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“巡礼“の旅とはいかなるものなのか〜沢木耕太郎著「天路の旅人」

こんな日本人がいたのか。沢木耕太郎が「天路の旅人」で描いた西川一三という人は、驚くべき人物だった。

第二次大戦末期、軍の指令を受け「密偵」として、内蒙古・チベットなどに潜入する。自己の身分を、日本人からラマ僧へと変え、苦難の道のりを進んでいく。彼は、その体験を「秘境西域八年の潜行」という大著に表す。

この西川に興味を抱いた沢木がインタビューを重ね、思案の挙句、西川の言葉と上述の著書および元原稿などを基にし、西川の西域の旅を再構築したものが本書である。

1943年、西川は中国西北地域への潜入・捜査という「命令」らしきものを、北京の北西約200kmの張家口にあった日本大使館で受け取り、“巡礼“の旅を始める。本物のラマ僧を含む、総勢五名が、七頭のラクダと共にゴビ砂漠へと向かう。

最初から雪に見舞われる過酷なものとなり、西川は朝日が登り体を温めてくれることに、<幸せとはこういうことを言うのか・・・。>と感じる。

<旅に出ると、生活が単純化されていく。その結果、旅人は生きる上で何が大切なのか、どんなことが重要なのかを思い知らされることになる。>

<聖地・霊場を参拝してまわること(広辞苑第七版)>を“巡礼“という。この行為は、日本にもアジアにも西洋にもある。それだけ普遍的な行為である理由は、上記の一文に表れているのではないだろうか。つまり、参拝は目的であるが、実際は旅をすること自体に意味があるのではないか。

「天路の旅人」を読みながら、西川一三の足跡を辿ることで、“巡礼“という行為を疑似体験することになる。

西川が体験する、数々の困難は、「西遊記」で三蔵法師や孫悟空が体験する冒険を、現実のものに変換するとこうなるのだろうか。

西川は歩を進めるうちに、「密偵」からある種の聖職者・哲学者に変化しているようにも見える。施され、また時には施しを行いながらの旅というものは、宗教的行為につながっていく。

<たぶん、どこにいても、そして誰であっても、心を鎮めて、耳を澄ませば、聖なる刻を見出すことができるのだろう・・・・。>

もちろん、本書は優れた旅行記として読むこともできる。冒険譚でもあり、“戦争“というものに翻弄された、多くに日本人の中の一人の人生記でもある。私が知らなかった、チベット、インド、ネパールという国をリアルに描いてくれる。

そして、そこには我々が失いそうになっている、あるいは失っている何かがあるように感じるのだ。

沢木耕太郎の筆は、私を惹きつけ、最後まで一気に導いてくれた



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