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旅の記憶29(その2)〜ヘミングウェイゆかりの酒場「Sloppy Joe’s」

(承前)

観光スポットの一つが「ヘミングウェイの家」です。1851年にスペイン植民地様式で建てられた邸宅を、1931年にヘミングウェイが買取り、大改修を施しました。その実際に住んでいた家屋が公開されています。そこにはヘミングウェイの飼い猫の子孫たち、数多くの猫が訪れる人をもてなします。HPによると、60匹程度の猫は多指症で、指が6本あるそうです。猫は通常、前足が5本、後ろが4本です。

その昔、ヘミングウェイは、船長から猫をもらいます、名前は“Snow White"、白雪姫です。この猫は6本指だったそうで、今いる猫の多くは“Snow White"が祖先と言われています。

街を散策していると、「Sloppy Joe's」という名前の、いかにもこの土地にふさわしい雰囲気のアメリカン・バーがありました。調べてみると、今もこの店はあり、内部を見ることができますが、記憶は呼び起こされません。

とにかくこの店で覚えているのは、ヘミングウェイにゆかりのバーであったこと。ヘミングウェイの顔が大きくデザインされたTシャツを販売していて、それを買いました。(写真に載せているのは、ビンテージTシャツとして、今ネットで販売されているもの)飲んだのは、ヘミングウェイが好んだというフローズン・ダイキリか、ピニャ・コラーダだったと思います。

今あらためてこの店のHPから、その歴史を読むと、次のようなことが分かりました。

キー・ウエスト地元民のジョー・ラッセルさん、1919年に成立した禁酒法時代に“もぐり酒場=speakeasy“を経営していました。1928年、2年前に「日はまた昇る」を上梓、「武器よさらば」に取り掛かっていたヘミングウェイは、パリを離れ、マルセイユから出航、妻ポリーンと共に、キューバの首都ハバナ経由でキー・ウエストにやってきます。ラッセルさんと、ヘミングウェイは親しくなり、ヘミングウェイは酒場に出入りするだけでなく、ラッセルさんをボートの操縦士およびパートナーとし、カジキなどの釣りを楽しむのでした。

また、ジョー・ラッセルは、ヘミングウェイの小説「To Have and Have Not」(持つと持たぬと)の登場人物のモデルとして使われています。(この小説は、ハワード・ホークス監督、ボガート/バコールのコンビの映画「脱出」の原作。ホークスとヘミングウェイは友人で、共同脚本者は後にノーベル文学賞を獲得するウィリアム・フォークナーです)

1933年、禁酒法が撤廃され、ラッセルさんは晴れて合法の酒場をオープンします。この酒場は店名を2度変えるのですが、最後の変更について進言したのはヘミングウェイでした。

スペイン人のジョーさんが経営する、「Jose Garcia Havana Club」という酒と冷凍のシーフードを売る店がありました。Havanaというくらいですから、ヘミングウェイが一時住んだキューバのハバナにあったのでしょう。その店の床は、溶けた氷の水で濡れていたので、スペイン人のジョーさんは、「running "sloppy" place〜水でビチャビチャの店を経営している」とからかわれていました。

この“sloppy“という言葉と、ラッセルさんのファースト・ネーム、“ジョー“が合わさって、ヘミングウェイは「この酒場、“Sloppy Joe's“という名前にしろよ」と勧めたのでした。

その後、「Sloppy Joe's」は不況のあおりを受け、経営が厳しい時代もあり、店の移転も余儀なくされました。その頃、ヘミングウェイは内戦を取材するため、スペインにいたのでした。

ヘミングウェイは3番目の妻になるマーサと「Sloppy Joe's」で出会い、1939年には彼女と共にキューバへと引っ越していきます。その際に多くの所有物をキー・ウエストに残したのですが、それらは「Sloppy Joe's」のバーの裏側にあった部屋に保管されました。それらは、ヘミングウェイが亡くなった翌年、1962年までタイムカプセルのように手付かずでいたのでした。

ジョー・ラッセルさんは、1941年に他界しますが、その後も「Sloppy Joe's」はキー・ウエストのシンボルとしてドアを開け、私は40年後の1981年にこの酒場を訪れ、ヘミングウェイのいた空気を少しだけ感じることができたのでした。

ボブ・ディランの曲に触発され、キー・ウエストへの旅を思い出し、当時訪れたバーの歴史・ヘミングウェイとの関係を知ることになりました。

キー・ウエスト、それからヘミングウェイ作品も〜再訪したいですね



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