知識【くらしかるブッディズム】vol.8
【くらしかるブッディズム】は、昔から使われてきた仏教の言葉を、いま再び見つめ直すコーナーです。
第8回は、「|知識《ちしき》」です。
「知識」ってなんでしょう。いろいろな情報を集めて、自分のなかに吸収したものが「知識」という感じでしょうか。
私は新しい研究テーマを見つけると、とりあえず関連していそうな本をたくさん読みます。そうして、だんだん考えがまとまってきたと「感じた」ところで、いざ発表資料を書くぞ!と意気込むんですけど、全然言葉が出てこなくてがっかりすることがよくあります。誰かの知識を吸収して自分のものにするのは本当に難しいです。
『広辞苑』(第6版)には、「知識」という言葉について次のように書かれています。
一方、「情報」については、次のとおりです。
この説明からは、「情報」にもレベルがあるということが読み取れます。
「信号が青から赤に変わる」というのは、単なる視覚情報です。
しかし、信号の色が青から赤に変わるのは、横断歩道を渡る人に「止まれ」と「知らせる」ためです。
したがって、信号が青から赤に変わるという視覚情報を得るだけでは実は不十分で、「赤信号のときに横断歩道を渡ると車に轢かれる危険性がある」という情報も得ていないと、安全に暮らしていくことができません。
ですから、まだ交通規則を知らない小さな子供には、大人が「信号が赤になったら横断歩道を渡ってはいけない」という知識を伝えなければなりません。これは、道路を横断する際に正しい判断をするための大事な情報でもあります。
ここで、私なりに「知識」と「情報」について整理してみました。
「今の世の中には情報が溢れている」と言うときの「情報」とは、「メディアが発信したり、インターネットを通して我々が触れることのできる自分以外の誰かの知識」を指しているのであって、決して「五感をとおしてもたらされるもの」としての「情報」ではないでしょう。
つまり、「今の世の中には情報が溢れている」ということは、「今の世の中には誰かの知識が色々な媒体によって大量に伝達され続けている」と言い換えることができそうです。
そう考えると、「知識」とは常にその持ち主である「人」とセットなのかもしれません。
仏教の言葉に、「善知識」というものがあります。これは、「善良なる知識」という意味ではなく、「善き友」という意味になります。もっと詳しく言うと、「正しい法を説き、仏道に入らせ、悟りへと導いてくれる人」のことを指します。お釈迦さまは最高の「善知識」であると言えますね。
初めてこの「善知識」という言葉に出会ったときは、「人なのに知識と呼ぶなんて変な感じだな」と思っていましたが、今はすんなり受け入れられるような気がします。
「善知識」に対して、「悪知識」という言葉もあります。これは、「悪しき友」という意味で、「邪な法を説き、人を間違った方向へ導こうとする人」のことを指します。
これら「善知識」と「悪知識」は正反対の人ではありますが、果たして私にこの「善悪の違い」を正しく見極める力があるかというと、それは非常に難しいのではないかと思います。
「正しい法を説き導いてくれる人」の言葉が、耳ざわりの良いものとは限りません。逆に、「邪な法を説き間違った方向へ導こうとする人」は、私がいま欲しがっている言葉を次から次へと与えてくれるかもしれません。
せめて、「より良くなるための選択が現状に比べて楽なはずがない」という現実を認めるほんのちょっとの強さと、「私はいつだって間違った方向へ進んでしまう可能性がある」という緊張感だけは持ち続けていたいですね。
そして、自分の判断を信じることのできる「自信」の方も、少しずつでも手に入れていきたいなあと思います。
今回の【くらしかるブッディズム】は以上になります。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
それでは、また。
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