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最後の喜劇人と呼ばれて〜笹山敬輔著「笑いの正解 東京喜劇と伊東四朗」(その1)

1960年代の終わりから70年代にかけて、つまり私の子供の頃は、東京と大阪は違った世界でした。テレビの世界で私の目と耳に馴染んでいたのは、上方の漫才・落語、そして吉本新喜劇。子供にはちょっとつらかったのですが、祖母が好きだった藤山寛美の松竹新喜劇。

東京の芸人・喜劇がテレビで流れることは多々ありましたが、ドリフターズ(東京的な洒脱さのかけらもないスラップスティックは、まさしく地域性を超越していました)を除くと異世界のものという感じ。伊東四朗が属していたてんぷくトリオもそんな人たちでした。

その認識が完全に覆されたのが、キャンディーズが出演した1976年放送開始の『みごろ!たべごろ!笑いごろ‼︎』でした。中3の私の前に、小松政夫に導かれた、狂気あふれる“ベンジャミン伊東“が登場し、コタツの上で“電線音頭“を披露したのです。

それでも、その後はドラマに登場する伊東四朗を見かける程度だったのですが、小林信彦が喜劇人としての伊東四朗を取り上げ、いつかこの人の舞台を観なければと考え始めました。ちなみに、てんぷくトリオは、小林信彦が脚本を手がけた(中原弓彦名義)「進め!ジャガーズ敵前上陸」(1968年)に出演、伊東は重要な役どころを演じています。

生の舞台を観る機会がおとずれたのは、2004年のことでした。本多劇場で上演された、伊東四朗一座の旗揚げ解散公演「喜劇 熱海迷宮事件」。三宅裕司と共に、東京軽演劇の復活を企図した舞台でした。この一座が、今の熱海五郎一座へとつながります。

東京喜劇の伊東を観ることができたので、次は是非コント。小松政夫とのコンビを観たかったのですが、それは結局かないませんでした。それでも、2018年に三宅裕司との“伊東四朗 魔がさした記念コントライブ“「死ぬか生きるか!」を、紀伊國屋サザンシアターで目撃することができました。

会話がなぜか歌になっていく、伊東四朗の至芸“歌ネタ“は、「歌声レストラン」としてかけられました。喜劇人・伊東四朗を堪能した夜でした。この年、伊東さんはすでに81歳です。

その後も、伊東四朗は元気にテレビなどに出演、円周率の暗記などを披露し、明晰な頭脳を披露されていました。舞台で観るチャンスはもうないかなと思っていたところ、今年の熱海五郎一座に出演することが発表されました。

自身の思い、伊東四朗ら先人たちが築き上げた東京喜劇の伝統を引き継ぐべく、三宅裕司が2006年に始めた一座ですが、2014年には新橋演舞場という大舞台に会場を移し、今年は第10回記念公演、昨日(6月2日)初日の幕が開きました。

この一ヶ月公演に、来月で87歳になる伊東四朗が出演しています。これは行くしかないじゃないですか。

とまぁ、個人的に伊東四朗に向けて気分が盛り上がる中、5月に上梓されたのが笹山敬輔著「笑いの正解 東京喜劇と伊東四朗」(文藝春秋)です。

例によって、まえおきが長くなりました。本書についてはまた明日

(続く)


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