ショートショート 1分間の国 ◎【罵倒観音】



 福ちゃんが駅裏のレストランバー〈ROMERO〉にやってきたのは、一昨年の初夏のころだった。


 その4階建ビルの1階と2階にはテナントとして美容室と事務所が入り、〈ROMERO〉は3階、そして4階にビルのオーナー兼〈ROMERO〉店主のショウさんの住まいがある。


 むさ苦しい四十がらみの大男、ショウさんとはまるでチグハグな漆喰の瀟洒な外観は、人形のように可愛らしい福ちゃんが居着いてようやく本来あるべき姿にピタリと収まった感じがした。


 おそらく少なくとも10は歳の離れたショウさんと福ちゃんがどこでどうやって知り合ったものか、〈ROMERO〉の常連客のあいだでも一時期ひとしきり話題になったけれども、ショウさんも福ちゃんもそんな詮索好きな野次馬の好奇心に応えることはなかった。


 結果として2人をめぐる無責任な憶測や噂はあっけなく鎮まったけれども、それにはもう1つ理由がある。福ちゃんの言葉があまりにも激しく容赦ないのだ。なにか気に入らないことがあれば可愛らしい顔からは想像もつかない悪意に満ちた罵倒を連発する。そんな、まるで常軌を逸した福ちゃんを陰に回って鬼ちゃんと呼ぶ客まで出る始末だ。


 福ちゃんの罵倒やいいがかりはもっぱらオーナーで店長のショウさんに向けられる。カウンターの向こうでひたすら大きな体をすぼめてなすすべなく、罵詈雑言に耐えているショウさんの途方にくれた顔を見るのは辛かった。


「善人ヅラして、でっかい善人ヅラしていい気になりやがって。おまえがお辞儀をしたら風圧で前の人が飛んでいくんじゃないか」


「そんなだらしない体、堂々と世間に晒して恥ずかしくないかなあ」


「考えているフリはやめろ。バカはどうしたって、いつまで、どこまでいったってバカなんだよ」


 こんなふうに、腹を立てたそもそもの原因はいつのまにかどこへやら、あとはひたすら悪口三昧をいい募る。体に似合わず人一倍やさしいショウさんの面目、いやときには人権までもズタズタにされてしまう。


 そんなところへあろうことか「ふたりはいつ知り合ったの」などともち出すのは、いや「ふたりはご夫婦なのですか」と尋ねることすら火薬庫でファイアーダンスを踊るくらいの愚行であり、この問題に触れることは〈ROMERO〉における絶対のタブーなのである。


「ミツオ、オレたち昨日入籍したんだ」


 翌年の正月が明けた雪の日、ショウさんが店にやってくる私を待ち構えるようにして照れ笑いを見せたとき、申し訳ないけれども私は愕然とし絶句した。失礼ながら福ちゃんとどんなふうに縁を切るかがこれからのショウさんの懸案だとばかり思っていた。


 ショウさんはそんな私の気持ちなど忖度なしにカウンターの上でいつものビールを注いだ掌をくるりと返し、銀色に光る結婚指輪を見せてくれた。というか見せびらかした。


 シンプルなかまぼこ型リングはショウさんの太く節ばった指に頼りなく映ったけれども、福ちゃんの怖さを知っている私には一生を繫ぎ止める鉄枷のような凶々しさを湛えて見えた。


「うわっ、……それはおめでとうございます」


 ようやく平静を取り繕ってビールグラスを持ち上げ乾杯した。詳しいことはショウさんのほうから話してくれるまで待つことにした。なにしろこの結婚にどういう経緯や事情が潜んでいるのか皆目見当もつかないのだから。


 結局、ショウさんからそれ以上の情報を得ることは最後までなかった。


 それからさらに数日経った夕方、自宅がある4階から店に降りてきた福ちゃんは胸に子犬を抱いていた。フワフワした純白の毛のかたまりのその小さな生きものは、まるで福ちゃん本人の一部のように美しく可愛かった。


 福ちゃんはララというその子犬にベタ惚れのようで、しきりに耳元に話しかける。客が犬種、年齢あるいは月齢などを訊いてもまったく上の空で、腕の中の白いフワフワになにごとか語り続ける。


 福ちゃんは人とは話さないけれども犬とは話すようになっていたのだ。あのときララになにを話していたのか、いまとなっては知るすべもない。


 犬を飼うというのはよい思いつきだと思った。相変わらずショウさんへの罵倒と罵詈雑言は続いていたけれども、それが爆発する回数は明らかに減った。


 ショウさんと福ちゃんは、ショウさんの賞賛すべき忍耐強さがあれば、いつか穏やかな思いやりに満ちたパートナー同士になれるかもしれないと思った。


 しかし悲劇は突然、唐突にやってくる。


「福さん、きっと幸せだったですよ」


 慰めの言葉をひとつだけ心づもりしていたけれども、しかしそれすら棺の前で憔悴しきっているショウさんにかけることはできなかった。


 〈ROMERO〉の近所の小さな斎場で行われた葬儀に参列者は少なく寂しかった。くも膜下出血でのあまりに突然の死とはいえ、福ちゃんの身内もひとりもいないようだった。


 棺の中の福ちゃんはバラの花に囲まれて、お姫さまかマリアさまか観音さまかのように神々しく綺麗な顔をしていた。蒼白な頬や薄い瞼は透き通るようで、もしかすると自分がいま死んでしまっていることもわからないのではないか、と妙な連想をするほど美しかった。ほんとうに宝石のようだった。


「……福、ごめんな。……おまえのこと、最期の最期までわかってやれんくてな。ごめんな」


 思いがけず隣に座っているショウさんの消え入りそうな声が聞こえて、その切ない嘆きに触れた途端、私も涙が堪えきれず、いったんショウさんの傍を離れようとしたとき、また声が聞こえた。


「なにをいつもそんなに怒って怒ってしてたの、……。なんでよ。なんで怒ってばかりいたの。……、なにがイヤだったの。どうして話してくれなかったの」


 とうに異変を察知しているララがショウさんの周りを際限なくぐるぐる回り続ける。かけがえのない福ちゃんの形見だけれど福ちゃん自身のようでもあった。


 しかしこれからまだ弔事は続く。通常に戻って店を開けたとしても、ひとり暮らしになったショウさんにララの世話はたいへんだろう。


 私には家族があるから手伝えることがあればそうしたいと思った。長い付き合いの地元の後輩として、それくらいのことはさせてもらってもバチは当たらないだろう。


「よかったらしばらくウチでララちゃんの世話を見させてもらえますか」


 ああ、うん、と小さく頷いたショウさんの前にちょうど走り寄ってきたララを両手で慎重にすくい上げ、胸に抱いた。小さな黒い瞳を見ていると、フワフワの小さく柔らかな体からかすかな温かさが伝わってきた。人間はなんて孤独なのだろうとふと思った。


                              (了)



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