に全解釈を委ねた映画。おそらく、見る側のコンディションにより違った見解が出てくるだろうし、また何年か後に見ると違った見方になるかもしれない。

今回、行定監督の舞台挨拶を経て、この新解釈が導かれた私は、その後のリョウとルーメイに想いを馳せる。

どこか二人で違う街に移り住み、小さな時計店を営みながら静かにゆっくりと愛を育んで、幸せになっていてほしいな・・・。




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