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落語「鰍沢」は名作なのか〜圓生・馬生そして談志

大手町落語会で、柳家権太楼が演じる「鰍沢(かじかざわ)」を聴いたことを書いた。これから書くことは、その延長線上にあるので、演目の内容をご存知ない方は、まずはその記事を読んでいただけるとありがたい。

「鰍沢」は三遊亭圓朝作と言われ、いわゆる大きなネタ、実力者が語る噺とされている。 同じ圓朝作とされる「芝浜」同様、三題噺との説がある。寄席の中入り前に、客席からお題を三ついただき、それを使って出番までに話をこしらえる。「鰍沢」は、“毒消しの護符“、“たまご酒“、“鉄砲“の三題から、圓朝が即興で作ったと言われる。真偽のほどは定かではない。

登場人物は三人だが、主役は雪道で迷う商人と、難渋した商人が訪ねる民家の住人、お熊である。私はしばらくこの話を、録音も含め聴いていなかったが、お熊のイメージは希代の悪女だった。しかし、権太楼師が演じるお熊は、手に手をとって駆け落ちした亭主を愛する側面を際立たせた。

一方で、この演出に私が完全に納得したかと言うと、そうでもない。さらに、そもそも「鰍沢」は名作なのだろうかとも思いつつ、ちょっと復習してみようかと考えた。

まずは、なぜ私はそこまで悪いイメージをお熊に対して持っていたのだろうか。手持ちの録音から、十代目金原亭馬生の「鰍沢」を聴いてみた。これは、ほとんど権太楼師の演じた型と同じで、やはりお熊は毒に苦しむ亭主に寄り添い、仇を討つ目的を主眼に、鉄砲を抱えて商人を追いかける。

次に、私が最初にこの話を耳にしたであろう、三遊亭圓生の録音を聴いてみた。すると、誤ってしびれ薬の入ったたまご酒を飲んだ亭主に対し、お熊はさほどの同情を示さず、突き放したような態度を取る。あとは、金欲しさだけで商人を追う。やはりこの圓生の演出が頭に刻まれていたのだろう。

三遊亭圓朝の「鰍沢」が青空文庫(Kindle版)に入っている。正確には、圓朝の弟子、三遊一朝の口演を基にした速記本と思われる。これも、お熊が旦那に寄り添うことはない。商人が目覚めたことに気づき、仇討ちなどとは言わず、<「野郎気がついたな。鉄砲で射殺してしまう」>と、逃げる商人を追いかける。

もう一つ手持ちがあった。立川談志の「鰍沢」である。おびただしい数のCDやDVDを出している談志だが、この話のライブ音源の存在は知らない。私が聴いたのはスタジオ録音の「談志百席」に収録されたものである。談志は晩年、ほとんど高座にかけなかった演目を含め、「談志百席」としたスタジオ録音を行なっている。「鰍沢」は発売元からのリクエストで演じているが、落語評論家の広瀬和生は著書「談志の十八番」の中で、「鰍沢」は<到底、「談志の持ちネタ」と呼べる噺ではない>と書いている。

この録音で、談志は「鰍沢」を演じない理由として、荒唐無稽であるとする。ただ、荒唐無稽の落語など山ほどある。ただし、「鰍沢」は“名作“とされている中で、一定レベルのリアリティが求められるはずではある。談志はさらに荒唐無稽に出来上がった理由に、三題噺に関する違った説を紹介する。前述のような形でお題をもらったのではなく、噺を始める前に最初の題“毒消しの護符“を貰い、ある程度物語を進めたところで次の題“たまご酒“を頂戴し、そしてクライマックスの手前で“鉄砲“という具合だったという説である。そして、それを前提として、「鰍沢」を演じ、これなら荒唐無稽さもある程度納得できるとする。

あまり説得力は無いのだが、談志が演じるお熊は、圓生同様、七転八倒する亭主に冷たくあたる。

考えてみると不思議である。仮に、お熊が亭主を本当に大事に考えているならば、商人が飲み残した毒入りのたまご酒を残したまま、外出するだろうか。主人が帰宅して誤って飲む可能性があるのだ。そう考えると、亭主が誤って飲むことを、無意識のうちに期待していたのではないか。亭主を思いながらも、冷たい顔を持つお熊、悪女・毒婦とする方が私には説得力がある。

なお、「鰍沢」のサゲは、あまり上手くない。商人は、たまご酒に入っていた毒を、“毒消しの護符“で解毒し、「南妙法蓮華経」とお題目をとなえながら雪の中を逃げる。鉄砲を持ったお熊が追いすがる。商人の眼下にあるのは鰍沢の急流。万事休すとなった商人は急流に飛び込むが、山筏の上に落ち、こわれた筏の丸木にしがみつき一命を取りとめる。「一本のお材木(=お題目)で助かった」という地口落ちである。きれいなサゲではないが、こればかりは変えようにも変える余地がない。

「鰍沢」は名作なのだろうか。

名作・大ネタと言われる落語は多々あるが、「芝浜」「文七元結」「鰍沢」、今でもよく演じられる作品には、どこか無理がある。むしろそのことが作品に幅を持たせ、多くの落語家の創造・工夫をかきたて、聴くものを楽しませてくれる。落語における「名作」は、多少の無理が重要な要素なのではないかと思った。ただし、その「無理」を料理できないと感じた演者は持ちネタとしない。古今亭志ん朝も「鰍沢」は演らなかったのではないか。私の知る限り、市販されている音源はない。

一方で、「鰍沢」は「芝浜」などのような感動の要素は全くない。その代わり、雪の夜、民家における奥熊と商人のやり取り、誤って毒を飲む亭主の姿とお熊の反応、そしてクライマックスの逃げる商人と追いかける鬼女のようなお熊と、話芸・至芸を魅せることのできる要素が詰まっている。

と言うことで、「無理」があって、これだけ私を楽しませてくれている「鰍沢」はやはり名作である



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