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立川談春独演会@有楽町朝日ホール(その1)〜“いままでの『芝浜』編“

「芝浜」という落語には、多くの落語家が向き合ってきた。私も、様々な録音や舞台に接してきた。ただ、好きな噺かと聞かれれば、多分「大好きではない」と答えるだろう。立川談志、年末恒例のよみうりホール。2006年は、定番の「芝浜」を演らず「文七元結」を口演したが、私はそれを喜んだ。(翌年の「芝浜」は伝説の高座となったが、私は行かなかった)

弟子の立川談春も「芝浜」に取り組み、私は2018年、新宿文化センターで聴いた。(前半の「鼠穴」が素晴らしかった)そして、今年は「いままでの『芝浜』、これからの『芝浜』」と題し、2週にわたって演じる。

「芝浜」、簡単に内容を紹介すると、腕の良い魚屋勝五郎(名前は演者によって異なる)は、酒で身を持ち崩し商いをサボる毎日。ごうを煮やしたおかみさん、早朝勝五郎を無理に起こし、芝の魚河岸へと送り出す。ところが、時間を間違えて起こしており、問屋は商売を始めていない。勝五郎は時間つぶしのため、芝の浜に出るのだが、海辺で革の財布を拾う。中には大金が入っている様子。

あわてて家に戻った勝五郎、妻とともに財布を開くと中からは大金(談春の口演では四十二両)が。有頂天になった勝五郎は友達を集めて大宴会。酔っ払って寝てしまう。拾ったお金を使い込んでしまうと大きな罪になると心配した妻は、目覚めた勝五郎に、財布を拾った夢を見たのだと丸め込む。

改心した勝五郎は酒を断ち商売にせいを出し、家庭の財政事情も改善、数年経ったある大晦日。おかみさんは、ずっと嘘をついていたことを打ち明ける。


問題は2つ、財布を拾った事実について“夢“だったと説得することなどできるのか。天国から地獄に落とされた勝五郎が、突然改心することなどあり得るのか。

たかが落語なのにと思われるかもしれない。落語の世界は、フィクション以上のフィクションがほとんどである。しかし、「芝浜」は人情噺であり、人を感動させるためには、一定のリアリティーが必要なのである。

「芝浜」を名作に作り上げた、三代目桂三木助は文学的とも言える表現によって、古今亭志ん朝は舞台上の芝居のように演じることにより、上記の2つの問題を聞き手の意識の外に追い出し、話に説得力と感動を植えつけた。共通するのは、亭主を再生した賢妻である。

これに対し、立川談志はおかみさんの造形を深掘りし、夫婦の関係をこれでもかと演じ、人間性に基づくリアリティーを形成しようとした。立川談春のアプローチも、師匠と同様で、おかみさんのパワーで夢だと説得する。ただし、細かい演出は独自のものである。

例えば、談志は勝五郎が財布を拾う場面を演じるが、談春は志ん朝同様にそこはカットし、おかみさんが時を間違ったことに気づくモノローグを挟む。あるいは、話の最後、除夜の鐘が印象的な背景となるが、談春はそれを際立たせるために、勝五郎とご隠居(財布の一件で妻が相談する相手)との会話を入れる。

なお、勝五郎が改心できるのかという疑問に対しては、ギャンブルに溺れた自身の過去を基に、「落語に、あるいは魚屋の仕事に打ち込むことによって、抱えている問題を一時的にでも忘れようとしたのだろう」と語る。

談春の“いままでの“「芝浜」は、小説的とも感じるほど、夫婦の関係性がえぐられ、熱量たっぷりの口演だった。ただし、その中にも談春的な様式美を感じる場面もちらほら見えた。(畳を新しくしたり、笹が触れ合ったりはしないが)

談春は「守破離」という言葉を引用していた。師匠を忠実になぞり(守)、自分なりに変化させ(破)、そして最後は離れる。また、中村勘三郎と談志とのやりとりを紹介し、いかに談志が古典を好んだかと話した。

来週は、“これからの「芝浜」“である。談春は談志から離れるのだろうか


なお、開口一番に立川こはるが「芋俵」を演じた。来年5月5日は真打昇進。おめでたい、また一人注目すべき女性落語家が世に羽ばたく。

談春の一席目は、大師匠、柳家小さんの十八番「うどんや」。寒い冬の夜の情景を、世俗画のように描き出す。毎回思うが、談春は上手い


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