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小説「流れる」はドキュメンタリー〜柳橋”凋落“のリアル

先日、成瀬巳喜男の映画「流れる」を観たことを記事にしたが、原作は幸田文の小説。幸田露伴の娘で、戦後活動した作家だが、作品に触れたことがない。どのような小説を書いた人なのか、同名の原作「流れる」を読んでみた。

これはもちろん小説である。しかし、映画を観た後にこの小説を読むと、これはノンフィクションのように感じる。現実に、柳橋の置屋の現実である。

映画の記事と重なるが、小説の舞台は戦後東京の花街、柳橋。置屋とは芸者が所属し、料亭などの要請に応じて芸妓を派遣する。芸能プロダクションのような存在である。そこに住み込みの女中として働きにやってきた梨花の目を通して、左前になる置屋を描く。

小説を読んで感じるのは、その生々しさである。Wikipediaによると、幸田文は実際に芸者置屋で住み込み女中として働いていたようで、その時の経験をもとに綴っている。例えば、芸者が着物を買う、置屋は呉服屋との間に入り、紹介料として幾ばくかを貰う。負担するのは、芸者の方である。お座敷での華やかな振る舞いの裏にある、こうした内部事情が、細かく書かれる。

置屋の主人は芸者でもあるが、その娘の勝代は器量も悪く、芸者の道を歩んでいない。幸田文は、勝代をこう描写する。<美しくない顔というものはなるほど掣肘(せいちゅう 注:<明鏡国語辞典:そばから干渉して自由な行動を妨げること>)を受けているものだと見る。勝代がこんなに本心をあけすけにして、いっそ潔く燃えて話しているのに、熱しすぎた頬は満開の河のように膨らみすぎて、藁しべを聯想させる細い眼はぴかぴかと濡れている。これは美しくない。>

映画の方で勝代を演じるのは高峰秀子である。成瀬巳喜男監督は、幸田文が言葉にした世界を、“滅びの美学“とでも表現できるような、夢の世界へと変換する。それをイメージして小説に取り組むと、そこに幸田文が<旧い天の凋落>と表現する現実があった。

解説の高橋義孝は、それは<外界の刺激に反射的に応ずるという行き方>であり、それは女性的な<感覚的態度>でもある。ただし、それのみであれば、「流れる」はまさしくドキュメンタリーとなるのだが、<小説のロジックが幸田さんを圧伏して、とにかくここには一つの虚構世界が現出しえたのだ>と書いていた。


なるほど、成瀬巳喜男の作る虚構世界と、幸田文のそれとは、全く別物である。それが故に、両者ともが優れた創作物なのだ


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