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記憶と歴史をつなぐ一冊〜笹山敬輔著「ドリフターズとその時代」

勢いに乗って、笹山敬輔を読み続けた。「笑いの正解」「昭和の芸人 七人の最期」に続いて、「ドリフターズとその時代」(2022年 文春新書)である。

ザ・ドリフターズ(以下、ドリフ)の「8時だョ!全員集合」(TBS系 以下、「全員集合」)で始まったのは1969年10月、私は小学校2年生だった。初期の頃の記憶はないのだが、毎週楽しみに見ていた。“ズンドコ節“などのレコードまで買っていた。番組は1971年3月に一旦終了、土曜8時の枠は同じような構成でクレージー・キャッツがメインとなった。

そのことは、よく覚えている。面白かったドリフがいなくなり、クレージーの番組はちっとも面白くなかった。なぜドリフが終わったのか、子供心に疑問を感じていた。

「全員集合」は同年10月に再開して、私は大いに喜んだ。大阪の小学生の週末には、吉本新喜劇、松竹の劇場中継、そして「全員集合」が欠かせなかった。現在、コンスタントに視聴率1位を取っているNHKの朝ドラの視聴率が15%程度であることを考えると、50%を超えたこともある「全員集合」は、まさしく国民的番組だった。

こうしたバラエティ番組にさほど興味を示さない父親が、「『全員集合』は面白い。金がかかっている、そして生放送だから」と評価していた。彼はチャップリンの映画に私を連れて行ったし、落語も好きでテレビでよく見ていた。したがって、“お笑い“に関心がないわけではないが、テレビの“お笑い“についてポジティブな評価はしていなかったように思う。そんな父でも、「全員集合」は私と一緒に見ていた。

加藤茶は、小学生のヒーローだったが、私は荒井注が好きで、その退団はショックだった。1974年3月が最後の「全員集合」となり、代わって入ったのが志村けん。これが、全然駄目。私が中学校に上がるタイミングと重なり、「全員集合」からは“卒業“となった。

これまでも色々書いている通り、「喜劇人」は私の趣味の一つとなり、小林信彦始め、多くの書物も読んできた。その中で、ドリフはほとんど触れられていない。後追いでクレージー・キャッツの凄さに感心し、CDを買い、映画も何度も観るがドリフを返り見ることはほとんどなかった。私の中のドリフの位置付けは、こうしたものだった。本書を読むまでは。

本書の冒頭で、笹山敬輔はこう書いている。

<ザ・ドリフターズはその存在の大きさに比して、正当に評価されていないのではないか、私はずっとそう感じてきた。>、<メンバーの自伝や番組スタッフによる回顧録はあるものの、第三者によってドリフが本格的に論じられたことはない。日本の「笑い」については、小林信彦の名著『日本の喜劇人』が登場して以来、喜劇人や芸人が研究の対象になってきた〜(中略)〜だが、ドリフを歴史的に位置づけ、全体像を描き出そうという試みはついぞなされてこなかった。>

私の中で、「日本の喜劇人」を考える上で、ドリフはミッシング・ピースだった。それを、本書は埋めてくれる。「全員集合」が、練り上げられたネタでアドリブを排除しつつ、生放送のハプニングをも笑いに変えていったことを頭に置かなければならない。このスタイルが、いかりや長介を経て、志村けんに継承されていことは本書を読んで分かった。

志村けんが「志村魂」の舞台でやっていたことを知った。吉本新喜劇のナンセンスと藤山寛美が率いた松竹新喜劇の人情喜劇、あるいは落語における滑稽話と人情噺、この対比を志村けんは追いかけていた。「志村魂」、観ておけばよかった。でも、志村けんは世にいない。「コロナの馬鹿野郎」のせいだ。

同時に、私の中のドリフの記憶が違っていることも分かった。上ではドリフから“卒業“したと書いたが、“東村山音頭“などをきっかけとした志村けんのブレイクはもちろん認識している。本書を読むと、“卒業“とは言いつつ、その後もドリフはなんとなく私のそばにいたことを、改めて認識した。

こうして、笹山敬輔が本書で書こうとしたことが、私の中にしっかり染み入った


*高田文夫のコメントはこちら


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